第6回 ギャルの目にも涙またはレストルーム・ソサエティ
個室の外から聞こえてきたもの――それは明らかに少女のすすり泣きの声でした。
ほかの個室からなのか、洗面スペースにいるのか。とっさにはどちらか判断がつかず、戸のすき間からは何も見えはしませんでした。
ですが、最初はただの泣き声だけのように聞こえたのが、しだいに次のような言葉が聞き取れるようになったのです。
「そんな、ひどい……いくら本省の人たちだって、お父さんにそんなこと言う権利なんかないでしょう? えっ、だったらうちの社屋も社有地も召し上げて出て言ってもらうって……ううん、そんなこと絶対にさせない!」
独り言としては変でしたから、どこか――おそらくは彼女の父親と通話していたのでしょうが、その内容は実に異様なものでした。
「私の身を心配して譲歩しても無駄よ。どうせ相手の目当ては私なんだから……そうでしょ? なら私が直接話をする。いくら『帝国会議』とか言ったって、そんなの怖いもんか!」
たぶんそこで電話を切ってしまったのでしょう、それきり少女の声は断ち切るように途絶えてしまったのですが、潤にはその一番最後の単語が引っかかりました。
――帝国会議! それは今のこの国の隅々までも支配していると言われるカルト団体でした。日々の報道にも学校の教科書にも影響というより干渉を加え、やたらと明治維新をほめたたえるドラマが作られるのに、佐幕派や自由民権運動の立場からの物語がほとんどなくなったのも、戦争に批判的な映画がテレビ放映される際、差し迫った必要もないのに逆L字形の気象警報が画面にかぶせられるのも――全て彼らと彼らに媚びへつらうものたちのしわざなのです。
そして何より、憲法擁護局にとっては屈指の仇敵。〝ボス〟〝ドック〟〝エース〟らが地下に潜らなければならなくなったのも、潜ってなお戦わなければならない理由の一つでもあったのです。
まさか平凡な女子高生として潜伏生活を送るはずの、しかもトイレの個室でその名に接しようとは――数奇な運命に振り回されっぱなしの潤にしても、思いもよらないことでした。
とにもかくにも、ただごとではない会話の内容でした。
どうやら声の主の父親が、「社屋」と言い「社有地」と口にしているところからすると、会社経営者らしいのですが、「本省」なるところから脅かされて、その地位財産を失いかねないところに追いこまれているらしい。
父が公の仕事をしていて、そのせいで災難に見舞われたことからすれば、とりわけ「本省」という言葉に彼が強く反応したのは当然のことでした。
しかも、声の主――おそらくは同じ学校の女生徒――自身にも魔の手は迫っている。となれば、傍観しているわけにはいきませんでした。
潤は身支度をととのえると、思い切ったように立ち上がりました。水を流せば、そこにいることがわかってしまいますが、それはかまいませんでした。まあ、流さず放置しておくわけにもいきませんし……。
むしろ、この場にいてあの涙ぐむ声を聞いたことをアピールするかのように、堂々と個室から出ました。
ほぼ同時に、別の個室のドアが開閉する音がして、パタパタという足音も聞こえたものですから、そのまま見失ってしまうかと少し焦りました。
案の定トイレ内にはもう誰もおらず、潤はあわてて後を追おうとしたのですが、そこで危うく誰かにぶつかりそうになりました。
「あっ……ごめんなさい」
とっさのことながら、せいいっぱい女の子っぽく謝罪の言葉を述べたあとでハッとしました。 そこに立っていたのは――いわゆる、と言うか典型的な〝ギャル〟でした。
背はすらりと高く、輝くような明るい色に染めた髪を高く結い上げ、波打つようなサイドヘアを左右に垂らしています。ブレザーの前ははだけ、潤は律義にスカートの中に収めているワイシャツの裾を無造作に出していました。
何よりの特徴は、やや吊り気味で切れ長の目でした。そこからは、強くはっきりとした意志が放たれているかのようで、たとえその派手な容姿をからかうものがあったとしても、男女ともに一瞥で黙らせてしまうぐらいの迫力は十分にありました。
潤にとっては、少年時代(一般的な意味からはちょっと変わってしまっていますが)から一番苦手なタイプの女子。まして今の黒髪ロング清楚系の榎本ジュンにとっても一番相容れないはずのカテゴリに属していましたから、
「あ……じゃね」
とか何とか口の中で適当に言って、早々ここを退散すべきところでしたが、あいにくそうはならなかったのです。
「何だ、今朝の転校生ちゃんじゃん。あたしわかる? つっても、まだ自己紹介してないからわかるわけないか」
どこか辛辣な、でも意外なほどの温かみをふくんだ、口調でニヤッと笑いかけてきたのでした。
「あの、ひょっとして同じクラスの……?」
潤はおずおずとしながらも、いかにもギャルなギャルに向かって言いました。
名前こそまだ知りませんが、制服を着崩した目立つ格好と、派手な顔立ちは、今朝教室に入ったときから目につき、印象に焼きついていました。
