蝉時雨

蝉時雨1 殻だ


 ミーンミンミンミーン……。

 ミーンミンミンミーン……。


 お盆に山麓にある親元を訪ねると、アブラゼミが多い街中と違っていつもミンミンゼミが鳴いていた。

 ただ、今回はその季節より少し早く訪ねることになってしまった。

 車を降りると、山からの天然の冷風が私の頬を優しく撫でる。じりじりと焼けるような暑さがわずかながら和らぐ。六月初めだというのにゆだるような暑さだ。私は恨めしそうに空を仰ぎ、あっついなぁと呟く。

「あっちゃん、よう来なすって」

 訪れる度に聞いたこの言葉も今はもう聞けない。

 祖母はいつもしっかりとした足取りで隠居から歩み出て、私達を迎えてくれていた。齢九十を超えていたというのに、弁も達者で未だ衰えを感じさせなかった。その娘である母によると、どんな時も底抜けに明るい人柄は周囲の人の心をも照らし、「救いのしーやん」と呼ばれ、数々の伝説を残してきたという。

「婆ちゃんとの思い出はもう作れないんだ」と私は棺に納められた安らかな寝顔を眺めながら、曖昧で膜がかかったような悲しみに暮れていた。いくら元気でも高齢だったし、以前からうすうす覚悟はしていたものの、訃報を聞いてからも何となく実感が湧かない。

あおい、遠くからようもんできてくれたな」

さとしおっちゃん、気にせんといてよ。こういう時くらい帰ってこんとな」

 先祖代々受け継がれた日本家屋は襖が取り払われ、客間から仏間まで吹き抜けになっていた。小さい頃から見知ってきたこの家の法事仕様だ。仏前には白木でできた棺が横たわっている。

「婆ちゃんに会ってやって」

「うん」

 悟叔父さんに棺の傍まで連れられる。大きな棺桶にそぐわぬ小さな体が安らかに眠っていた。

「小さいなぁ」

 一緒に棺を窺った母が「すごい余ってんね」と呟いた。

「よう食べえや」は祖母の口癖だった。本人が戦中の貧困を経験していた故だろうが、私が男子にも関わらず、祖母と母譲りのか弱い身丈をしていたのも気になっていたのだろう。強く、大きく、が彼女の平生の願いであった。

 身内の間では祖母の身長を追い抜くことが成長の節目のような扱いになっており、幼い頃は毎年背を比べ合っていたことを思い出した。兄弟や従弟達が続々とこの儀式を突破していくのに対し、私はというと彼らのずっと後になってもまだといった有様であった。

 死化粧を施された顔を眺めながら母達と言葉を交わす。

「ええ顔してるね」

「ほうやね。瞬間もスッと逝っていたし、良かったと思うわ。お母さんら近くに居って医者さん交えて話していたんやけど、直前まで普通に喋ってたんやで。んで静かになったなーって思ったら息してへんかった」

 最後までお喋りできていたなんてあの人らしい。喜劇じみた逝き方もさすがは「しーやん」だ。私の知る限りでも祖母は皆に笑いを届ける生き様だった。その精神は同じ血筋に脈々を受け継がれている。

「亡くなった日の晩はおっちゃんがやらかして大変やったんよ」

 叔父の妻の晴子はるこさんがやってきて、挨拶も程々に夜の出来事を語った。

「夜な、この人「せっかくやから一緒に寝る」って言うて、仏間でお義母さんと添い寝してたんやけど……。朝見たらお義母さんの掛け布団剥がして自分で被っとったんよ!そりゃドライアイス置いたるから寒いのはわかるけど、これはあかんやろ!って子どもらと怒ったわ」

「ふふっ。婆ちゃん笑って許しそうやけど、それはあかんな」

 それから棺を囲んで思い出話や近況を談笑していると、棺に納める物品について葬儀屋から相談が入った。納める物はすでにいくつか用意してあるが、まだあれば受け付けるとのことらしい。

