蝉時雨4 空だ


 翌日、おしげはいつもの雑木林にいた。本来ならば、件の女の宿をつき止めて会いに行きたい所だったが、両親含めて大人達が妙に自分を注視しているような気がしたので下手に動けなかった。何か家の雑用を言いつける訳でもなく、じっとこちらを見つめる瞳を幼女は「気色悪い」と受け取った。

 と言っても完全に諦めた訳ではない。木の棒で土をガリガリいじりながら、どうしたものかと思案し続けた。途中途中、母が「おやついらんか?」と炊事場の窓から取り繕った声を飛ばしてきたものの、生返事をするだけであった。

 大人の目が光っている以上、家の周辺から離れることはできない。それなら手紙でも渡せないかしらんとも考えたが、それを叶える協力者もいない。

「なーんであかんのかなー?ねー?」と、木に止まっている蝉に語りかける。蝉は「知らんがな」とでも言うかのように「ジジッ」と鳴いて飛び去ってしまった。

「何よー。愛想わるい」

 冷ややかな風が林の中を通り抜ける。独り言は木々のさざめきにかき消されるばかり。喚き散らしたい心地だが「やかましい」とどやされたり、尻叩きの目に遭ったりするかと思うと声を潜めるしかなかった。それに駄々をこねたって叶わないものは叶わない。

 独りでぶーぶー不満を垂らしながら考え事に耽っている内に日は徐々に傾いていき、とうとうその日は無為に終わろうとしていた。所詮は幼児、そうそう妙計が浮かぶはずもない。

「あのねえさん、今日はどうしとったんかなぁ」

 樹々の間から夕陽を眺めて、例の女性の一日を想像する。小難しい表情で古い巻物を睨む姿、一心不乱に紙に何か書きつけている姿、木片や岩をルーペでじっと観察する姿、あの大きなカバンから未知の器具を取り出そうとしている姿、おしげの脳内では彼女の活動がありありと繰り広げられていた。黄昏の夢を見る少女は改めて叶わぬ希望を嘆く。

「はぁ、やっぱまた会うてみたいなぁ」

 林の中はしんと静まり返っており、きらきらと陽光が射し込んでいる。それを受けて樹々は黒々とした陰影を地に伸ばし、林の奥はますます深い闇に覆われていく。

 そして、闇の向こうから鈴のような声が一言。

 ――誰に?

「そらぁあのねえさん……よ?」

 おしげは言葉に詰まる。今聞こえた声は何なのか。自分は誰に向かって返答したのか。理解の及ばぬ内に今度はざっざっと何者かが土を踏む音が聞こえてきた。

(誰や?足音が聞こえるなら幽霊とかちゃうな……?)

 幼いが故の非現実的な予想を立てて、暗闇に対して身構える。いざとなったら大声をあげて家に全速力だと幼児は自分に言い聞かせる。ここで一目散に逃げださない辺り、この子どもの好奇心と胆力は並外れたものといえる。「敵う相手なら木の枝でしばき倒したる」とまで、この時の彼女は考えていた。無論、無謀だ。

 暗がりの向こうにいる相手を見極めようとまじまじと目を凝らす。汗がじわりと首筋を伝う。

(暑いな……。あっ、今日も雨ふらんかったな)

 雑念が過った所で足音は一旦止まった。それが自分の思考を見透かされているようで空恐ろしく感じた。小さな握りこぶしにより一層力が込められる。

 静けさが時間の流れを長く感じさせる。

 もう姿を捉えていてもおかしくないのに、雑木林の奥はもやがかかったようによく見えない。気配はかなり近い。そしてその正体はとても畏ろしいもののような気がすると、おしげは感じていた。

 闇に潜むものは再び動き出した。足音はもうほど近くまで近付き、靄の中では人影が揺らめいている。

(やっぱ人か……。でもおかしい。全然見えん。すんでの先が真っ暗や)

 影はどんどん近付き、おぼろげだった輪郭がはっきりしてくる。そうしてようやく影の正体が判明した。

「ばぁっ!ふふっ、どう?びっくりした?」

 茶目っ気たっぷりで現れたのは昨日の神秘的な女性。そう、おしげが会いたいと熱望していた相手だった。

「な、なんよぉ……もう……。ちょっとチビったわぁ……」

 女はその場にへたり込むおしげの元に、スッと軽やかに寄り添う。薄手の上着にシャツに長ズボン、肩に大きな鞄を担いでいる。昨日と大して変わらぬ格好だった。

「ごめんごめん。ちょっと驚かしたくなってね」

「ねえさん、何でここに?」

に『君が会いたがっている』と教えられてね」

「えーほんま?ここのもんは皆、ねえさんのこと怪しいって」

 臆面もなく「怪しい」と告げられ、女は思わず噴き出す。承知の上だが、いざ言われるとたしかにそうだなとくすくす笑った。

 ぽかんとしているおしげに対し、彼女は一つひとつ説明していく。

「えっとね、『ここの者』ってのは村の人って意味じゃなくて――」

 そう話しながら彼女は辺りに落ちている木の枝を拾い、それで近くの樹を軽く叩いた。「コォン」と虚ろな音が森林に響き、かすかに空間が揺らいだ。少女は「自分が叩いてもそんな音は鳴らないのに」と目を真ん丸にしている。

