セミダブル4 体に残ったアルコールはあなたが感じている生き辛さの度合いです
瞼が半端にしか開かない。体が気怠い。頭が重く、思考も鈍い。手探りで携帯を拾い、画面を目の前に持ってくる。うわ……もうこんな時間……。
物臭に起き上がり、窓から射す光を疎ましく思う。未だ酔いが残る思考を働かせて昨夜のことを思い出す。
青天の霹靂とはこの時の私の心境を指すのかもしれない。時が凍ったような感覚が脊椎を打った。どうしよう。さっき「変なタイトル」と口走ってしまった。
「気にしなくて良いよ。自分でもそう思うから」と、ゆかりさんは快活に笑う。
まさか作家さんだとは思わなかった。しかもお気に入りの作品の作者だとは。泡を食う私に対し、彼女は「まぁペンネームだとわからないよね」とニヤリとする。
「ほんとに昔に描いた作品なんだ。うら若い十代の時の」
絵本の内容は小さな女の子が亡くなった父親に会う為、地底に棲む竜を探しに冒険するというもの。よくよく考えると絵本にしては重い設定だ。
「デビューは華々しくも今は全く……でさ、典型的な早熟作家だよ」と彼女は吐き捨てる。「そんなこと言わないでください!」と私は前のめりになって声をかける。
「私にとってこの作品は大切な思い出ですし、これを描いたゆかりさんに出会えて、果ては一緒にお酒まで飲めて感激……というか、訳がわからなくなっているんですから!」
「ふふふっ……。そうだね。私も久しぶりに自分の読者と触れ合えて変な気持ちだよ」
奇妙な巡り合わせに昂揚が収まらない私たちは「この出会いに乾杯」と、再び杯を交わす。
「母方が研究者一族でね。母は地学者で、祖父と祖母、祖父の弟さん……母から見れば両親と伯父さんだね。彼らも地学者で母はその研究を引き継いだ……いや、掘り起こしたと言った方が近いかな」
「『地竜プロジェクト』って知ってる?」と尋ねられ、私は首肯する。
「それ知ってます。事故で中止されたけど、ずっと後になって再開して、すごい成果を挙げたんですよね?」
学生時代にニュースで大きく取り上げられたから覚えている。「地竜」と呼ばれる探査端末を用いて、星や生命の起源解明に大きく貢献したという。詳しいことはよくわからないけどロマンがある話だ。
「そう。ちなみに中止のきっかけとなった事故で祖父は亡くなった。母もまだ小さかった頃の出来事だった」
「そんな……」
ゆかりさんは無言で缶に口を付けた。一口呷った後、ふっと小さく息を吐き、先を語る。
「祖父たちは忙しくて母の相手をろくにできなくてさ、母は子どもの頃、独りで画用紙に絵を描いて過ごしていたんだって。でも事故で祖父たちの研究が駄目になって……。そんな過去の出来事を周りからたくさん聞いていてさ、文学少女気取りだった私はね、母の生き様は良い物語になるんじゃないかって……今思うと、とんだマザコンだわ」
「暗い話をしてしまったね」とゆかりさんは自嘲気味に笑った。
「そんなことありません。もっと聞かせてください」
「そう? あなたも物好きね」
ゆかりさんは黄昏れた気持ちになっていたのか、お酒を片手にほろほろと気持ちを溢していく。あまりしんみりさせたくないという配慮とアルコールの香を匂わせながら。
「若き日の創作物ってさ、本来なら黒歴史として抹殺されるじゃん? でもたまたま描き残していたデータが母の目に止まっちゃって……。母は母で親馬鹿なもんだから、馴染みの出版社に勝手に連絡を入れて、そこからあれよあれよと話が進んで……」
「それでできたのがこの絵本なんですね」
テーブルに置かれた絵本を見る。黒地の表紙には闇を揺蕩う真っ白な竜と点々と煌めく星々が描かれてある。母親としては娘の思いを窺い知れた気がして、嬉しかっただろうなと胸の内が綻んだ。言うなれば、これは母娘の絆が形になったものなのかもしれない。
「まぁ、恥ずかしながら世に出ちゃったってことは出版社も良いネタだと思ったんだろうね。著名な学者の娘が母親の半生を基にした物語を描く……。世間的にも聞こえが良くて話題性がある。実際けっこう売れたしね」
……新作コーナーで見かけて、表紙に惚れ込んで購入したから知らなかった。
