空蝉4 刹那 <了>

 小さい頃の話だ。俺は幼馴染の姉妹と「どちらと結婚するか」という話をしていた。よくある幼い子ども同士の微笑ましい会話だ。多くの大人は時が経てばそのような約束をしていたことなんて忘れて、各々巡り合った相手と結ばれていく。

 妹が駄々をこねるのに対して、いつもは聞きわけの良かった姉の方もこの話題になると、「光は私と結婚するの」と言って譲らなかった。お互いの両親からは「モテモテね」とからかわれたけども、当時の俺としては勘弁してくれとしか思えなかった。

 それから時が経ち、思春期を迎えた。女子に接することが気恥ずかしくなり、意味不明な虚勢を張ることが男子の誉れとされるようになる年頃だ。俺も当然、普通の男子として女子との壁をせっせと築いた。

 それ故に姉妹とは自然と距離が空いた……かと思ったら、姉の方は先に思春期を過ごしたこともあって、気兼ねなくこちらに接してきた。当時のこととはいえ、それを撥ねつけていたことを申し訳なく思う。妹の方はそんな跳ねっ返り少年を遠巻きに眺めていた。

 思春期を終え、せっせと築いた女子との壁をあっさりぶち破った俺は、人並みに女子と交流するようになった。姉妹との関係も修復し、遊びも勉強も共にする機会が増えた。妹の方はある日突然、俺の弁当を作るようになり、勉強にもやたら力を入れ出した。姉が俺に対して一線を引くようになったのは、それからだったのかもしれない。

 そして大学生となった。周囲に「デキているのか?」とからかわれても、妹は高校からの習慣だった弁当作りを辞めなかった。俺も彼女の気持ちを無下にしていいものか迷った挙句、それに甘えることにした。この時、すでに俺の気持ちは姉に向かい始めていた。

「妹との繋がりである弁当を拒絶したら姉との繋がりも消える」と、最低な考えで妹の気持ちを受け取っていた。姉はおそらくそれに気付いていた。妹もそれに気付いていたかもしれない。それでも辞めなかったのは理屈ではなく、感情の問題だったのだろう。

 今、俺は自身の心と彼女達の心に向き合わなければならない。もう昔のままではいられない。俺達が新しい一歩を踏み出す為に――。



「光! 光! 起きて!」

 やかましい声に意識を呼び起こされる。何故か気絶していたようだ。視界は明るく、無機質な天井が見える。背中の感触からして、ベッドに寝かされているようだ。

「あれ? 俺どうしちゃったの?」

「覚えていないの?」

 仁紫乃は不思議そうに尋ねる。頷くと隣にいた伊代乃さんが一通り説明してくれた。


 マンションから落下してくる植木鉢に気付いた俺は、彼女達を突き飛ばして庇おうとしたらしい。その結果、彼女達は突き飛ばされ際にこけただけで済んだ。ただ俺は見事に植木鉢が頭に命中して気を失ったらしい。それで警察やら救急車やらを呼んで、てんやわんやして今に至るという。

「でも、奇跡ってあるもんだね」

 仁紫乃が感慨深そうに呟く。

「そうだな。悪い方の奇跡が起こるとは思わなかった」

「違う違う。本当の奇跡が起こったんだよ」

「は? どういうことだ?」

 要領が掴めない俺に伊代乃さんが語りかける。

「警察から聞いたけど普通なら即死の威力だったんだって」

「何が?」

「もちろん植木鉢よ」

 そういえばたしかにあの高さからあの重さの物が落ちてきたら、かなりの衝撃になるはずだ。

「もしかしたらあなたに当たる寸前に何かワンクッションあったのかもしれないね」

 もしそうだとしたら本当に奇跡だ。

「私らは衝突の瞬間見てないからよくわからないのよね。もしかしたら神様が助けてくれたのかも!」

 仁紫乃が声を弾ませる。

 ――神様か。

「虫の神様っているのかねえ」

「え? 何て?」

 仁紫乃の問いには答えず、一人頷く。

 そうか、が守ってくれたんだな。

「あ、お父さん達が着いたって」

伊代姉いよねえ、ここは病院だよ?」

 携帯電話を眺める彼女にそっと指摘する。

「ふふ、久しぶりにその呼び方で呼ばれるとこそばゆいな。私は下に迎えに行ってくるよ」

「私も――」

「良いからあなたはを見ていなさい」

 そう言うと、彼女は病室をスタスタ出て行った。小声で仁紫乃に何か伝えたようにも見えたが、よくわからなかった。

「…………」

「…………」

 互いに口を噤み、沈黙が流れる。いつも一緒にいるのに、いつもと同じように振る舞えないのは何故だろう。

「あのさ」

 仁紫乃が徐に口を開く。

「ハンガーにかかっているそれ、お姉ちゃんがあんたにあげるって。救急車が来るまで、それをぶっ倒れてるあんたの枕にしてたんだけど、あんたの血が付いてるしもういらないって」

 ハンガーには桜色のカーディガンが掛かっていた。身を起こして手に取ってみる。眼前に広げるとふわっと伊代姉の匂いがした。

 カーディガンには所々血液と思われる斑点が残っている。ただそれとは別に、袖の部分に何やら濡れた染みが残っていることに気付いた。

「自分だって本当の気持ちから目を背けていた癖に、格好付けやがって……」

「そうよ。本当にどこまでもシスコンな姉よね」

 彼女の抜け殻を丁寧に畳み、仁紫乃に差し出す。

「返しといてくれ」

「ダメよ。あんたが汚したんだから自分でクリーニングに出して」

 差し出した手を押し返される。ごもっともなことだ。しっかり綺麗にして自分で返そう。

「それもそうだな。未来の義姉に失礼しちゃいけないしな」

「そうやって回りくどいことを言うからお姉ちゃんに振られるのよ」

「知ってたのかよ」

「ついさっきあんたがグースカ寝ている間に全部聞いた。全く気付かなかったことに自己嫌悪するし、我ながらゲスな男に惚れたものだと呆れたわ」

 そこまで知りながらどっしりと構える仁紫乃に対し、俺は申し訳なさのあまり、がっくりとうなだれてしまった。

「何、落ち込んでいるのよ? ほら顔を上げなさい」

「何だよ? まだ何か言う――」

 言い返そうと額を上げた瞬間、唇に柔らかい感触が伝わる。仁紫乃の顔が近い。世界が静かになった気がした。永遠に感じるほど凝縮された刹那が俺の思考を破壊した。彼女の唇が離れた今もなお、俺はただ呆然としていた。

「こ、これで元気出たでしょう? 言っておくけど初めてだったんだからね。ねえ聞いているの? あれ? え? おーい戻ってこーい。ちょっとー……」

 彼女の声はただ空虚に、抜け殻となった俺の体を通り過ぎるだけであった。



〈空蝉 ――完――〉

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