蝉時雨8 奏だ <了>


 娘たちが蔵の中でどんな一夜を過ごしたのか、両親は知らない。朝を迎えて戸を開け放ってやると、蔵のどこから見つけ出したのかわからないが、姉妹は古ぼけた太鼓を大事そうに抱えながら出てきた。

 そして一言、祭りをやろうと告げた。


 日は昇り、蝉が早々から活発に鳴いている。

 おしげと姉は少し遅い朝食にありついていた。太鼓は漆塗りの箱に収められて居間の隅に鎮座している。

 彼女らとしてはすぐに祭りの話をしたい所であったが、大人はやれ反省したのかだの汚いから体を拭けだの片付けがあるから早く飯を済ませろだの宣って、本題を先送りにして聞く耳を持たなかった。

「何やねん、うちらの話全然聞く気ないやん」

 おしげは口元に米粒をつけたまま愚痴っている。姉は飯粒をひょいと摘まんでやった。すでに食べ終わっており、卓に頬杖つきながら思案していた。

「子どもの突飛な発想と思って、相手にしてへんのかもね。言いつけを守らんと怒らせてしもうたし尚更やね」

「どないしよ?お祭りできへんかったら宮司さんも力出せんで。蝉も出てこられんと益々悪いことが続くかもしれん」

 二人はとりあえず食事を済ませる。姉は誰に言われるでもなく台所で食器を濯ぎ始めた。「うちも手伝う」という妹の申し出は「ちょろっとしか水使えへんし一人でゆっくりやるわ」とあえなく断られた。

 おしげは手持ち無沙汰に居間から雑木林を眺める。大人の目が光っている以上、あそこへ抜け出すのも気が憚った。

 居間の端に置かれたままの箱が視界に入ったので、何となく太鼓を中から取り出す。面に人差し指と中指を走らせてトタトタ鳴らしながら、もう一度考えを巡らせてみた……が、方策はそうそう浮かばなかった。

「ごめんやすー!」

 玄関から声が飛んできた。今、親はいない。

「おしげ出てー」

 台所からも声が飛ぶ。姉も手が離せないようだ。「こんな時に誰よ、もう……」とプリプリしながら扉を開くと、集落のガキ大将であるタケルがいた。予想だにしなかった来客に「うわ」と思わず声が跳ねる。このガキ大将、姉とは同い年でお互い仲が良いものの、おしげはずかずか人の領域に立ち入ってくる彼の性分を好まなかった。

「何ちゅう声を出してんねん」

「いや、何で来たん?今うちに来たら大人はええ顔せぇへんで」

 そんなことはわかっている、と言わんばかりにタケルは我が物顔でズイと家の中を覗き込んだ。

「おまんの姉やんは?」

「居るけど手が離せん」

「ほうか……。夜中に子どもだけで出歩いた罰で蔵に押し込められたって、人づてに聞いたんやけどほんまけ?」

「ん」

 タケルはあちゃーと額に手をやって天を仰ぐ。「またおまんが振り回したんかいな?」とおしげへ呆れ顔を向ける。手のかかる奴だと言外に匂わしていて、おしげはうんざりした。さっさと追い返したかったので「用事は?」とぶっきらぼうに問う。

「いや、怒られてへこんでへんかなって……」

「そんだけ?」

 おしげがそのまま扉を閉めようとしたので、タケルはそれを慌てて押し留める。二方向の力の作用で玄関の戸が小さく軋んだ。

「アホ!首を挟む気か」という小声の叱責に、素知らぬ顔で「何もないなら帰りや」と突き放す。しばらく押し問答していると、洗い物を済ませた姉が「何してんのよ」とパタパタ駆け寄ってきた。

「おお、久子元気そうやん」とタケルは姉に笑顔を向ける。

「タケちゃん、どうしたんよ?」

「ひと騒動あったって聞いてな。居ても立っても居られんかったんや」

「ほんな大したことちゃうよ」

 普段は物静かな姉が彼と明るく接しているのを見る度、おしげの胸にはひんやりとした感覚が走った。取り繕っていない自然な笑顔が自分以外にも向けられていると思うと寂しかったのだ。

