蝉時雨5 渇だ


 これが祖母と沙夜の出会い……。

 夢の中の夢から一旦醒めて、意識は夢路の蝉屋に戻る。幼い頃の祖母と今より一際若々しい神はこれからどうなるのだろうか。

「今は今で別嬪だろう?」

「……っ!」

「こちとらなんだ。思考くらいは読める」

 さらりと述べているつもりだろうが、言葉の端々に刺々しさを感じる。気を取り直して私は彼女に問うた。

「この時のあなたは神ではなかったのですか?」

「その辺は色々ややこしくて説明が面倒だな……。端的に言うなら神ではなかった。人と神の間とでも捉えてくれたら良い。というかそんなことを気にする意味はあるか?」

 気怠そうに髪をいじくりながら「神」は答えた。髪の次は爪でもいじりそうなくらい振る舞いに神々しさが感じられない。先の一言余計な思考が癪に障ったのか、少々機嫌が悪い。

 沙夜はぶっきらぼうにたらたら持論を述べる。

「人は己や他者が何者なのかという型に囚われすぎだ。それは信念や矜持といった強さにもなり得るが、視野を狭める欠点にもなり得る。今のこの状況を「神と人の問答」という陳腐で胸が焼ける表現であらわすこともできるが、君はそんなしょうもないものを望むか?」

「いえ……えっと……」

「だったら聞くな。私は、私だ。以上。大体、君だって『田舎住みのうだつの上がらない会社員です』としか言えないだろう?それくらいつまらんことを君は尋ねた訳だから悔い改めなさい」

「最後に神要素をちょっと入れないでください」

 自分が何者なのか……。

 それは以前から気にしていたことだった。

 恋人がいたり家庭を築いていたりする友人達、仕事で成果を挙げる同僚、趣味で輝いている画面の向こうの人々、それらの人々は皆「個」があった。人生において特に目標もなく、ただお金を稼いで何となく生きている自分にはない。死ぬのが怖いから生きているとしか言えない。

 そんな自分が死んでしまったら何が残るのだろうか。何も残るまい。死ぬのが怖いから生きているけれど、死んだ所で何も残らないというのなら何の為に生きているのだろう。私が民話の類に興味をもったのは、古の名もなき人々の声にこの問いの答えを求めたからなのかもしれない。

 そして今、祖母の死に当たって悩みはますます深まるばかりであった。浮世離れした彼女でも死ぬ。しかし、「救いのしいやん」の伝説はこれからも生き続ける。有象無象として消えゆくであろう私とは違う。

「つくづく面倒なこと考えてんだな」

 また思考を読まれた。沙夜はこちらから視線を外し、ティーカップに口を付ける。目線はもう一方の手の爪へ向いている。本当に爪いじりを始めそうだ。

「ええ、考えてもしょうがないことですが大いに悩んでいます。がいれば答えまで導いてほしいものですね」

 私がそう嫌みったらしく言い返すと、雑木林の神は「今の世の中、そういうのはカウンセラーの仕事だ」とあっけらかんと答えた。

 沙夜は取ってつけたように「さて」と一呼吸おいて話題を変える。

「私は出張お悩み相談しにきたんじゃないんだ。先にも話した通り、君のお祖母さんに借りがあるからそれを返しに来た。ただ、何の事情も伝えずにそうしたって君達は困惑するだろうから、こうして過去の出来事をお見せしている訳だ。さっき見せたのは物語の発端、んでこれから本題に入っていく」

「あなたがかつてこの土地を訪れた理由がわかるのですね」

「大方察しているだろうけど、私があそこを訪ねたのは……まぁそれも見てくれたら良いか」

 そう言うと、沙夜は先ほどと同じように甘い声色で「目を閉じて」と囁いた。頭の奥へじいんと声が響くと、抵抗するまでもなく私の意識は再び闇へ……。



 切り株に腰かけて女児と若い女が話し込んでいる。女は木の棒を地面に這わしながら、熱心に何やら説明している。

「そうそう……で、それを足すと答えがでる」

「はえー……やっとわかった。うち算数嫌いやわぁ」

「嫌いでもできるようになろうと思えるのは偉いよ。大人でもほったらかしにする人は多いから」

「せやな、大人は嫌なもんからうまいこと逃げよる。うちはそうなりとうない」

 日照りによる水不足はなおも解決しておらず、集落はじわじわと窮乏しつつあった。未だ雨が降る気配はない。寄合が開かれても明確な解決策は出てこず、村人はうんうんと頭を抱えるだけであった。外部の者に助けを借りようにも、近隣一帯が同様の被害に遭っていて伝手がないらしい。

