第10回 コードネームはT.S.J.K.  

 榎本潤は走っていました。どこまでも続く迷路のような街並みを、自分以外には人影どころか生けるものの気配すらない、どこか映画のセットを思わせる作り物めいた風景のただ中を――。

 その必死さは、まるでゲームの世界に取りこまれた女子高生が、必死にゾンビだかモンスターだかから逃れようとしているかのよう。

 でも、決してそうではなかったのです。潤が踏みしめる地面も、ときに手を突き、身を寄せる壁も、確かにそこに存在しており、リセットボタン一つで消えるものではなかったのです。

 潤の顔つきもまた、真剣そのものでした。このところ学校生活にもどうやら慣れ、休み時間など躊躇なく女子トイレに入って行き、そこでの会話にナチュラルに参加できるようになったのですが、そこで見せる表情とは全く違っていたのです。

 それは〝戦う少女〟の顔でした。にもかかわらず、彼は今、少年そのものでもありました。彼が元の姿であったときよりも、ずっと――。 

 そんな潤の間近で、ふいに動きがありました。壁と壁のあわいの狭い路地。そこを一気に駆け抜けようとする彼のから、ふいに真っ黒な人影が現われたのです。それも、まるで蝙蝠のように逆さにぶら下がりながら!

 それは全身黒装束に包まれていることもふくめて、まさに巨大な蝙蝠でした。どうやら左右の壁にわが身をはさみ、宙ぶらりんになりながら獲物の来るのを待ちかまえていたらしいのです。

「化け物め!」

 潤は吐き棄てるや、とっさに身を躍らせました。と同時に、蝙蝠の手の中で閃光と火花が弾け、たった今まで彼がいた場所にいくつもの弾痕をうがちました。どうやらその蝙蝠は腕に軽機関銃でも仕込んでいるのかもしれませんでした。

 めまぐるしく転がりながら、潤の右手は素早く動いていました。その白くやわらかな手のひらに包まれたものから、光と音のスタッカートが刻まれたとき、黒い蝙蝠は巨体を大きく痙攣させ、そのまま路地へと転落してしまいました。

 潤はただの物体と化した相手に目もくれず、そのまま姿勢をかがめ、まっしぐらに路地を走りだしました。そう、勝負はこれで終わりではなかったのです。

 彼の動きを完全に捕捉しているかのように、さっきの蝙蝠とそっくりな黒い影が現われては潤めがけて発砲するのでしたが、彼はそのたび着弾地点を逃れ、さらに迷路の中を突き進むのでした。

 いつしかその顔には、不敵な笑顔さえ浮かんでいました。もし、いつもいじめやタカリのターゲットを探し求めているような輩が、今の潤を見たとしたら、きっと退散していたに違いありません。

 かといって、それは決して悲壮なものでも、ましてや凶悪なものでもありませんでした。その微笑みは、幼いころに夢中になり、やがて実際にはいないのだとあきらめた〝正義の味方〟そのものでした。

 女子高生の姿をした正義の味方は、やがて迷路の路地が交錯し合流する広場に到達しました。と同時に、広場から放射状に広がった路地の入り口の全てに、真っ黒な影たちが姿を現わしました。

 影たちの腕がいっせいに持ち上がり、その先にある銃口を潤に向けました。それらが間を置かず、いっせいに火を噴いた光景は、まるで広場を取り巻く光の輪を描くかのようでした。

 ストロボ撮影のように光と闇がめまぐるしく入れ替わり、むせ返るような硝煙が渦巻く中に、のけぞりながら宙を舞う少女のシルエットが見えました。一瞬を何刻みにも分割したような短い間のことにもかかわらず、それはまるでスローモーションでとらえたかのようにゆっくりと、優雅にさえ見たのです。

 と次の刹那、潤はスタッと地面に降り立ちました。時間の流れはそれがきっかけであったかのように元にもどり、ほどなく硝煙が吹き流されたあとには、驚くべき光景が広がっていました。

 広場の中央に、無傷で立つ潤。軽くもたげた右手に握られているのはワルサーPPKとおぼしき自動拳銃オートマティックです。そして、それをクルリと回転させて隠しホルスターにしまうのと同時に、路地の入り口にずらりと並んだ黒い影たちがクタクタと崩れ、その機械の体に転倒させていたランプの輝きを消していったのでした。

 と、そこへまるで天の声さながら、

 ――訓練終了! パーフェクトだ。

 広場の上方にあるスピーカーから声がしました。

「ありがとうございます、ボス。僕、何とかなってましたか」

 額の汗をちょいと払って虚空に問いかけた潤に、

 ――まぁまぁというところかな。今『僕』と言ったことは減点対象にはしないとしてね」

〝ボス〟にかわって声をかけたのは〝エース〟でした。彼は思わず頭をかいた潤に言葉を続けて、

 ――その銃の使い心地はどうだったね、ジュン君?