「さっきから思っていたんやけど、あれ何?」

 談笑する中でタケルは居間に出されたままの太鼓を指差す。風通しを良くする為に戸を開け放っていたので、玄関から居間まで窺い見ることができた。

「あれはね」と姉は大まかな事情を話す。

「妹と一緒に考えていたんよ。このまま何もせんと居るよりは、いっそ神頼みでもした方がええんちゃうかって。大昔に太鼓を使ったお祭りをしていたって、宮司さんが話していたのを思い出したんよ。そしたらちょうど昨日、蔵の中で見つけてん」

 沙夜と宮司夫妻の関係や蝉の存在、その他に命の声がどうこうといった話は伏せた。他人に信じてもらえそうにないのはおしげも重々理解していたので、姉の話に口を挟まなかった。

「雨乞いでもやるんか?神社が燃えて祈祷ができる人もおらへんのに」

「別に祈るのは専門の人でなくともできるやん」

 姉のもっともな言葉に煮え切らない反応を示す。元来、活発な少年であるはずなのだが、地域全体に及ぶ陰鬱な空気によって気が萎れてしまっていた。

「でもそれでちゃんと神様に伝わるんか?お供え物とか作法とかきっちりせなあかんやろうけど、うちの村ではそんなお祭りやったことないし……」

「ないなら始めたらええ。やりたないならうちらだけでやるから口出すなや」

 おしげに一喝されてタケルはたじろいだ。キッと睨みつけられ、年下に少年は気圧される。

 昔の時代とは言え、姉妹の主張を聞いた人々は非科学的で結果が伴わない行為だと断じるだろう。ただ、幼子の鬼気迫る形相に何も感じないような寒い世情でもない。集落の現状に心を痛めているのはタケルも同じだった。

「大人には……いや、言うたって詮ないことやな。わいにもできることはないけ?」

「タケちゃん……!」

 手を取って喜ぶ姉を見て、少年はほのかに赤面する。坊主頭に浮かんだ汗をシャツの袖で拭う。

 三人はその後の段取りについて簡単にだが話し合う。タケルには集落の子どもに太鼓を探させるよう頼んだ。

「決行日は?」

「次の寄合の日。親が家にいたらうちら動けへんし」

「時間もそれに合わせるとして……場所は?」

「あそこ」と妹は雑木林を指差す。タケルはこくりと頷いて「ほな、当日にな」と言って駆け足で立ち去っていった。おしげは内心不安で仕方なかった。人手が集まるのか、各家に太鼓があるのか、実行できた所で効果があるのか、大人の横槍が入りやしないのか、懸念ばかり湧く。

「うまくいくんかなぁ」

「おまんが先のことでくよくよするなんて、これは雨でも降りそうやなぁ」

 くすくす笑ってからかう姉を見て、おしげの心は軽くなった。

「降るかなぁ」と呟くと「降るよ」と返ってくる。他愛のないやり取りが救いに感じた。


 それから何事もなく数日が経ち、決行の日を迎えた。何事もなかったのは、ひたすら倹約して耐え忍ぶしか、村の大人には手を打てなかったからだった。やつれた顔、浮かない顔がぞろぞろと集会所に向かっていく。不正を働く気力もそれを取り締まろうとする気骨も、彼らにはもう残されていなかった。今日の寄合とて何か妙案が出る訳でもなく、ただ「水の節約をしましょう」と方針を確認し合うだけで終わるに違いない。

 空が赤らむ黄昏時、大人達が各々の家を離れたのを見計らって、子ども達は動き出した。ガキ大将の暗躍は予想以上に効果があったらしい。集落の大半の子どもが雑木林に集まろうとしていた。

 先んじて会場に待機していた姉妹も驚いていた。自分たちが呼びかけても、こうも頭数が揃うことはなかっただろう。

 太鼓がなかった家もあったらしく、鍋や食器、金ダライのような打楽器になり得そうな物を持ち寄ってきた子もいた。何なら手ぶらの者さえいた。

「いやーとにかく人数がいるかなと思って、手当たり次第に声かけたんよ。太鼓がないなら何か叩いて音が出せそうなもん、それもないなら手拍子でもええからってな。新しいお祭りなんやし、決まったやり方はないんやろ?」

 おしげはタケルをひそかに見直した。仲間内でふんぞり返っているだけだと思っていたが、彼を慕っている子は多かったらしい。一人でいることが多い自分にはそれが見えていなかった。「神様だけやない。人もしっかり見んとな」と幼心に思った。

