断章Σ その可能性はすでに書いた
蓬は櫟の書いた章を読み終えると、わざと低くしているとよくわかる声で笑った。
「つまり私はどうあっても死ぬわけっすか」
「笑ってる場合じゃないでしょう」
「それを言うなら、書いてる場合じゃないでしょう」
蓬の言う通りなので、櫟は笑った。笑ってやった。
サザン――陵の死体は疑いようもなく本人であると確認された。
櫟と膠は警察署で連日取り調べを受け、櫟がどれだけ無関係だと主張しても取り合われなかった。膠がなにを喋ったのかは知らないが、警察署を出た時のあの嬉々とした表情からして、相当酷い扱いを受けたのだとわかる。
膠は己の尊厳を踏みにじられることを進んで行うし、それを求める。どれだけ傷つこうが愉悦の表情を浮かべる彼女を隣で見ている櫟は、その裏側の果てのない絶望を勝手にくみ取って酷く心を痛めてしまう。
なにが「道連れにはしない」だ――櫟はとっくに助手席に乗せられている。
警察相手に同人活動やインターネットでの関係を話しても徒労に終わることはわかっていた。膠とは友人ということにして、膠の友人の陵の家に遊びに行ったら死んでいた、と押し問答を延々繰り広げる羽目になった。
最終的に櫟と膠に逮捕状は下りなかった。重要参考人としてまだ警察署通いの日々が続いてはいるが、あらゆる物証が二人の関与を否定してくれている。
もともと悪かった職場の居心地は最悪になっていた。まだ容疑者にすらなっていないのに、明らかな犯罪者を見る目に毎日さらされる。それに耐えて終業時間になると、昨日と全く同じことを繰り返し話すために警察署に向かう。
顔を合わす度に喜色満面の度合いが増していく膠を見て、さらに落ち込む。日に日に加速している彼女の破滅願望が閾値を超えてしまったら、死期を悟った猫のようにどこかへ去っていってしまうのではないかと櫟は怯えている。
道連れにはしないでほしい。それ以上に、置いていかないでほしい。二つの相反する願望が生まれた時点で、どうあっても櫟は膠に道連れにされてしまう。膠は気付いていないのだろう。だからあんなことを宣った。
櫟の心中など知らずに、膠はまだあの実名小説を書いていた。どうやら櫟に知らさずにほかにも面子を揃えていたらしく、ファイル共有サイトには支離滅裂な章ごとの投稿が相次いでいた。
それを読んでいる時の櫟の精神状態は、おそらく普通のものではなかったに違いない。陵が死んだことで日常生活で朝から夜まで苦痛に浸っている状態の櫟が、実名で陵も含めた登場人物が殺されていく小説群を読んで、まともでいられるはずがなかった。
だから書いた。陵が死なないまま続く章を。
せめて物語の中では、陵が生きていてほしかった。陵という個人への哀悼の念ではなく、この鬱陶しい現実を少しでも紛らわしてほしいという愚かな願望だった。
陵の死なない小説。そのために蓬には小説上で死んでもらった。
蓬は膠と直接会うより前に、同人誌即売会で顔を合わせ、その後も何度かこうして会っている。世間的にはベストセラーではあるが二次創作界隈ではマイナーな小説の二次創作小説を書いているという、マイナーの乗算の上で固定ファンを確保しているそのスタンスは櫟とも通じるものがあってネット上でも親しかったが、やはりと言うか会ってすぐに意気投合した。
「まあ私もダブリバさんに誘われて書いているわけですが。こうしてサザンさんが死んだとあっちゃあ、書く気もなくなってしまいましたよ。サザンさんを殺せば不謹慎。ほかの誰かを殺せば身代わりですもんねえ」
莞爾とした笑みを見せる蓬から、非難の意図は伝わってこない。言っていることと要求が異なる――もっとやれ、と言外に煽っている。この女もそういう手合いだ。
「でもいまさら、人が死なない話に転換するのは無理ですしねえ。あまりに、人が死にすぎた――ってやつっすよ」
次々投稿される実名小説。前後のつながりも登場人物のキャラクターにも一貫性のないその作品群の中で唯一共通しているのは――誰かが死ぬということ。
死体が出現しないままに終わるのは、最初に膠が上げた章くらいのものだった。以降は最後に思わせぶりに死体を発見したり、目の前で殺害されたり、つながりのない前の章を受け、死体がある前提で推理を繰り広げる。
この支離滅裂な世界はもはや、人が死ななければ成り立たない。
それは櫟の立っているこの世界にも同じことが言えるという、どうしようもないうすら寒さに脂汗が滲む。
陵は死んだ。死は覆らない。ならばこの世界は陵が死んだ上で回っていくし、陵が死んでいなければ世界は立ち行かない。
ならば――もう別の世界を観測するしかないではないか。幸いなことに共有ファイルの中には観測可能な世界の断片が無数に転がり始めている。その中で陵が生きている世界を書き連ねることを非難されるいわれはない。
「フォウマさんは――」
櫟は言い淀んで、それがいかに滑稽であるかに気付いて赤面する。
蓬は作中でしょっちゅう死んでいる。先行作品に便乗する形で櫟は蓬の死体を登場させた。