「あたし、風早マキ。よろしくね!」
「わ、わたし榎本ジュン……です」
ついつい蚊の鳴くような声になってしまいながら答えると、風早マキはにっこり笑って手をさしのべましたが、
「こちらこそ! と言いたいとこだけど、あたしたちまだ二人とも手ェ洗ってなかったね」
と引っこめてしまいました。
「ほんとだ」
言われて潤もそのことに気がつき、噴き出しそうになりました。はからずもこのとき、潤は女子にだけ許された
それで二人は、仲よく肩を並べて隣同士の洗面台で手を洗ったのですが、そのとき潤は見てしまったのです――間近に見るマキの横顔、その目元にかすかだけれどはっきりした涙の跡があることを。
潤の視線に気づいてか気づかずか、マキがすぐに指でぬぐってしまったので、それはたちまち消えてしまいましたが、それはついさっき彼女が涙腺から一粒二粒の水滴をもらしたことを明確に示すものでした。
その事実が何と結びつくかは、もう言うまでもありません。
(あのとき僕が聞いたすすり泣きは、彼女の――風早マキのものだったんだろうか? だとしたら、あのしゃべっていた内容もまた……)
その日はそれきり別れたのですが、以来潤は、風早マキのことを意識的に見るようになりました。もし、あの声の主がマキなら――その点がどうもはっきりしなかったのですが――彼女の父親が「本省」と「帝国会議」から何らかの揺さぶりをかけられ、しかも連中の狙いは彼女自身にこそあるというのです。
何とも胸糞悪い話ではありますが、マキの女性としての魅力を考えるとそれもありえないことではありません。ひょっとしてあのギャルギャルしい装いの下に、思いもよらない素顔があるのではないか。メイクでも服装でも隠しきれないそれが、よからぬ奴らを惹きつける結果となってしまったのではないか――そんなふうにも思われるのでした。
このところがややこしいのですが、潤の内面はもちろん高校二年の男の子で、クラスメートの女子たちを見る目も異性としての部分が濃厚に残っています。でも半面、身も心も女子高生ジュンになりきろうと精進する中で、異性であるはずの彼女たちを目指すべき同性として見始めているところもあり、自分でもそのあたりがあやふやになってきつつあるのでした。
(たとえば、あのマキちゃんは自分にとってどちらなのか……いやいや、そんなことより彼女はまず守るべきクラスメートなんだ!)
そんなことをぼんやり考えていた放課後、急に騒がしくなった周囲に、潤はふと顔を上げました。男子どもは野太い声でワヤワヤと、女子連はいつもよりいっそう甲高くキャイキャイとさえずりながら、廊下に面した教室の窓に群がっているのです。
ん、何の騒ぎ? と傾げた首をのばした潤に、
「あ、
これが女子流なのか、すっかりなれなれしくボディタッチしてくる近くの席の女の子が順応強引に立たせ、廊下際まで押して行ってくれました。
潤としては、彼女としては珍しく一人ぽつねんと自分の席で頬杖をついている風早マキの方が気になっていたのですが、せっかくのクラスメートの厚意を無にするわけにもいきません。
彼女がそこまで言い、ほかの生徒たちもあんなに騒いでいるからには、それだけのことはあるのだろうと、人垣の後ろの方から見ていると、やがて一人の少女が取り巻きらしき生徒たちに囲まれながらやってきました。
制服のアクセサリーからして三年生らしいその人を見たとたん、潤は後天的にふくらんだ胸の内でトゥクンと心臓が高鳴るのを感じました。
それは世にも美しい――というより尊く神々しい感じさえする女性でした。凡庸な容貌と美貌の間に差があることはやむを得ない事実ですが、いま目の前を通り過ぎていくその人が、ほかのものたちとどこが違うのか訊かれたとしても具体的には答えられなかったかもしれません。
でも、違うことは確かに違うのです。それどころか天地ほどの落差があるのですが、だからといってうまく説明することはできないのでした。
「
くだんのクラスメートが説明してくれました。たかだか上級生に「様」づけとは変だなとは、そのときは思えませんでした。それほど彼女はその敬称にふさわしかったからです。
クラスメートはなおも、「世梨子様」についてあれこれ語ってくれましたが、潤の頭にはほとんど入りませんでした。
というのも、ハッとしてふりかえったとき、さっきまでいたはずの風早マキの姿がどこにもなかったからです。
(しまった、いつの間に?)
あわてて彼女の席まで行ってみましたが、もうスクールバッグも何も残ってはいません。
「ちょ、ちょっと榎本ちゃん?」
とまどうクラスメートたちの声を背中に、
「ごめんっ、お先!」
そう言い置くと、潤は自分のバッグを手に大急ぎで教室をあとにしたのでした。廊下の奥の方から、また別の教室でワヤワヤキャイキャイというどよめきが起こっているのを気にもとめずに――。
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