「んで、わいらはどうしたらええんや?」

「うちがお囃子を謡うから初めはわかる範囲でええで、皆でそれに声と太鼓を合わせていって」

 蔵での一夜にて垣間見た、古の祭りの一幕を元に姉妹は簡単な祭囃子を作っていた。幼い子でも真似れる短く単調なものであるが、皆で思いを合わせれば大いなる力を発揮できると彼女らは信じている。

 タケルが「こいつは?」とおしげを指差す。「鍵はこの子が握っているのだろう?」と暗に問いただす。

「うちはここにいるもん皆の声が天に届くよう、道を開ける」

「開ける?どないして?」

「んー……グーっとしてカッとやるとしか言われへん」

「おいおい……」

「口では説明しにくいんやって。たぶんご祈祷に近いんやないかな」

「そんな曖昧で大丈夫なんか?」

「だいじょぶ!皆がいるからできる気がするんよ」

「……まぁ今更止めようとは言えんしな。よっしゃ!盛り上げ役ならわいに任しとき!」

 タケルの頼もしい言葉に後押しされ、姉妹はそろそろ始めようと決心する。集まった面々に段取りを説いて、各自位置に付かせる。

 姉妹を中心にした二重三重の人の輪ができた。ほとんどが年上の輪の真ん中で、おしげは堂々たる佇まいで声を上げる。

「皆、今日は来てくれておおきに。このお祭りはうちらにできる最後のあがきや。皆が神さんやの仏さんやの神霊やのその手のもんを信じとるかは知らん。でも……」

 タケルのような例外を除いて、集落の子どもはおしげと微妙な距離を保って生活していた。常人にはない異能を持っていることを子ども心に感じ取り、いじめはしないものの遠巻きにしていたのだ。

 おしげ自身も周囲からの奇異の目に物心ついた頃から薄々気付いていた。それゆえに他人に対して壁を作るようになっていった。外からの目が届きづらい雑木林は彼女にとって最適な遊び場所だった。

 しかし、彼女はもう人の目を恐れない。生まれて十年も経たぬ内に遭遇した災厄が、不可思議な力を持ちながらもあるがままに生きる魔女の姿が、幼子の心を揺らした。この力で人を救えるなら、この力で楽しく暮らせるなら、それで良いじゃないかと開き直れるほどに。

「今だけは信じてや。うちが雨を降らしたる」

 軽薄に吐いた言葉ではない。未だ半信半疑の一同に意気込みを示す。その為には道化や神輿にだってなると、覚悟を決めて発した。幼児とは思えぬ気迫に年長の者さえ息を呑む。忌み子特有の後ろ暗さはなく、神々しい眩さを孕んでいた。

 たった一言で場の空気が一変する。今までの鬱屈とした思いを今ここで解き放たんと各々が固く決意した。

「やろう」

 姉が面々に目配せをすると、皆は目で頷いた。トーントーンと太鼓が叩きながら朗々たる祭囃子が吟じられる。それを追うように雑然としたかけ声が発せられる。まだまだ息は揃っていない。

 おしげは目を閉じ、意識を林の全体に行き渡るように集中していく。現実世界と神域双方の「声」を聴き漏らさないよう、感覚を研ぎ澄ます。

 静まり返っていた夕暮れ時の雑木林に夜風がささやかに流れ込む。種々交々の樹々が葉を揺らし、人語のようなざわめきを生み出す。

「近付いている」と、おしげは感じた。あの時の感覚を思い出す。細く柔らかな手の温もりを……。

 祭囃子も回数を重ねるごとに少しずつ足並みが揃い始める。バラバラだったかけ声や太鼓の拍子はハーモニーとなりつつあった。熱は一帯に伝染し、むっとした高揚感が林の中を満たす。夏の暑さだけではない。命から発される熱量のようなものが場に現れていた。

 日は完全に沈み、雑木林は暗闇に支配される。それでも彼らは止まらない。憑りつかれたように一心不乱に祈りを捧げ続ける。ある種異様な光景だが本気の本気で一つの物事に取り組めば、どのようなことでもそう見えてしまうものだろう。何が彼らをそうさせているのか、蚊帳の外の人間には決してわからない。それほどまでに災禍は子ども達の精神を蝕み、感情や意地を心の奥底で焦げ付かせていた。祭りは負の気を引き剥がしてすすぎ流す格好の機会だった。

 濃紺の空に薄みがかった雲が流れている。おしげは首筋に汗をにじませ、なお瞑想し続ける。

(あと少し……あと少しで来そうなのに!)

