セミダブル6 インフルエンサーよりも母ちゃんの言うことを聞きましょう


 本日も何事もない、凪のような一日だった。の些細なきっかけも逃さぬよう、気を張るのにもそろそろ倦み始めてきた。蝉の幼虫は私の髪なり肩なり腕なりをもぞもぞ行き来しては、とぼけた顔でこちらを見つめ返すばかりでいつもと変わらぬ日々が続いている。

「私、おかしくなっちゃったのかな……」

 携帯の画像フォルダを開き、空を摘まむ己の手の写真を眺める。街行く人々が気にする素振りを見せないし、会社の同僚からも見咎められない事実からして、この節足動物が自分しか見たり触ったりできない不可思議な存在なのは確かだ。

 そもそもあの日の出来事も蝉の存在も全て夢や幻覚の類だったらどうだろう? そういえばあの時行ったバーも、蝉を受け取った公園も、泊めてくれた女の子の家も、いずれの場所もジャミングがかかったように思い出せない。現状への不満や願望が強すぎるあまり、夢幻さえ見るようになったと考えた方がまだ現実味はある。実際は一人でその辺に寝泊まりして酔いつぶれていたのだろう。魔女が望みが叶う道具を渡してくるのも、泊めてくれた女の子がかつての私の作品の読者というのも都合が良すぎる。

 ――大丈夫大丈夫。地中にはマントルを泳ぐ竜だっているんだ。

 かつて母からおまじないとして教えられた言葉の一つが脳裏によぎる。母はよく「元気が出る言葉」と称して、私にしょうもない名言風戯言を吹き込んできた。幼い頃からそれを聞き続けていたせいで、今でも不安が募った時にぽっと浮かんでくる。

「そうだね。地中とコンビニには何でもある」

 憂いを振り払うように私は目を閉じた。

 おまじないが効いたのか、はたまた漸く蝉のご利益がやってきたのか、ある出会いをきっかけに私の陰り気味の心模様は雲行きが変わってゆく。


 その日は久方ぶりの定時帰りでうきうきしていた。贔屓にしている配信者の記念配信に間に合いそうだったのもあって、気分は有頂天だった。「帰りにコンビニでお酒とおつまみを買って、配信まで全裸待機(実際に全裸になる訳ではなく、そのくらいの意気込みで臨むの意)だ!」と、粛々と帰路を急いでいた所に奴は現れた。

「……ゆかり?」

 黒縁の眼鏡にモノトーンの出で立ちで、如何にも没個性的な外見の青年が私の名を呼んだ。

 彼がいわゆる「運命の相手」だとしたら、神も底意地が悪い。何故なら彼は私が二度と会いたくないと思っていた相手だったから。

「佐藤くん……!?」

 彼の名は佐藤由貴ゆうき、大学の同級生でかつてはオスとメスの仲だった相手だ。シミールで静羽達に語った元恋人とは彼のこと。容姿が没個性なのに加えて、姓さえもこの国で一番多く見られる平凡なものなのに、彼には特別な個性、つまり非凡な才能があった。

「地元に帰っていたんじゃなかったの?」

「取材のついでにちょっと玻璃さんの研究室にも行く用事があってね。まさか会えるとは思っていなかった」

「取材」という単語、私の偉大な母「来栖玻璃くるすはり」の関係者、この断片的な情報から見ても彼が凡骨な輩ではないと第三者には察せられるだろう。悔しいが本来なら私と釣り合わない男性だ。

「母さんのラボに……? それはともかく私だって、こんなとこで売れっ子作家さんにお会いできるなんて思いもしなかったわ」

「その口振り……元気そうで何よりだ」と佐藤は額を掻く。

 彼には物語を創る才能があった。私などとても及ばない程の……。

 同時期にデビューし、そこから次作を出せなかった私と違って、彼は本を出す度にドラマ化映画化何のその、飛ぶ鳥どころか流れ星さえ撃ち落とせそうなほどの勢いで実績を積み上げていった。学生の間に出版社との関係を着々と築き上げ、卒業後は地元に帰って両親の「家業」を手伝いながら文筆業を続けていた。

「あなたのご両親は元気?」

「聞くまでもないだろ? 君のお母さんとうちの親は毎日リモートでやり取りしているんだから」

 彼の両親もまた学者であり、しかも母と共同で研究していた。かと言って私と彼は幼馴染の関係ではない。住んでいた地方がまったく違うから子どもの頃は会ったことがないし、同じ大学に通うようになって初めて互いの顔を見知っても、ただ単に「親同士は仲が良い」だけで赤の他人同然の関係だった。それが変わったのは私の作家デビューが決まってからだった。

「それより……聞いたよ? 最近、帰りが遅い日が多いって」

「いやいや仕事だの付き合いだの色々あるのよ。ってかこの歳の女に言うことじゃないって。それ」

「それなら『遅くなる』って連絡の一つでも寄越してあげな。どうせ一人で何か思い悩んで、その辺で飲んだくれているんだろう?」

 別れてからそれなりの年月が経っているのに、腹の底まで見透かされていて腹が立つ。

「あんたには関係ないでしょ」

「いや、関係ある。うちの親がひたすら愚痴を聞かされる羽目になって研究が進まない」

「ここに来たのはそれも一因なんだ」と佐藤は苦笑する。母がうじうじめそめそしているのが容易に想像できて申し訳なくなる。あの人はそれだけ私を溺愛している。

「あー……うん、それは……ごめん」

 愛の裏返しと思えば悪い気はしないけど、周りに面倒をかけるのは娘としても辞めてほしい。かつて聞いた話によると「研究にも娘にも一途な人」と学界で語り草になっているらしい。

