第5回 転校生は唇を甘噛みし、ブラッドベリに思いをはせる

 人間は恥辱に耐えなくてはならないときには唇を噛み、笑いをこらえたいときにはその内側を噛むとよく言います。

 それでいうと、唇の内側と外側を同時に噛みしめるという器用な真似をしなくてはならないときは、その二つの感情にかられているということになります。

「えー、今日からこのクラスの仲間になる榎本君だ。みんなよろしく頼む。そいじゃあ自己紹介を」

 黒板に書かれた「榎本ジュン」の文字の前に立っていたときの潤が、まさにそうでした。彼は教師にうながされて半歩前に出ながら、

(な、何で僕がこんな目にあわなきゃならないんだ。いくらこうするしかないといっても、これはひどいよ。ひどすぎて笑えてくる。タハハハハ……)

 そう心の中で嘆きながら、唇を内から外から甘噛みしていたのです。ですが、それも無理はないことでした。

 ――彼の前には、これからクラスメートになる男子生徒と女子生徒が適度にシャッフルされつつ、まっすぐにこちらを見つめています。ふつうの転校生だって、ついついひるんでしまうところでしょう。

 まして潤は、地下にもぐった正義の組織・憲法擁護局の証人保護プログラムによって、肉体的には完全に女性に変身しています。でも内面はごく平凡な男子高校生のままなのです。

 ですから、自分を同性として見つめる女子生徒はあくまで異性であり、一方、恋愛対象ないし性的欲望を向ける相手として自分を選ぶかもしれない男子生徒は、あくまで同性としか思えないのでした。

 編入先が女子高だったらどうだろう、と潤は考えました。純粋の女の園に単身入ってゆくよりは共学の方がまだましなような気がしていたのですが、これはこれでなかなかスリリングなことになりそうでした。

「えっと、わたし榎本ジュンと言います。趣味は映画を見ることで、それから……」

 彼はブレザーの制服のふくらんだ胸元と、可愛らしいリボンタイをかすかに震わせながら、本来の自分と女子高生としての自分を何とかすり合わせつつ自己紹介を試みました。

 とにかく、ツッコミどころとなりかねない具体名を出さずに説明するというのが至難の業で、

「あと小説なんかもけっこう好きです。……というわけで、これからよろしくお願いします!」

 これだったら女の子っぽいかなと、レイ・ブラッドベリあたりの名を出そうとして思いとどまったりして、ペコリと頭を下げたときにはかなり消耗していました。

 予定よりスピーチを短めに切り上げたのは、そうしたことに気をつかったからばかりではありませんでした。ズボンとは違って、膝のあたりからどんどん外気が入ってくるのに、おろしたてのランジェリーに汗がにじむようで、気が気ではなかったからです。

「よし、じゃあ、榎本君はそこの空いた席へ……まわりの連中、面倒見てやってくれよ」

 教師の事務的な声に、潤はギクシャクと昔の侍のようにナンバ歩きをしながら、指示された席に向かいました。いつも、漫画などで転校生が、現実の教室にはあったため市のない「そこの空いた席」につかされるのを不思議に思っていましたが、やっぱりあるんだ……などと、とりとめのないことを考えながら。

 ――榎本潤が、こんな思いをしてまでこの高校に通うことにしたのは、彼の身を守るための証人保護プログラムの一環でした。

 本来の自分とほぼ同年輩の少女として生活するに当たって、以前と同じ高校生として学校に通った方が目立たず埋没することができます。それに今後の人生を考えれば、かりに元の自分にもどれるとしても、その方がいいという判断からでした。

 ちなみに護憲局のスタッフが用意してくれた女の子としての立場は完璧で、今後一生女性で過ごすつもりだとしても問題はないだろうとのことでした。

 それにしては「榎本ジュン」という名前は本名そのままで大丈夫かと思うのですが、どうやらこの方が彼と彼の両親を襲ったものたちにとって盲点に入るだろうとのことでした。まぁその方が、作者も読者もわかりやすくていいですが……。

 とにかく潤は、多少カクカクプルプルと震えつつも、女子高生としてのデビューを何とかやりおおせました。そして――。

「ふぅ、疲れた……」

 潤はトイレの個室にこもると、ようやく一息つきました。そこは校舎のやや外れにあって、珍しく人気のないのが彼には救いでした。

 というのも、当然の生理的要求の結果として、教室と同じ並びのトイレに行こうとしたのですが、そこは当然のように女生徒たちの社交場となっていて、個室にたどり着くまでに、おしゃべりという名の心理戦がひとくさりふたくさり繰り広げられるのは避けられそうになかったからです。

 いやまぁ、潤の本音はきわめてシンプルなものでした。すなわち、

(入っていけるか、あんなところへ!)

