蝉時雨3 無だ
舗装が為されていない道路で土埃が舞う。遠く広がる田園風景も田には水が張られていないようで、カラカラの土に苗が申し訳程度に刺さっているだけであった。でんと聳え立つ山の裾野には、家屋が互いの身を支えあうように連なり合っている。
カンカン照りの空は雲の湧く隙さえ与えてくれず、どこまでも果てしなく澄み渡っていた。
「かあちゃん、今日もふらなさそうやね」
「そうやなぁ……」
母娘と思われる二人組が畔に座って恨めしそうに天を仰ぐ。餓えた大地に潤いが失われて幾週、集落は日照りに窮していた。
水源豊かなこの地において、水不足など発生するはずがない。その驕りが対策を怠らしめた。今この時、取水制限の為に住民は最低限の生活用水を確保するだけで手一杯だった。
じわりじわりと生活が追い詰められていく中で、住民同士で諍いもちらほらと起こり始めている。集落の寄合でも苦難を乗り越える方策が話し合われず、決まりを破った者を糾弾するだけであった。今日もまた人々はこの苦境にあって我田引水する者がいないか、監視し合うだけの一日を過ごしている。
「やることないし帰ろか。今年はもう米あかんかもしらんな」
母親のやるせない一言に娘も表情を曇らせる。何とかしたいと思っても、天の機嫌は人には取れない。親子はとぼとぼと家への帰路についた。
田畑の手伝いがないので娘は暇を持て余した。学校が終わると、度々家の裏にある雑木林に行き、ままごとや動植物の採取に勤しんでいた。カンカン照りの中でも雑木林にいると涼しかったからという事情もある。学校が休みの日には一日の大半をそこで過ごしていた。
林の中は鳥虫のさえずりが響き、風に揺られた枝葉が衣擦れのような音を立てるのみで、重苦しい世間から離れて、安らぎを感じられる懐の深さがあった。無論、まだ幼い彼女ではこの感覚を言葉で言い表せられず、ただ居心地の良い遊び場として雑木林に足を運んでいるに過ぎない。
それから変わらず日照りが続いたとある日のことである。その日は夕暮れを迎えてもなお蝉が鳴き声を張り上げていた。
雑木林は家の真裏、多少暗くなろうともすぐ家に帰れる距離である。夕げの香りが漂ってきて、空腹を催したので林から出て家に帰ろうとした折、娘は我が家の周辺をうろつく怪しい女を見かけた。
遠目から見ても珍奇な格好をしているのがわかった。
長い髪を後ろに束ね、薄布でできた丈の長い上着を羽織り、中には上等そうな生地のシャツ、下は青色の丈夫そうな長ズボンという出で立ちで、細い手には子ども一人が入りそうなくらい大きくて、見たことのない素材でできた四角形の鞄らしきものを携えている。
(何や?都会の人か?えらいごっつい格好して……)
謎の女はこちらに気が付いたのか、つかつかと歩み寄ってきた。小さくて白い顔、細いフレームの黒縁眼鏡をかけている。
娘は「そんな薄っぺらい眼鏡でよく視えるんかいな」と思う一方で「綺麗な人やな」とも思った。
「ねぇ君、この辺りの子かな?」
女は微かに笑みを浮かべ、娘に尋ねた。娘は「えらい上品やな」と面食らった。自分の周囲の大人は他人に対して「君」だなんて高尚な二人称を用いない。
「ねえさん何なん?うちに用あるならかあちゃん呼んでこよか?」
「あぁ、そこの家の子なのね。私ね、ちょっとこの町の神社を探してるんだけどわかる?」
「神社知っとるで。つれてこか?」
「いや、もう暗くなるから君は家に帰りな。代わりに大人の人を呼んできてくれる?」
「ん。ええよ」と快諾した所で玄関先からパタパタと草履を鳴らす音が聞こえた。慎ましい声量で「おしげーご飯やでー帰ってきいやー」と呼びかける声が二人に近付いてくる。