 神域や命の光を捕捉できるまで近いのは確信していた。ただ、あと一歩に何が足りないのか、自分ではわかりようがなかった。脳裏で焦りがちらついて集中を妨げる。

(大丈夫、それで良いんだよ)

 頭の中に聞き覚えのある囁き声が流れた。ハッと我に返って辺りを見回すも彼女の姿は見えない。

(まぼろし……?いや違う)

 ほのかな熱を掌に感じる。おしげは落ち着きを取り戻して、再び祈りを捧げる。


 この日の夜は空気が澄んでおり、鳥虫のさえずりもなくひっそりとしていた。静けさの中を太鼓の音色が延々と響いてくる。それは話し合いをしている大人達にも聞こえた。

「何や?この音?」

「太鼓やな。どこからやろ?」

 しばらく経って何名かの婦人が寄合所にバタバタと駆け込んできた。彼女らは慌てふためいて「うちの子が帰ってこん」と口々に訴える。「これは何かが起こっている」と判断した彼らは寄合を中断して、子どもの捜索に乗り出す。とはいえ小さな集落だ。場所はほとんど割れていた。

 月の前を雲が横切っている。ある大人はふと気付いた。

「なあ、雲増えてへん?」

「うん?でも雨雲ちゃうし、期待できそうにないな」

「ほうか……」

 集団はぞろぞろと雑木林へ足を向ける。その中には姉妹の両親もいた。「この前のほとぼりも冷めぬ内に」とその腹の中は煮えくり返っているようであった。

 子どもだけの神楽は休みなく続いている。幾ばくか疲労が見えていたが、それでも意気を絶やさず体を動かし続けている。

 何故、諦めずにこのような非合理的なことを続けていられるのか。大人には奇妙に映ったことだろう。子どもには子どもの論理があることに彼らは気付いていない。

「何じゃあれ?」

「雨乞いの真似事でもしとるんやろ。えらい一生懸命やって……」

「あんなんやっても無駄やろうに」

 おしげの両親は先頭に立ってこのままごとを取り仕切っているのが自分の子だと気付いた。それからは気恥ずかしさや憤りやらで気もそぞろ。カンカンに怒りを漲らせて儀式の輪へ侵入する。

「これ!おまんら何やっとんじゃ!よその子もたぶらかして!」

 怒鳴り声によって祭囃子は止まる。見つかってしまった、もうダメかと子ども達は落胆する。慄いて涙目になっている子もいた。その中でもおしげは落ち着き払っていた。両親に背を向けたまま彼女は答える。

「たぶらかしとらん。雨を降らすのに皆の力が欲しいってお願いしただけや」

「それがたぶらかしとる言うんじゃ。しょうもないままごとによその子を付き合わして」

「ままごとやないよ。宮司さんが言うとったんや」

「あの人は『自然のことは人間にはどうにもならん』とも言うとったやろ。子どもなら親の言うこと聞いときなさい。あーもう皆こんなに汗かいて汚れてしもうて……」

 肩に触れようとした母の手をおしげは振り払う。振り返って両親と対峙する彼女の目尻には涙が溜まっていた。姉妹は寄り添いながら懇願する。

「子どもにできることなんてないとか、ほんな悲しいこと言わんといてよ。子どもは子どもで、できることをやろうと思って皆ここに集まっとるんやさかい。うじうじしとるくらいなら神頼みでも何でもするんや。うちはてこでもここから動かへんで」

「母ちゃん、お願いや。ここはおしげの……ううん、あたしらの好きなようにやらせてや」

「あんたら……」

 汗まみれの顔も拭わず、子ども達は眼差しで大人に訴える。いつになく真剣な表情に大人は言葉を失う。子どもは子どもなりに村のことを思っている。その気持ちが通じた瞬間でもあった。