「ああ、ごめん。買ってくれた人を悪く言うつもりはないよ。これを出すのに関わった人は本気で良い作品だと思ってくれていたし、何よりあなたもそう思ったから今も大切にしてくれているのよね?」
「ええ、まあ……」
改めて問われると恥ずかしくなる。
「大事にしてよー? 私の唯一の書籍化作品なんだから」
「え?」
そういえばこれ以降の彼女の作品を見たことがなかった。驚く私に対し、彼女は気まずそうに笑う。
「実はさ、処女作がそこそこ増刷かかったから早速次の手を……となったものの、私は学業が忙しかったし、母に似ない平凡な女子だったし、それ以降良さげな作品を考えられなくてずーーーっとボツくらってさ……。嫌になって辞めちゃったんだよね。描くの」
――才能、なかったんだよね。
ゆかりさんは事もなげにそう呟いた。
「趣味でやろうとも……?」
「ぜーんぜんだね。本を出す前までは文章も絵ものめり込んでいたんだけどね……。本がなまじ売れたおかげで、本当に才能がある作家さんと触れ合う機会があったのよ。そこでまた知識も、知見も、知能も、歴然とした差を目の当たりにして打ちのめされちゃって……。『あーあ、もういいや』って感じでしゅーりょー」
――この人も、こんな才能があった人でもそうなんだ……。
ソファーで寝息を立てている彼女とテーブルに置かれたままの絵本を見比べる。どんな世界でも上には上がいるなんて、大人になる途上で気付くもの。それはわかっている。でも……。
「むにゃ……ん……?」
「あ、おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「いいや」
腫れぼったい目を擦りながら、ゆかりさんは「今何時?」と尋ねる。時間を伝えると「そう」とだけ答えて宙を見つめている。
「はい。水をどうぞ」
「あー……ありがとう」
水を渡すと彼女は一息に飲み干した。「いやー面倒な奴に付き合わせてごめんね」と、額を抑えながらため息まじりに呟く。
「いいえ、気にしないでください。初対面の相手だったからこそ、きっと色々吐き出したくなったんですよ」
「色々吐き出したくなったと聞いて催したんだけど、ちょっとトイレ借りて良い?」
背を丸めてトイレへ消えていったゆかりさんを横目に、私は昨晩の片付けを始めた。テーブルの上も私たちの身だしなみも空爆の後のようになっている。トイレからは「うヴぉぉぇ……」と亡者のうめき声が聞こえているし、ひっどい有様だ。
結局、諸々片付いて整った頃には日もてっぺんを過ぎていた。
「朝どころかもうお昼すぎだけど、どうする?」
「えっ?」
このままお開きになると思っていたので虚を突かれた。
「世話になったし奢るよ。ちゃんとお礼を言いたいし」
「そんなの願いが叶ってからで良いんですよ」
公園で拾われた蝉は主の左手薬指を登り棒のようにしてしがみついている。指輪にしては随分厳つい。
「いやでもさ、昨日の説明通りなら、願いが叶うとあなたとは会えなくなるんだよね?」
「あっ……」
蝉を受け取った顧客は私たちとの「縁」を失う。願い事は一人一回、その原則を守らせる為に課せられる一種の枷だ。
家の場所が割れているし、シミールや他のどこかでまたばったりもあり得るんじゃないかって仰る方もいるでしょう。でも、そうはならない。この土地はそういう場所だから。
「もしかして忘れてた?」
「うっかりしていました。何だかこれっきりとは思えないほど、しっくりきていたもので……」
「あらら、嬉しいことを言ってくれるじゃない。あの魔女のお姉さんが聞いたらヤキモチを焼きそうね」
「何でそこで沙夜さんが出てくるんですか」
眉をひそめる私をよそに、ゆかりさんは「ほら、早く行こう。さっき吐いたからもうお腹がスカスカだよ」と外に向かっていった。
気怠い体を急かして、昼下がりの街へ繰り出す。まどろみの中にあるような淀んだ空気の中へ……。
閉め切られた部屋から一歩足を踏み出せば、外の世界に容赦なく「身の程」というものを教え込まれるのだから、蝉も私たちも変わらない。どこへ向かえばこの胸に抱えた生き辛さを忘れられるのだろうか。
この物語もどこへ向かうのだろうか。
次回に続く。
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