 おしげにとってはそれが歯がゆくてたまらなく、ただひたすら雨を待ち、他に動こうとしない大人達は当面の課題から逃げているとさえ考えていた。

「まぁこのままだと私も都合が悪いしなぁ」

 沙夜は木の棒を鬱蒼と伸びた草むらに放り捨てる。彼女は彼女で問題を抱えているようだ。

 現状、訪問から数日経ったのに、毎日雑木林に来て子どもの遊び相手をしているだけであった。

「そうなん?」

「うん。でもあまり手を出したらここの住民の為にならないから」

「じじょーってのがあるんやろ?」

「まあね」

 二人は愚痴を言い合える程度には打ち解けていた。それでもまだおしげは沙夜の素性や目的を聞き出せていない。どれだけ睦まじく親しみ合っても、核心に触れようとするとはぐらかされて雲に撒かれてしまっていた。

「でも」と沙夜は言葉を続ける。

「君には教えても良いかもね」

「ほんま!?」

 おしげは目を輝かせて身を乗り出す。秘密を教えてもらうのは仲が良くないとできないこと。信を置かれる関係になれたんだと思うと、嬉しくてたまらなかった。

 沙夜は「そんな面白いものじゃないよ」と苦笑交じりに返す。

「まぁ君にも知っておいてもらった方が良いんじゃないかって思ってね。ここの常連さんだし」

 幼女は話の要領が掴めないでいる。慣れ親しんだこの雑木林に関わることなのは沙夜の口振りで察した。

 沙夜は立ち上がり、生い茂る雑草に向かって手をさっと振ると、風もないのに草むらが左右にしな垂れて林の奥地へ続く道ができた。まだ昼間なのに樹々の向こうは真っ黒で何も見えない。先ほどまでは何の変哲もない樹林の風景が続いていたはずなのに。

 沙夜が顔に優しい笑みを湛えて手を差し出すも、おしげは透き通るような白い指筋に得も言われぬ寒気を覚えた。

(この感じ、あの時と同じや)

 不釣り合いな場所に踏み入った時のような居心地の悪さを感じつつも、幼子は迷わず差し出された手を取った。

(あったかい……)

 二人の暗闇の中へと歩を進める。音が置き去りにされたような空間に足音だけが響く。

「姐やん、どこまで行くん?」

「ふふっ……心配しなくとも別に襲って食べたりしないよ。さあ着いた」

 暗闇に入ってただ真っすぐ進み、程なくして沙夜の脚は止まった。太い幹、といっても大人の男が腕を回してちょうど指先が触れ合う程度だろうか。若々しい一本の木が彼女らの前に屹立していた。

「この木……」

「わかる?」

 おしげは己の足元に視線を落とす。それを見て沙夜は期待が滲んだ笑みを浮かべた。

 木の根元、ではなく彼女らから見てその一歩手前、変わり映えのない地面の一点に二人の視線が注がれている。

「土の中にのがおる。いやでも、形はちっこい……気がする」

「うんうん。思った通りの勘の良さをしているね。ゆうしゅーゆうしゅー」

「ほ、ほうか……?えへへ……」

 話の要領を掴めていないものの、褒められた事実におしげは小さくはにかむ。手放しで褒められることに慣れていなかったせいか、少々気恥ずかしかったようだ。

「そもそもね、普通の人間ならこの世界――私らは「神域」と呼んでいるんだけど、ここに入ることすら叶わないの」

「しんいき」

「そう。人間じゃない者の居場所って意味」

「ふうん。うちらは入ってええんけ?」

「まぁ普通はどうあがいたって入れない所だから、入れたってことは良いってことでしょう」

 鍵が開いていた所で余所の建物に侵入して良い理由にはならないだろうに、沙夜は微塵も悪びれていない。

「でね、本題はここから」

 いたずらっぽく笑みを浮かべて、そっと地面に手をかざした。数秒後、地面から光の鱗粉が舞い立ち始め、吸い込まれていくように彼女の腕に纏わりついていく。闇の中で煌めく淡い輝きにおしげは息を呑む。

「これはね、この下にいる子に『調子はどう?』って聞いているの。お医者さんが聴診器を当てるようなものかな」

「うわぁきれいやなぁ」

 以前に見せられた時よりもいっそう多く光の粒が周囲を舞い飛んでいる。鬱蒼とした漆黒に浮かぶそれらを見て、おしげは星海を揺蕩たゆたっているような心地になった。

「きれいやけど、何か……」

「うん。何か……?」

「…………」

「大丈夫、思ったことを話して」

「ここがくるしゅうなる」

 胸に小さな拳が当てられる。類まれなる霊能の才覚は地中の命の叫びを感じ取っていた。

「そうね。この『声』の主は苦しんでいるの。だからこんな大声を上げているんだけど、どうにもならなくてさらに苦しさが増していって、そこから逃れたくて必死にもがいているの。でもそれが周りを傷つけてしまっていることに気が付いていない」