「ん?何や?」

 その時、大人の一人が何かに気が付く。一同の視線がそちらに向いたので、彼は自分の周りを指差す。

「これよ、これ……。見えへんか?」

「ほんまや。何やこれ」

 極小の光の珠が暗闇をふよふよと舞っている。ほこりや虫とは異なる挙動を人々は不思議そうに見つめる。姉妹は「まさか」と視線を交わし合う。

「皆、もう一回やろう!」

「え?」と問う間もなく再度祭囃子が始まり、子ども達は慌ててそれに続く。大人はあえて止めようとしなかった。

 子どもが考えた祭りの真似事、出来損ないの神楽もどきは今や神妙なる雰囲気を醸し出そうとしていた。宵闇に太鼓の音とかけ声が響く。

 風が少し強くなってきた。薄かった雲も段々と月を覆い隠すほどになり、一帯は黒が濃くなっていく。そのコントラストで光の珠がより目立って見えるようになってきた。いや、実際に数も大きさも増しており、肉眼で簡単に捉えられるようになってきている。地面から草花から樹々からどんどん光の粒子が湧き起こり、行き交い、結び付き合い、林の中にぼうっとした明るさが広がっていく。

 おしげの周りには一際多くの光が集まっていた。彼女の耳に「声」が届く。


 ――ツライ。クルシイ。タスケテ。

 ――オネガイ。ネガイヲトドケテ。

 ――イキルンダ。ミンナデ。


 ここにいる人、人ならざる者、あらゆる命の声を聞き、静かに涙を流す。天上に向けて小さな手鏡を捧げ、じっと静止する。神社で沙夜から託されたあの手鏡だ。もはや彼女の耳の中では命の声が奔流となって祭囃子をかき消していた。心に食い込んでくるあらゆる思いを受け止めながら、小さな掌から天に向けて命の熱量を送り込む。この熱が天に昇って他の命を慈しむ浄の気とならんことを願って。


 ミーンミンミンミーン……。

 ミーンミンミンミーン……。


 唐突に蝉が鳴き出し、その音が一帯を支配する。「どうしたどうした」と人々があっけに取られる中、姉妹にはわかった。声が届いたのだと。

 ――木の葉に雫が落ちる音がした。

 それからはあっという間であった。しとしと降り出した雨粒は勢いを増していき、人々の手を、頬を、肩を濡らす。誰からともなく歓喜の声が上がった。

「雨や!雨が降った!」

「本当に降るなんて!これは奇跡だわ!」

 喜びに打ち震える者、肩を抱き合い涙を流す者、膝を屈して天に感謝を捧げる者、村人が様々な反応を見せる一方で、姉妹の姿は林から消えていた。



「おしげ!」

 姉がぽんと肩を叩いて歯を見せてきた。全身が汗と雨に濡れており、髪も乱れていて酷い有様だ。

「やったね」

「ん。でもまだや」

「そうやね。で、ここどこなん?」

「神域や。たぶんうちらだけここに飛んだんや」

 雫のパラパラと葉を打つ音が心地良い。向こうの雨がこちらにも影響しているのがわかった。今までのひっそりしている雰囲気と違って、どことなく華やいでいるような気がした。

「あっちや」

 少し遠くで脈動する光が見える。二人が光の出処に向かうと、ある樹の根本付近に蝉の幼虫が光の粒に包まれるようにして止まっていた。真っ白な姿をしており、一目見て普通の蝉とは違うとわかる。

「これが例の?」

「ん。みたいやな」

 蝉は一歩ずつ確実に木の幹を登る。神域の物事に人間は干渉できない。二人はじっとその様子を見守った。

 子どもの頭の上くらいの高さまで登った所で蝉の脚は止まる。背中に亀裂が入ったのが見えた。いよいよその時が始まったのだ。姉妹は各々両手を組んで「がんばれ」と念を送る。

 蝉は殻を割って、ゆっくりと力強く外の世界へ抜け出ようとしていた。霧のような慈雨の中、純白の羽が躍り出る。そこから勢いのままに腹、頭、脚が露わとなった。成虫となってもその美しき白さは変わらず、小さな肢体は宝石の如き眩さを放っている。


