第3回 What's Up, T-girl Lilly?
榎本潤は不思議な夢を見ていました。虹色に輝く水のようなものに包まれて、その中をフワフワと浮遊しているのです。
その中に明滅するのは、見慣れた学校やたった今までいたはずの通学路、その他さまざまな日常の風景。それらはまだしも、いつもはことさら思い出すこともない両親の姿がかいま見えるのが変な感じでした。
と……そこへ、どこからか聞こえてきた声がありました。いや、複数の声音が重なっていましたから、むしろ声たちと言うべきでしょうか。
「
「百十三の七十二、脈拍八十三で
「打撲による皮下出血若干、ただし骨には異状なし」
「神経反射、生理反応ともに
電子音のように無機質で、でもどこかに真剣さと温かさに満ちた声。それが自分に向けられたものだと気づいたとき、ふいによみがえった記憶がありました。
そのとたん、虹色の水と明滅する記憶を蹴散らすように飛び出してきた真っ黒な塊! それがあの大型トラックだと気づいた瞬間、塊はこっぱみじんに砕け散り、あとかたもなく消えてしまったのです。
(そうだ、僕はあのとき助かったんだ……)
何とも言えない安堵が、彼の心を包みます。
けれど、そのトラックが蹴散らした懐かしいものたちは、それきり帰ってきてはくれませんでした。そのことになんとも言えない寂しさと、恐れのようなものを感じたとき、またどこかから聞こえてくる声がありました。
「その他顕著な損傷なく、後遺障害の恐れ皆無」
「ほぼ加療の必要なし、心身の疲労回復を要するのみ」
「したがって即日退院し、学校復帰も可能――」
(ああ、よかった。また学校に行けるんだ……)
そのことが、こんなに貴重に感じられるとは思いもよらないことでした。
けれど、その言葉にホッとしたのもつかの間、声たちは奇妙なことを言いだしたのです。
「健康ならびに体力に問題なしと判断し、引き続き手術に取りかかる」
「了解。では、ただちに全身麻酔開始!」
(えっ、えっ、どういうこと?)
とまどい、あわてる潤の体に何かが注入される気配がありました。みるみる遠くなりゆく意識の中で、彼は何かとんでもない会話を聞いたような気がするのですが――。
「まず顔面整形、胸部形成、さらに外性器切除並びに再構築手術にかかる。
(えっ、いま何かヤバいこと言わなかった? どこも悪くないなら何で手術なんかするんだよ。ちょ、ちょっと待ってってば!)
潤はしかし、その必死の抗議を最後までつぶやくことはできませんでした。まるで透明なゴムハンマーで眉間をたたかれでもしたように、コトンと意識を失ってしまったからです……。
*
プツンと断ち切られた記憶がよみがえったのは、それから何十時間かたってからでした。
けれど潤にとってそれはゼロに等しかったのです。何しろ虹色の水に包まれた夢のひとときをはさんで、いきなりあの〝事故〟の瞬間と接続されたものですから、
「!」
いきなりガバッと床から起き上がった潤の衝撃は、一通りではありませんでした。
息を切らし、心臓をドキつかせ、あわててあたりを見回し……ようやくそこが白で統一された病室らしいことに気づくと、ようやく安心したように胸をなでおろし――そこで妙な違和感に小首をかしげました。
(何だ、今の感触は……?)
いぶかしさに潤は眉をひそめましたが、今はそれより考えなくてはならないことが山とありました。
いったいここはどこなのか。自分はあのあとどうなり、今どうしているのか。
そもそも、どうしてあのときあの大型トラックに轢き殺されそうになったのか。あれは絶対に事故ではない。はっきり自分を殺す気だった。自分がそんな目にあわなくてはならない理由がわからないし、寸前でどうして助かったのかもわからない。
そして結局、彼の考えは同じところにもどってきてしまうのでした――ここはどこで、なぜ自分はここにおり、これからいったいどうなるのかということに。
(と、とにかくここでいつまで寝てはいられない。せめて父さん母さんに連絡しなくっちゃ)
潤はシーツをはねのけ、立ち上がりました。そのとき初めて、自分が患者衣というのか薄いガウンのようなものを着せられているのに気づきました。
ズボンの部分はなく、裾が長く垂れているのが男物ではないようで、ちょっと違和感がありました。けれど、そんなことを気にしている場合ではありません。
病室はかなり広く、あるのは自分が寝ていたベッド一つと、あとは最低限の調度だけ。たった一つしかないドアに駆け寄ると開けようとしましたが、鍵がかかっていてビクともしません。
そのときまた、さっきとは別の違和感を覚えました。髪の毛がバサリと額から頬に覆いかぶさるうるささは、これまで経験したことのないものでした。
あれ、僕こんなに髪の毛が長かったっけ……と手をやってみてびっくりしました。長いどころではない、彼の髪は肩をはるかに越えて、背中の半ばぐらいまで達していたのです。
(え、これはどういうこと……?)
思わず触れた黒髪の手ざわりの良さに、思わず見つめた自分の指までが、記憶の中とは違うようで、ますます怖くなりました。もともとそんなにゴツゴツしている方ではありませんでしたが、にしてもこんなに白く細かったでしょうか……。
自分の体が前と変わってしまっている? まさかそんな、いや、そういえば……?
「そうだ!」
と声に出してまで言ったのは、あの目覚めて最初に違和感のことを思い出したからでした。その違和感――胸のあたりに感じる奇妙な、しかし否定しようのない重みが、またしても強く感じられたからでした。
「!!」
それ――むしろそれらというべきでしょうか――は、そこにありました。患者衣の前あわせからはっきりと、そしてふっくらと存在を主張しつつ……。
(何でこんなものが自分の胸に!?)
混乱と衝撃のあまり、思わず体をかしがせた潤は、身を支える場所もないままオットットと病室のフロアをよろめいていきました。履いているのは薄っぺらなスリッパ、床面はピカピカツルツルとあっては、ちょっこらちょっとブレーキをかけるわけにもいきません。
ようやく手を突くことができたのは、部屋の一隅に据えられたテレビ台。その上に載せられた大型ディスプレイが鏡がわりになって、彼の顔を映し出しました。
「!!!」
画面の中にいたのは、彼と同じ年ごろの少女でした。髪は長く黒く、眉も目もキリッとして、小ぶりな鼻も唇もくっきりと彫りつけたよう。ですが、そこには今、まぎれもない驚愕と畏怖が刻まれていました。
しかも、それは潤自身が驚き恐れるのと同時でした。あたかもガラスの中の少女は、潤を見た結果、そうなったのかのように――でも、本当にそうだったのでしょうか。
潤はさらに大きくよろめき(すると少女もそうするのです)、台の上に置かれたリモコンをつかんでしまいました。そのとき偶然スイッチが入ったと見え、少女の姿はかき消え、かわって何やら派手でやたらと明るい音楽とともに、見たこともない映像が始まったのです。
presented by
BUREAU FOR THE PROTECTION OF THE CONSTITUTION OF JAPAN
最初に現われたのは、重厚でかっこいいロゴマークに重ねられたものものしい文字列でした。そして、それに続いて――
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