「姐やん、どうにかしてやれへんの?」

 おしげは縋るような瞳で沙夜を仰ぎ見るも、彼女は静かに首を振った。

「神域の物事には私も手が出せない。私ができるのはここの者の声を聞くことだけ」

「ほんならこの子はずっとこうしてるしかないん?」

 小さな掌にぎゅっと力がこもる。沙夜は光に包まれた手をその上に重ね合わせた。

「……っ!!」

 手を通じて、言葉にならぬ感情の波動が全身を駆け巡った。


 ――ダシテ。アタラシイセカイヘ。


 幼子の目から涙がこぼれる。痛みはないが、かあっと燃え上がるような熱が胸いっぱいにじんじんと伝わってくる。止めようと思っても涙はとめどなく頬を伝う。

「『声』が聞こえたね?」

 おしげは無言でうんうんと頷く。小さな背をさすってやりながら、沙夜は優しく言葉を重ねていく。

「それが命の叫び。私達の世界ではこれを身体という袋で包み込んで、さらに心という膜で覆っている。でも神域に棲む者達は命のあるがままに生きている。わかりやすいけど迷惑でしょう?」

 おしげはぼろぼろ涙を垂らして何も返せない。沙夜の話している内容があまり理解できておらず、頭の整理が追い付かないのもあって言葉に窮した。

「今はわからなくて良い。いずれ理解できるようになるから」と、温かな声色で沙夜は話を続ける。

「私達がこうやって入れることからわかるように、神域と現実の世界は繋がっているの。それは単に行き来ができるというだけじゃなくて、様々な面でお互いに影響しあっているんだ。例えば神域で良くないことが起こったら現実で災害なんかが起こるし、現実で酷い災禍が起こったら神域に乱れが生じる。もう少し身近な話なら、現実で雨が降ればここにも雨が降るとかかな。このように双方が密接に関わり合って存在しているの」

「え?じゃ、じゃあ……」

 現実と神域、双方で起こった出来事が互いに影響し合うというのなら……。赤くなった目を瞬かせながらおしげは沙夜の言葉を待つ。

「どちらがきっかけかはわからない。この子の苦しみが現実世界に災厄をもたらしているのか、それとも現実の災厄が神域に悪影響を与えた結果、この子が苦しんでいるのか……。ただどちらにせよ、この子を苦しみから解放できれば――」

「日照りが収まるんか!?」

 そう言うとおしげはすかさず光立つ地面に駆け寄り、手で土を掘り始めた。「ちょっと待ちなって」という沙夜の呼びかけにも答えず、何度も土をかき出そうとした。

 が、掘っても掘っても地面は立ち所に元に戻り、穴といえる程の深さにすらならない。手にできる土汚れや爪に詰まった泥も一瞬で消え、行動がリセットされているようであった。

「あれ……何でよ……?」

「言ったでしょう?『神域の物事には手が出せない』って」

「あっ、そうやった……。なあ姐やん、うちな、この子が『出たい』って言うてるの聞こえたんや」

 それを聞いて沙夜の顔が引きつった。「『言葉』まで……!?」と驚嘆の声を小さく漏らす。

 良くないことを口走ったかもしれないとおしげは表情を曇らせる。

「あ、ごめんごめん。ちょっとびっくりしたんだ。君がそこまでできるとは思っていなくてね。そうか、言っていることまでわかったか」

「ん。やからな、出したろうと思ったんやけど……」

「そうだね。私達がこの子に対してできるのは苦しみを聞いてやることだけ。直接の手出しは無用のヨークシャーテリアよ」

「ん?ヨーク……何やって?」

 問いに聞く耳を持たず、沙夜は地面に手を触れて感触を確かめる。ざらっとした土の表面を数回撫でて「ちとまずいな」と呟いた。

「土が硬い」

「つち?」

「この子が地表に出るにはもう少し土が軟らかくないといけない。夕方から夜にかけて、土が軟らかくなる雨降りの後、特に晴天が続いた後の雨だと良いんだけど、現実世界では日照りが続いている。それがこちらにも影響しているんだ」

「何か神様っていうより虫みたいやなぁ」

「ご名答。この木の下にいるのは蝉でございます!といっても現実のとは違って、色々特殊なんだけどね」

「へぇー、姐やんは蝉さんを助けたかったんかぁ」

 無垢なる瞳を向けられて沙夜は狼狽える。特に後ろめたい秘密はない。このような純粋な反応をされるのに慣れていないだけだ。

「助けるっていうか、捕まえにきたというか……。まあそれはともかく、この子が羽化できるように様子を見に来たというのが私の目的だね」

「助けたらへんの?」

「日照りが神域にも影響を及ぼし、この子の羽化できない苦しみが負の力となって、現実でさらなる災禍を招いているとすれば由々しき事態だし、どうにかしてやりたいんだけどね……。直接どうこうしたらげんこつ一発じゃ済まないんだよ」

「それがじじょーって奴?」

 沙夜は無言で頷く。人の世にも神の領域にも直接干渉できない(してはならない)というのが彼女の抱える事情だというのなら、その裏にはいったい何が潜んでいるのだろうか。

「雨が降ったら」とおしげはぽつりと言葉を漏らす。

 その言葉にも沙夜は無言で頷いた。

 光の粒子は散り散りになって少しずつ闇に溶け消えていく。徐々に薄暗くなっていく神々の棲み処で、幼女は小さな掌で地面を撫でる。その後しばらく、二人は渇いた土の底から伝わってくる命の鼓動にじっと耳を傾けていた。



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