「そうですね……映画で007とかが持ってるのを見たときには、ずいぶん小ぶりかなと思ったんですが、意外にそうでもないんですね」

 ――そりゃそうさ。女王陛下の秘密諜報員とふつうの女子高生とじゃ手のサイズが違うもの。しかし、よくやったよ。君のともどもね。

〝エース〟のその言葉が終わるか終わらないかというとき、

「よう」

 と気さくに声をかけながら、この広場に現われた人影がありました。風早マキこと本名・槙でした。

 マキはいつものギャルスタイルにH&Kヘックラー・ウント・コッホ社のUMP45と見られる短機関銃サブマシンガンを肩にかつぐという、なかなかに印象的な姿で、

「そっちはどうだった。おれ……あたしの方も何とかうまくやれたみたい。どっちかというと潤の持ってるようなハンドガンより、こういうごっついやつの方がなじむみたい。何か派手にぶっ放せばぶっ放すほど気持ちよくなってきてさ」

「そうか……こっちも合格点をもらえたよ」

 二人は、にっこりと笑顔を交わし合いました。と、そこへ

 ――おいおい、二人とも。好成績をあげたのはいいが、もうすこしロボット標的をだいじに扱ってくれよ。自走人工知能標的ロボティック・スマート・ターゲットは高いし、今のわれわれは前政権の支持者のみなさんからの秘密の喜捨によって活動してるんだから。そんなに完膚なきまでにやっつけてもらわれちゃ困るんだよ。

〝ドック〟の弱りはてたような声が聞こえてきました。

 潤たちは、その言葉を耳の痛そうに聞いていましたが、やがて男の子のかけらも感じさせない百パーセント女子高生JKの顔と声で、こう元気よく返事したのでした。

「はぁーい!」


 そう……すでにお察しの通り、榎本潤こと女子高生ジュンは憲法擁護局に庇護され秘匿される存在から、そこのエージェントとなりました。それより少し早く同じ措置を受けていた風早マキに続いての起用でした。

(それにしても)

 と潤には不思議でしようがないことがありました。それはマキも同じ思いだったようですが、まだ訓練を受け始めたばかりの自分に、どうしてこう銃火器を鮮やかに扱うことができるのかということでした。その手のものに触ったことがないどころか、これまでミリタリーオタクで会ったこともなければサバイバルゲームの経験もなく、そもそも興味を持ったことすらなかったのです。

 さらに信じられないのは、ここで訓練を受け始めたとたんにわかった自分の身体能力の高さでした。もともと運動神経はいい方ではなく、体育の授業でもなるべく小さくなっていなければなりませんでした。マキはそれよりずっとましのようでしたが、特にそういったスキルはないようです。

 なのに、格闘技や体術、様々な道具を使っての武芸など、ここで要求されるしばしばアクロバティックな身のこなしが、ここではやすやすとやってのけられるのです。まるでスーパーマン、いやスーパーガールに変身してしまったかのように。

 この点はマキも同様だったらしく、女性への改造のついでに身体強化を目的としたサイボーグ化手術でも施されたのではという不安にかられ、その点を問いただしてみました。

 すると〝ドック〟の答えは、こうでした。

「何だ、そんなことを心配していたのか。安心せい、わしは君らの体に証人保護プログラムとして必要な以上の処置はしておらん」

 だったら、僕らはこんなに――? という潤たちのさらなる質問に対しては、

「それは実に簡単な話じゃよ。むしろ若いお前さんたちの方がとっくにわかってると思っていたが……いいかね、お前さんたち二人は世界最先端のさらに先を行く医療技術によって、完璧な女子高生に変身した。頭のてっぺんから爪先までもな。一方、女子高生こそは最強の、万能にして無敵といった存在じゃ。人生のうち最も輝き、栄光に包まれている期間といっても過言ではない。君たちは健全な男子でありながら女子高生になった。であるからには、銃を撃っては百発百中、智謀に恵まれたうえに、群がる敵もちぎっては投げちぎっては投げということができて、何の不思議があるものかね!」

 という、わかったようなわからないような説明が返ってきたのですが、何となく納得できてしまうところが不思議ではありました。

 ともあれ、ここに二人目の男子高校生DK出身のTSJKスパイが誕生しました。

 昼間は楽しいスクールライフを送り、はた目からは普通っ娘とギャルのいちゃついているような両名に、「尊い」と手を合わせられたりの日々。その一方でくりひろげらるハードな訓練を通じて、爆弾のセッティングや解除、ハッキングや果ては金庫破りにまで精通していったのです。

 しかし、それだけで日々を過ごすことはできませんでした。日々、民主主義と法治の破壊、国家そのものの私物化が進む中では、それを押しとどめる戦いもまた際限がないのです。

 この訓練からほどなくして、二人にも大いなるミッションが回ってきました。

 さて、果たしてそれは――?

 

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