「通夜まではまだ時間あるし、隠居で探してみようか」と母の提案で祖母が生活していた隠居に向かう。

 網戸を開け放ち、家屋全体に風を通す。家主がいなくなってから閉め切られたままだった隠居は、この時期特有のじめったい暑気がこもっていた。

「これ、どうするんやろうなぁ」

 隠居には所狭しと祖母のコレクションが置かれている。若い頃は骨董や古美術に目がなかったらしい。たしかに叔父が結婚するまでは本宅にもその手の代物がインテリアとして並べられていたので、私もこれらの一部は目にしたことがある。

 木彫りの熊から始まって、こけしに日本人形、さらに掛け軸に衝立等々……。どれも骨董屋に持っていった所で大した額にならなさそうだ。

「それよりも棺に入れてあげられる物を探さんと。その辺の処分は喪が明けてからやね」

「そうやな……。あれ?これさ、昔は本宅に置いてあったやんな?」

 雑然と並び立つ歴々の中に見覚えがある品があった。七福神の布袋を模した木像がほこりをかぶった状態で、昔と変わらぬほっこりとした笑顔を浮かべて立っている。

「あーそれな。たしかにあったな。おっちゃんに子ども生まれてからこっちに仕舞ったんちゃう?それがどうかしたん?」

「いやこれな、表情変わらんかった?小さい頃、婆ちゃんに「ええ子にしてんと怒らはるよ」とか言われてさ、実際に笑顔と怒り顔と……あと泣き顔を見た記憶あるんよ」

「え……そんなん変わらんで?」

「じゃあ記憶はあれか、小さい頃やし怖くて捏造したんかもな」

「でもこれだけあれば、一つくらい私らが知らん曰くつきの物があるかもしれんね」

 話は尽きないが時間もないので「せやな」と話を切って、本来の目的に再度取り掛かる。

 しばらく探し回って目ぼしい品を見繕ったので、「そろそろ戻ろうか」と母に声をかけようとした所、祖母が使っていた枕元に予期せぬ物が見つかった。

「おかん、何かある」

「ん……?うわ、蝉の抜け殻や!季節にはまだ早いやろ?」

「そうやけど……どっかから入り込んだんかな? 最近は六月でも暑いし、早めに出てきたんかもな」

 珍しいこともあるものだ。人の死に呼ばれたのかもしれないと、そんなはずがないのはわかった上で何となく憶測を口に出す。

 母は「婆ちゃん信心深い人やったからなぁ。こういう不思議な出来事があったって聞いたら喜ぶやろうね」と言って、抜け殻を摘まみ上げた。

「それ、どうするん?」

「さすがに棺に入れられんし外に放るよ」

「ふーん……。羽化した中身はどこ行ったんやろうね」

「さあ?」

 隠居の怪異に想像は尽きないが、いつまでも探していたって仕方ないので戻ろう。

 本宅に戻るに当たって各所の戸締りを行っていると、閉まっていない窓からゴウっと突風が吹きこんできた。骨董たちがごとごと揺れて溜まっていたほこりが舞い上がる。

「へっくし!」

 私のくしゃみを見て母が「ほこりすごいなぁ」と小さく声を漏らす。無理もない。叔父達も祖母の居住スペースを整えておくのに精一杯だったろうし、この骨董群の面倒まで看るのは骨が折れる。

 どこからともなくほこりと共に一枚の紙切れが舞い降りてきた。古い物のようでだいぶ赤茶けてしまっている。「何やこれ?」と私は床に落ちたそれを拾って読み上げる。紙質はしっかりしているし、記された活字もインクがかすれている訳でもない。管理の問題なだけで意外と新しい物とも考えられる。