娘は「ねえやーんこっち帰っとるでー!」とその三倍くらいの音量で返事をした。女が「正反対だな」とくすりと笑う。
声の主は往来に出て二人の姿を認めると、小走りで駆け寄ってきた。年は十二、三程度、小柄で大人しそうな物腰の少女だ。
「おしげ、何してんの?この人だれ?」
「知らん。今、会うた。神社探してるんやって」
妹の雑な返答を聞いて姉は訝しげな視線を女に送る。女は内心「そらそうよな」と呟き、つとめて軽やかに、限りなく優しく、二人に事情を語った。
「私ね、お父さんが大学の先生をやっていて、その助手をしているの。色んな土地の神様とか仏さんのお話を研究していて、私も聞き込みや史料集めをして手伝っているのよ」
女の説明に姉の方は「へーそれでこんな所に」と警戒をにじませつつ応じる。
妹が無邪気に姉に尋ねる。
「ねえやん、大学ってどこにあるん?」
「遠くの街や」
「遠くって?」
「京都とか大阪とか東京とかや」
「ほしたらこのねえさん、そんな遠くから来とるんけ?」
「やな」
「ふふっ、お邪魔してごめんね」
少女は女の詫びを特に気に留めず、「神社への道やったら私が教えます」と申し出る。妹の方も「うちも教えられるで」と得意げだったが、「おしげ、おまんは先に家へもんでな」と言って家に帰るよう諭した。
妹はそれが不服だったようで、いかにもしぶしぶといった様子で玄関をくぐっていった。
夕食を終え、風呂から上がって寝支度も済んだといった頃、姉妹は布団に入って女の素性について密談を交わしていた。
「ねえやん、あの女の人、都会の人やったんやね」
「うん」
「大学ってどえらい賢い人しか行けへんのやろ?」
「……うん」
「うちの村にいつまでおるんやろ?」
「さあ」
妹は生返事しかしない姉に少し腹を立てつつ、布団から身を起こして訳を問う。夕方はうるさかった蝉の声もすっかり静まり、鈴虫のささやきが雑木林の方から聞こえていた。
「ねえやん、どうしたん?」
「なあ、おしげ……。あの女の人、しばらくここにおるみたいなんやけどな、あまり関わらんとき」
「何でよ」とひそひそ声に戸惑いと不満を込めて問い詰める。姉はごろりとこちらに向き直って問い返す。
「よくよく考えてみ?こんな田舎に女の一人旅っておかしいで?」
「それはあの人のお父さんのけんきゅーの手伝いで……」
姉はにべもなく言葉を返す。日照りの困難に加えて怪しい人物の訪問、この状況に集落の大人達がピリピリしているのを彼女は察知していた。
「そんなんほんまかわからんやん。そんな大層な理由で来てたら、きっちりした身なりで役場の人らと一緒におるやろ?変な人やったらどうするん?みんな心配するで?」
勝手な振る舞いは親に迷惑がかかる。その子どもらしからぬ気配りは当然ながら幼い妹には伝わらない。
「ほんなら明日あの人にもう一回きく」
「あかん。あの人に会いに行ったら母ちゃんに言うさかい。もう噂になっとるんやで。『妙な女が来た』って」
「ほんなら余計こそこそせんと話しに行ったらええのに」とおしげは不満をぼそっと漏らす。それ聞いてか、姉は「とにかくあかんで」と改めて釘を刺してきた。
「ん」と投げやり気味に返して、バサリと頭に布団を被る。姉が大きくため息を吐いたのが聞こえたが、妹はそのまま無視して虫の蛹のようにうずくまっているといつの間にか寝入ってしまった。
月夜に一匹の蝉の鳴き声が響く。ただ、仲間の気配がないのを悟ったのか、すぐに声は止んでしまう。人も虫も昼夜殺伐として浪漫を語らう活力を失っていた。
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