「端で聞いていて飽きないから良いけど、あまり心配かけさせないようにな」

 ……母は彼らに何を語っているのだろうか。

「別に大したことは話していないよ。ただ、そうだな……。それなりに君のことを見知っているから相談に乗れることもある。嫌じゃなければ場所を移して、少し話をしないか?」

 本来なら言うまでもなく、推しの記念配信を優先するところだった。作家の癖に味気も毒気もない話しかできない人なのは昔の付き合いでわかっている。

「ヤダ」

「タダ飯に預かれると思って付き合ってくれたら良いから。これでも君の言う売れっ子作家になったおかげで良い店を知っているんだ」

「やだよ。あなたの話はつまみにもならない、略してつまらないんだもの」

「そこまで言うか?」と佐藤は引きつった笑いを浮かべる。何の面白みもないその反応を無視してさっさと話を切り上げようと思った矢先、彼の肩口に何かが乗っかっているのに私は気が付いた。

「あれ?」と疑念が声になって漏れた頃には、それが何なのかもう認識できていた。「えーマジかよ……」と内心毒吐きながら舌を巻いてしまう。あの蝉売りの二人組は何を考えて彼に……。

「どうした?」

「……やっぱ行く。つまみになる話が見つかったわ」

「何を――」

「もうとぼける必要ないよ? この子が見えたから私に声をかけた。そうでしょ?」

 私は蝉の幼虫を手の甲に乗せて彼に見せた。小さな相棒は不動にして為すがままにうずくまっている。

「――昔、玻璃さんが言っていたんだ」

 佐藤は自分の肩に止まっているそれを摘まみ上げ、私と同じように手の甲に乗せて差し出した。私の子と比べて若干大きく、甲殻も張っているように見える。

「偶然にも意味はあるって」

「この再会に意味があって、あなたが私の悩みを解く鍵だというのなら最悪ね。このを素揚げにして喰う方がマシだわ」

「そんないかにもな『苦虫を噛み潰したような顔』をされるとはな」

 たしかに佐藤なら私のことをよく知っているし、しかも収入も申し分ない。とはいえ、いくら他に相手が望めないからと言って、彼と縒りを戻すなんて考えられなかった。それは向こうだって同じだろう。一度は将来を見据えた付き合いをしていたものの、すでに完全な決裂によって袂は分かたれている。当時の私達は自分の生活キャパシティに他者の存在を受け容れる度量がなく、ほしいままに別の物を詰め込みたがっていた。彼は自分の文筆業と学術を優先したし、私は私で現状の生活を手放して彼についていく気概はなかった。作家業を挫折した私がそれで大成功を収めている彼と一緒になったら、水をかけて土に埋めた創作熱の灰が再び燻り始めて、心を焼くだろうから。

 破局を迎えて幾年が経ち、親愛の情も文筆への意欲も枯れ果ててから再び彼とまみえたことに何の意味を見出せば良いのだろうか。彼と将来を再設計? 作家の夢を再び追う? あり得ない。覆水はすでに雑巾で拭き取られており、今更それを搾った所で乾いてしまっていてカスカスだ。でも――。

「現象に意味を求めることは人間に与えられた稀有な力だ」

「それも玻璃さんがよく言っているね」

「ちょっと悩んだり迷ったりすると、母の言葉がスッと出てくるから私も大概なマザコンよね」

 偶然を本当にただのたまたまだと断じるのは容易だ。彼に付き合って時間をふいにする必要はないし、さっさと家に帰ってお酒を片手に配信を観た方が私の精神にとって有益なのは間違いない。

「正直、超かったりぃけど……。互いに蝉を連れているのがただの偶然とは思えないからね。この子達に引き合わせられたのなら、その流れに乗ってみるのは悪くないかもしれない」

 正直、彼の紹介で良いお相手に巡り合えるのではと一縷の期待も込みで了承した。

「時間の無駄だったと思わせないようには努力するよ」

 それから彼は極めて自然に私の手を取った。「あっ」と思う間もなく、懐かしい感触に引かれて往来を進む。おぼろげに見覚えのある細道に入り、なお彼の足取りに迷いはない。

(あれ……? 最近来たことあるような……いや、それだけじゃない)

 記憶領域に至る扉の建付けが悪い。ノブを引っ張って思い出そうとするが、扉はギイギイと歪な音を立てるだけでなかなか開いてくれない――何か大切なことを忘れている気がする。

「ここだよ」

 その外観を臨んだ瞬間、内側から蹴破られたかのように記憶領域の扉が吹き飛び、追憶の波が意識の中にドッと押し寄せてきた。


 ――シーンーグールベーッドで……。

 ――人生ってままならないよね。

 ――どうもー行き遅れのゆかりですー。


 ――今は別に願い事はないかな……。

 ――だったら取り置きサービスみたいなことできないの?

 ――必要になった頃には成虫になっているかもよ?

 ――それならそれで良いじゃん。あーでも羽化の瞬間は見てみたいな。テレビで見て感動したんだ。


 ――別れましょう。


 どうして今まで思い出せなかったのだろう。ついこの間の出来事も、そして――。

「あなたと付き合っている頃にも来たことがあったはずなのに」

「そう。僕達はかつてここに来たことがあった。そして、あの人に出会い……いや、この先は中で話そうか。立ち話では君も整理がつかないだろう?」

 古めかしい扉がキイと音を立てると、ささやかに鈴が揺れてその音色が私達を出迎える。思い出の奔流を遡りながら、私は由貴と共に小粋なマスターが営むあのバーへと入っていった。


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しずけさや 壬生 葵 @aoene1000bon

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