 ――アリガトウ。アリガトウ。


 蝉は光の粒子を引き連れながら、羽を広げて飛び上がっていった。雨雲の間から射し込む月光に紛れて、その姿はすぐに見えなくなった。

 姉妹が空を見上げていると一枚の紙切れがひらひらと舞い落ちてきた。おしげはそれを手に取って眺める。

「姉やん、これ何て書いてあるん?」

「うーんと……買取証明書?これって……」

「なになに?はよ教えて」

「沙夜さんからだよ。たぶん」

「ほんま!?」

「うん。蝉を助けてくれてありがとうってことちゃうかな」

 紙切れを大事そうに抱え込んで、幼子は精一杯の礼を空に向かって叫んだ。「君はほんと声が大きいなぁ」と返事が聞こえた気がした。



 火葬が済み、親類だけのささやかな宴も終えて、祖母の弔いは一旦の締めを迎える。法事に関して、私は遠方に住んでいることもあって「無理はしなくていい」と言われた。酔顔に夜風が心地よい。今宵は月もよく照っている。

 なおも玄関先で話し込む母達をよそに、私は祖母が使っていた隠居に目を向ける。あそこの骨董群はただのコレクションではなかった。おそらく祖母はあれらの「声」を聞いていたんだ。件の太鼓も残されているのだろうかと気になったが、祖母はもういないし祖母の姉も数年前に鬼籍に入っているので行方はわからない。叔父によると隠居はそのままにしておくらしいから、探せばもしかしたら見つかるかもしれない。

 振り返って母屋の裏に伸びる樹々の影を見やる。もう遅い時間だし、さすがに蝉は鳴いていない。

「葵、帰るでー」

「ん」と昔の祖母の口真似をして車に乗り込む。途中気になった場所があったので立ち寄ってもらった。

「どうしたん?こんな遅い時間にお参りけ?」

「そんなとこ。すぐ戻るから待っとって」

 着いたのは神社だった。私は鳥居を抜けて本殿へ、ではなく脇に建つ神職の家に向かった。インターホンを押すと女性の声で返事があった。

「夜分にすいません。ご主人はおられますか?」

「えっと、どちら様でしょうか」

 祖母の名を出すと少し間が空いてから「今行きます」と女性は答えた。玄関ドアが開き、こちらを窺う顔は夢の中で見たものと同じであった。

「どうぞ」と中へ通されると、これまた夢の中で見た顔にまみえる。主人は「待っていましたよ」と、にこやかに出迎えてくれた。

「来るのがわかっていたんですか?」

「これでも神ですから……ってのは冗談です。彼女からメッセージが届きましてね。ほんと便利な世の中になったもんです。いちいち頭の中に声を送り込まれるのは大変でしたから」

「正直、あそこで見た物が現実にあったとは今でも思えません。でも……」

 言葉を探す私に彼は優しく語りかける。

「それで良いんですよ。大事なのは神やその世界の実在云々ではなく、あなたが見た物に対し、どう感じたのかです。それがあなたの世界を作るのです」

「それに、あんないい加減そうな神を見たら信仰心も失せるでしょう」と、主人は冗談めかして付け加えた。あんまりな物言いに思わず噴き出してしまう。私は「ですね」と笑って同意した。

「だからこれをもらっておきました」と、私はシャツの胸ポケットから蝉の抜け殻を取り出した。これが沙夜との邂逅、祖母が体験した出来事が事実だと示してくれる。質よりも手元にあることが大事、世の中はそういうものばっかだ。

「ははは、彼女のしかめっ面が思い浮かびますよ」

「ええ、まあ……。『借りを返す』と息巻いていたのに、こんな物が欲しいと言われて困惑していました。『こんな妙な願いを叶えたのは初めてだ』とも」

「さすがはしーやんのお孫さんです」

 まだまだ話したいことはあったが、携帯に母から「まだ?」とメッセージが送られてきた。私の事情を察してか、主人は「またいつでも連絡してきなさい」と連絡先を教えてくれた。

 車に戻り、帰途に就く。その間、母は何も尋ねてこなかった。それはそれできまりが悪いので、私から話しかける。

「なあ」

「ん?」

「向こう出る時な、隠居の中を覗いたんやけどさ」

「うん」

「やっぱり布袋さんの表情変わってたわ」

「うそ?どんな顔してた」

「笑い泣き」

 命の声はちゃんと誰かに届いている。だから私はここにいる。


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