 反響音が止むと、静まり返っていたこの場所に小さな気配がたくさん寄り集まってくるのをおしげは感じ取った。

「なんや……?」

 気味悪がる幼児に女は「大丈夫。怖がらなくて良い」と優しく囁き、さりげなく手を握る。

(あったかい……)

 おしげはそれだけで女の言葉は信じるに足ると判断した。ぎゅっと握り返して、周囲に寄ってくる気配の正体を掴もうと暗闇の中をじっと見つめる。

 しばらく待つと、林の中に光の粒のようなものがぼんやりちらちら舞い始めた。粒子は各々自由気ままにふわふわと闇の中を飛び交う。

「ねえさん、これ何よ?」

「これはね、命の素みたいなものかな?」

 首を傾げる幼児に女は「今はわからなくともいずれわかる」と告げ、言葉を続ける。

「今を生きている子、これから生まれる子、目に見える形を保てなくなった子……。人間も動物も虫も植物も土も水も皆、これが元になっていて、それぞれ念を持っている」

「それって神さんとかまんまんちゃんみたいなもんけ?」

「おお、利口だね。そうね、神様とかまんまんちゃん――仏様のお手伝いさんのようなものかな。で、私にはその声というか、何を考えているのかがわかるのよ」

「へぇー」

 おしげはこの荒唐無稽な告白を一切疑わずに受け入れた。元々得体の知れない雰囲気を纏っていたのだからさもありなんと得心がいったらしい。

「ということは……」と続けて女に問いかける。

「ねえさんは神さんなんけ?」

「ご名答!と言いたい所だけど少し違う。それはともかく、私はこの子達から君が会いたがっていると聞いて、ここにやって来たのだー」

 おどけて応えつつも、幼児の明察に女は「鋭い」と内心唸った。大人なら思い至っても「そんなのあり得ない」と脳内でかき消してしまう所を、子どもは構わず突いてくる。

「ふぅん。じゃあ学生さんっちゅーのはほんま?」

「それは嘘。でも調べたいことがあるのは本当」

 やり取りの最中、女は「この子なら」と心中に秘めた意志を固める。その根拠は言葉で説明できぬ感覚の根源に訴えかける「何か」である。ぞんざいな言い方をすれば「何となく」だ。

 ただ、彼女はそれを何よりも大切な判断基準として生きてきた。

「んー!色々隠してしんきくさいなぁ」

 むくれるおしげに女は「ま、詳しい話はおいおいね」と諭す。

「さてさて今日の所はひとまずここまで!」

 そう言うと女は木の枝で地面をトンと突いた。再びわずかに空間が揺らぐと、光の粒はたちどころに見えなくなってしまった。

「あら?」

 ふと気付けば女の姿も見当たらなくなっていた。「手を繋いでいたはずなのにいつのまにやら」とおしげは不思議に思った。

 外はすっかり日が沈んでしまっている。夕闇が深まった林の中は鈴虫の慎ましい鳴き声が響いていた。

 女を呼ぼうと「おーい」と声を上げた所で、名前を聞いていないことにおしげは気付いた。「はて、どうしたものか」と首を捻った瞬間、頭の中に声が流れ込んできた。

 ――沙夜。それが私の名前よ。

「ん。沙夜ねえさん」

 ――はいはい。

「いきなり消えんといてや」

 ――ごめんごめん。

「あとこの声何なん?」

 ――便利でしょ?

「頭キンキンする」

 ――すぐ慣れるよ。

「今日はもう話できひんの?」

 ――うん。また明日ね。

「ここで?」

 ――うん。

「ん。ほなまた明日」

 ――うん。またね。

 のしのしと林から家に向かう間、おしげの頭に「この体験を人に話そうか」という考えがよぎった。が、即座にそれを打ち払った。話した所で一笑に付されれば御の字、下手を打てば尻叩きの目にでも遭うとわかりきっていた。

 軒先まで辿り着くと蝉が仰向けで転がっていた。生きているのか死んでいるのか判断しかねるあの状態だ。脚の開き具合でわかるらしいが、子どもにその知識を求めるのは難しい。

 おしげは人に踏まれないように避難させようと、おそるおそる蝉に手を伸ばす……どうやら死んでいるらしく、蝉は微動だにしなかった。

「さっきの光の粒が命の素なんならこの子はもう空っぽなんかなぁ」とおしげは蝉の死骸を眺めながらふと思ったのだった。



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