 彼を救った組織が独自に開発した証人保護プログラムは、それはもう入念に考えられたもので、たとえば潤にとっては生まれて初めて持つ黒髪ロングのヘアをどう扱ったらいいか、朝のお手入れから入浴時にはどうまとめればいいかまで、微に入り細をうがっていました。

 あまりの面倒さに、いっそ切ってしまおうかとも思いましたが、その髪形がよく似合う、清楚でありつつ庶民派で秀才委員長タイプ一歩手前の外見は、キャラ的に潤の好みで、捨て去るには惜しいので思いとどまったのでした。今や、お風呂の前にちょいちょいとまとめたり、タオルでくるむしぐさも堂に入ったものです。

 しかし、今からやろうとすることについてはまだ不慣れで、

(おっとっと、男のときみたいにズボンを下ろしたら床についちゃうし、かといって便器に触れても困るんで、こうたくしあげて脇にはさんで。でもパンツだけは下におろして……なるほど、合理的だけど、女の子たちはみんなこんな不便なことしてたのか)

 一つ一つ頭の中で手順を再現しながら、とにかくこうしたことを全てスムーズにできるようにならねばと考えていました。いま脱いだ下着をパンティとかショーツと呼ばないのもその一つです。

 そうなったらなったで問題がなくもありませんが、潤にしてみれば全てが大変だけど新鮮で、全てが男と違う楽しさ心地よさに満ちている感じがしたのです。

 そういえば、このブレザーにリボンタイ、プリーツスカートという制服一式にローファーシューズを初めて試着したときには、何とも複雑な感情が渦巻いて、今朝どころではなくカクカクプルプルとした震えが止まらなかったものですが、えらいもので今日一日ですっかり平気になってしまいました。

(何でもこの調子だ、全ては慣れなんだ……)

 潤は、目の下にのびる一対の白い脚を自分のものでないようにながめながら、決意を固めるのでした。

 大入り満員の女子トイレにも明日はきっと入っていけるでしょう。いや、入って会話に参加しなければ――そう悲壮な決意を固める潤なのでした。

 その後、これもプログラムにあった「レストルームにおける作法並びに器官の使い方」に沿ってするべきことをしたのですが、これに関する慣れの方がより喫緊だったかもしれません。何しろ、最初にと遭遇し、その構造についてレクチャーを受けたとき、潤は十九世紀ヴィクトリア朝時代の貴婦人のごとく卒倒しかけたのですから。

 いまだにそのショックを克服しきれない潤は、なるべくそちらの方は見ないようにしながら、

(とにかくがんばるんだ、父さん母さんを救い出すまで……そのためだったら、どんなことだってやる!)

 そう心に叫んだのでした――その決意を新たにするとともに、女の子とりわけ女子高生でいることがちょっと楽しくなっている自分を断固として否定すべく。


 父と母がなぜ姿を消さなくてはならなかったのか――その巻き添えで自分が、こんな姿になりすまさなければならなくなったかについては、あらかた見当がついていました。

 その内情を詳細に語るときりがないので、簡単に言ってしまえば、父は自分の仕事に嘘をつき、同僚や部下に責任を押しつけることを拒否したからでした。正しい数字を数字のままに、実際にあったことを実際のこととして記録し報告しようとしたからでした。

 これまでは当たり前だったそうしたことが、あるとき変わってしまったのです。どんな仕事でも守られてきた一線、侵せなかったプライドがいともあっさり踏みにじられたのです。

 潤の父親はそんな中で、孤立させられ追いこまれていきました。実は、労働者の圧倒的多数は、単に上司や雇い主が正確さや誠実さを求めていたからそうしていただけだったのです。そして、ついに……!

(だとしたら)潤はあらためて思うのでした。(僕は父も母も恨まない、迷惑だとも思わない。だとしたら、やるべきことははっきりしている。それは……あの人たちといっしょに戦うことだ)

〝あの日〟を境に、潤の父やその他の人々に災厄が訪れたとしても、それはゆっくりと忍び寄る感じのものでした。一方、その瞬間から立場が激変し、どん底にたたき落とされたのが、あの日本版BfVベーエフファオの人々だったのです。

 何しろ彼らが必死に、しばしば体を張って守ろうとしてきたものが、新しい権力者たちにとっては目の敵。となれば、どんな手を使ってでも滅ぼさなければなりません。

 しかし、〝ボス〟を筆頭とする憲法擁護局の人々は、いちはやくその動きを察知し、身を隠しました。かくて彼らはともいうべき存在となり、その救援活動の一環として、榎本潤は黒髪ロングの女子高生となり、襞々のスカートの裾をひるがえす身となったわけでした。

 潤はふと、レイ・ブラッドベリのある短編を思い出していました。

 それは、地球を侵略し、完全勝利した宇宙人がいざ進駐してみると、人類は全員自殺していた。彼らの肉体が目当てで、それがなければ早晩絶滅してしまう宇宙人たちは絶望して去ってしまうのだが、実は地球人はとんでもない形で生存していて――という物語でした。

 そのお話の中で余儀なくされる変身と、今のだったらどっちを取るかと、もし訊かれれば、

「それはもうTSだしJKだ! だから多少の不便や混乱はあっても、この姿で生きのびよう!」

 潤はパンティ――じゃないパンツをずり上げつつ、押し殺した声ながらそう誓ったことでした。

 次の瞬間、ハッと身じろぎしたのは、今のつぶやきがいささか大きすぎたのではと危ぶんだのと、もう一つ理由がありました。

(何だろう、今のは?)

 潤は耳をそばだて、そっと立ち上がると、戸口のあわいから視線を挿し入れました――個室の外で起きた何ごとかが何なのかを知るべく。

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