それはむしろ歓迎すべきことであると、蓬は鷹揚に構えている。櫟と違って蓬の世界はずっとつつがなく回っている。櫟が己の願望を吐き出して、陵の存在する世界を喚起したい――この世界にノーを突きつけたいなどという幼稚な衝動に支配され始めていることを、蓬は知らないし、知りたくもないだろう。
だから――櫟が作中で蓬を殺してしまったことを申し訳なさそうに当人に確認することの、なんと愚かなことか。
案の定、蓬は声を作るのも忘れて笑い転げた。すみません、すみません、と一応は櫟の心中を気遣いながらも、畢竟それがあまりに滑稽で、しばらく爆笑はやむことがなかった。
「いや、すみません。そうですよね、トイチさんはモロ当事者なわけですし。私もサザンさんとは何度かお会いしてたので、それなりにダメージはあったんすけど……」
櫟の辟易とした顔を見て、蓬はもう一度謝る。
「そう構えずに、いいんすよ、いくらでも殺してくれて。いまんとこ私がダントツで殺されてるわけっすし。溜飲下げるためでも、サザンさんの身代わりでも、なんでも構いませんから。殺しやすい奴から殺すのが上策っすよ」
櫟は思わず目を丸くした。蓬の今の言葉には、どこか普段の諧謔だけではない、自嘲のようなものが含まれていたからだ。
「さて、じゃあ私も続き――つってもまた章単位のカットアップっすけど――書きますわ。誰が死ぬかはお楽しみに」
「やっぱり、死ぬんですか」
櫟はもう自身の内心を厳重に隠すことを忘れていた。たぶん、蓬はとっくに気付いていて、その上でこれから書くと宣言している。
低い笑い。蓬は作為的でもったいぶったしたり顔をして、スマートフォンの画面をタップする。
「なにか忘れちゃいませんか? この小説、まだ――探偵役が登場してないんですよ」
「私たちで推理合戦をするっていう趣向じゃないんですか?」
「そうだとしても、明確に推理を引っ張るキャラクターはまだ確立されてないじゃないですか。みんな遠慮して、探偵役を出すのを渋ってるんすね。死体役はまあ、殺されりゃいいだけだから誰でもいいんすよ。探偵役は語り手じゃないにしても実質主人公ですから、誰をはめるかはそりゃ紛糾しますよ。こんなとこで学級会なんてごめんっすもん」
櫟は力なく笑った。そんなレベルの話題で論争が起こるような面子ではないが、確かに創作においては皆一様にアレに刃物を持たせたような連中ばかりである。いわば今は互いに間合いを測りながら、誰が最初に一の太刀を振るうかを見極めている状態だろう。
「探偵役を作り上げるにしても推理合戦をするにしても、まあ死体は必要ですよね。それは覆りませんが、話がそこで停滞してちゃ堂々巡りです。そこで提案なんすけど、推理をおっ始めるきっかけとして私の死を思わせぶりに使ってしまおうと思うんです。やっぱ早々に退場したからには、今後の事件に影響与えたいじゃないっすかー」
そこで櫟のスマートフォンが鳴動した。蓬に断りを入れてから届いたメッセージを確認すると、膠からだった。
――探偵、見つけましたので。
どういうことだと真意を問いただしたい欲求で支配されるが、ここで愚直に質問してはこれまで互いに築いてきた簡略化された文書を使ったコミュニケーションに傷を入れてしまう。
櫟にとって膠とのこうしたやり取りは、それだけで非常に楽しくスリリングな関係の構築だった。互いに共有する知識、流行、ジャーゴンを必要最低限に織り交ぜて空中で投げ合う。
一歩間違えれば大きな齟齬をきたしかねない危険性と常に隣り合わせであるが、だからこそ現在それが滞りなく可能になっているのは、その関係を構築し続けてきたからなのだという自尊心のようなものを持っている。
ゆえに、そこに水を差すような発言はしたくなかったし、意気地のない櫟にはとてもできそうになかった。
――誰?
結局返信は言いたいことのほとんどを削ぎ落とした二文字だけのものになった。本当は発言の意図のほうが知りたいというのに、相手の話題に乗ってみせる。それは櫟が身につけたスキルであると同時に、単なる虚勢でしかなかった。
虚勢であろうと、張るしかない。それにつけてもナメられたら終わりだという緊張感の中で櫟と膠は談笑する。膠とはリアルの生活でも関係が続いているが、それ以前に始まりは同人活動であった。
もとが同じジャンルで似た傾向の二次創作小説を発表していた間柄であるがゆえに、刺すか刺されるか――そんな雰囲気が言外に立ちこめる。少なくとも二人の間ではそうだと、櫟は認識している。
出発点から離れられていないのはひょっとして櫟だけなのではないかと、時々思ったりもする。膠はとっくに心の底から櫟を受け入れていて、櫟が一人滑稽にも距離感を測量し続けているだけなのではないかと。
けどきっと、膠のことは櫟などには皆目わからない。膠はそうした類いの人間だということだけを、櫟はいやというほど理解している。ならばわかったような顔をして、背後から刺されないように牽制し続けるしかないではないか。
――我々は彼女から逃げられない。
帰宅して確認すると届いていた膠の返信に、もう返信することはしなかった。
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