「――買取証明書?ええっと何々……。『蝉専門店しずけさ屋をご利用頂きましてありがとうございます。以下のご取引をここに保証致します』と……。オス蝉一匹……?」

「発行した日付もないし、種類とか買取金額も連絡先も書いとらんね。何の証明にもなってへんやん」

「存在していることこそが証明だ」とでも言いたげなお粗末なペラ一枚だが、叔父に見せておくべきかもしれない。

「おっちゃん、隠居にこんなんあったんやけど」

 本宅に戻り、叔父に副葬品と共に証明書も手渡す。叔父はまじまじと紙切れを眺めて「何これ?」と、もっともな質問を投げかけた。

「知らん。大事な書類やったらあれかなって」

 骨董の群れに紛れていたようだし、どう見ても大事ではなさそうだ。ただ、これが失われずに残り続けていた事実が妙に引っ掛かっていた。

「うーん……レシートみたいなもんやろうし、いらんもんちゃうかなぁ……。姉やんも心当たりないん?」

 叔父に尋ねられて母も「ないなぁ」と首を振る。

 その時、「ごめんやす」と勝手知ったる声が玄関から聞こえてきた。やってきたのは裏に住む親戚のけいおばさんだ。

「おばちゃん、ご無沙汰してます」

「お、あっちゃんか。遠くからよう来てくれて。あー暑い暑い……」

 恵おばさんは祖母の姉の娘、私の母とは従姉の関係に当たる。この本宅の裏に住んでおり、私も幼い頃より今日に至るまでずっと可愛がってもらい、家族同然の付き合いを続けてきた。

 おばさんは家に上がってきて早々、叔父の手元を指して一言「悟、それ何よ?」と尋ねた。叔父も「姐さんは何か知らんか?」と紙切れを手渡した。

 おばさんは内容を一瞥した後、ぽつりと「蝉専門店……?」と呟き、何やら考えを巡らしている様子だった。

「何か知ってるんか?」

「ほら、雑木林の神さんの話よ。昔に婆ちゃん話しとったやろ?あれに関わりあるんちゃうかなって」

「まぁ婆ちゃんがこの話したんは大昔のことやし、おまんらは覚えてへんかもな」とおばさんは言葉を続ける。

 おばさんの家の裏、この本宅からならばおばさんの家の向こう側、そこには鬱蒼とした雑木林が広がっている。親戚一同、子どもの頃はよくそこで昆虫採取に勤しんでおり、伝統の遊び場であった。おばさんによると、あの林に関わる話らしい。

「あそこ、神様を祀っとるん?」と私は尋ねる。母も悟叔父さんも合点がいかぬ様子だ。

「神様は祀っとらん。それはともかく――蝉がその話に出てくるんよ」

「へぇ、もしかしたら関係あるのかも。どんな話なん?」

 蝉が登場する逸話と今回の件……偶然だとは思えぬ奇縁を感じる。まるで神に手繰られているかのような都合の良さだ。神がいるとしたら、この導きは私達に何をもたらすのだろうか。

「昔、あそこにな……」

 恵おばさんが語ろうとした所で「あの……」と葬儀屋が申し訳なさそうに言葉をかけてきた。

「すみません。この暑さですし、ドライアイスが溶けないように一旦、棺を閉めさせて頂こうかと思うのですが、納める物はお決まりでしょうか?」

「あら!ごめんなさい」

 閑話休題、場は通夜の打ち合わせに戻ろうという所、恵おばさんは紙をピラピラ振りながら「悟、これ別にいらへんな?」と叔父にそっと尋ねる。

「ああ、ええよ」

「ほんなら、あっちゃん持っとき。見つけたんあんたやし」

 そう言っておばさんは半ば強引に私に証明書を手渡し、「気になるようやったら自分で調べてみ?コミュニティセンターにここの民話に関する資料もあったと思うし、職員さんに連絡入れとくから行ってき」と囁く。彼女は私がこういう物に目がないのをよく知っている。

 準備の手伝いも叔父の子ども達にさせるつもりのようだし、他に手伝えることはなさそうだ。遠慮なく好意に甘えよう。

 外に出ると変わらず厳しい日差しが私を出迎えた。先の話題に出た雑木林の木々がそよ風に揺られて、ざわざわと音を立てている。

「夕方の悔やみ受けまでには戻るわ」と伝えて、ゆるりと私は歩き出す。


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