断章Ω 邪味の雫

 膠は明らかに不機嫌そうに、電源の入っていない電子煙草のカートリッジを唇で動かし続けていた。学内は基本的に禁煙で、文芸サークルに与えられたこの狭い部室もその中に含まれる。

 ほとんど年中休業のこのサークルに部室があるのは、単に大学と同じだけの歴史があるからだった。嘆かわしいことだと文句を言う者はいない。大学自体そこまで古いものではないし、卒業生曰く、これこそが文芸サークルのあるべき姿なのだという箴言を代々受け継いでいるらしい。

「急性アル中か。目ぇつけられたら面倒だね」

 吐き出したカートリッジをそのまま手でキャッチし、ペン回しの要領でくるくるともてあそぶ。そんな膠の言葉は、櫟と陵がこの場に呼んだ意図とは完全にずれていたし、それは膠も承知の上だった。

「読んだでしょうよ。蓬の書いた章」

 櫟が切迫した顔で言うも、膠はまたカートリッジを口にくわえた。返答拒否のサインだったが、それはそのまま肯定の意でもあった。

 居酒屋で倒れた蓬は、櫟が確認した時点で死んでいた。飲みすぎて寝入ってしまうことはままあることだったので、起こそうとした時点で初めて、櫟は蓬が息をしていないことに気付いた。

 急性アルコール中毒――大して珍しいことではない。大学近辺の飲み屋ではそれなりに起こる事故だ。死に至る者はそこまで多くはないが、去年もほかのサークルで新入生が「洗礼」を受けて一人死んでいる。

 蓬の死体は粛々と、だが淡々と処理された。遺体を引き取りにきた家族と顔は合わせていない。地元で簡単な葬式をしたそうだが、参列することは遺族から拒否されていた。

 蓬が本当に死んだ。小説の中で何度も殺されたと自嘲していたはずが、現実のほうに死の影を招き寄せてしまったのか。

 だが、櫟たちが戦慄したのはそんなことではない。言ってしまえば蓬の死は単なる事故死である。問題は――やはり小説の中にあった。

 最後に訪れていた居酒屋の閉店時間は午前一時。それがそのまま、櫟が蓬の死亡を確認した時間である。

 その一時間前、日付が変わってすぐに、共有フォルダに一篇の章が投稿されていた。

 作成者は蓬。

 内容は、死体役ばかり担わせられる蓬が、ならば自分の死を契機に探偵役を登場させようと豪語するというものだった。

「蓬のダイイングメッセージ――になるのかね」

 陵が引きつった笑みを浮かべて膠に目をやる。

「で、これは交霊会かなにかなのかな?」

 鬱陶しげにカートリッジをホルダーから出し入れさせ、膠は陵の言葉を撥ねつける。

「蓬の言葉通り探偵役が登場していないから、蓬の小説――の書かれることのなくなった続き通りになるように私たちの中からそれを見繕おうと?」

 吐き捨ててから、膠は鼻を大きく鳴らす。

「面白いじゃない」

 まずい――櫟は自分でこの場を設けておきながら、言い知れぬ不安に襲われた。

 膠が乗り気になってしまうのは、全くの予想外だった。

「まあ待ちなさいよ。私がやりたかったのはそこまで大がかりなことじゃなくて、なぜ蓬がこれを死ぬ一時間前に投げたかっていう――」

「んなもん、酔ってたからに決まっとるでしょ」

「身も蓋もなさすぎる」

 蓬の断定に陵が呆れるが、櫟は待ったをかけた。

「急性アルコール中毒では血中のアルコール濃度が0.4パーセントに達すると死に至るとされるのね。で、そこから死ぬまでに一時間から二時間かかるわけよ。泥酔に該当するのは0.2パーセントまでで、0.3パーセントを超えると昏睡状態になる」

「蓬はゲロ死じゃなかった……つまり純粋な急性アル中」

「そう。蓬が死ぬためには、昏睡状態に最低でも一時間は陥っていないと説明がつかない」

 膠が忍び笑いをこらえ切れずに、大きく息を吐く。

「なに」

「いやね。止めようとした櫟が率先して推理を披露するもんだから」

「これは――」

「そうだろうねえ。単に蓬の死に不審なところがあるということを確認したかっただけなのかもしれない。しかし、現に今、私たちは蓬の筋書き通りに進んでいるとは思わない?」

 絶句する櫟を愉快げに見て、膠はどうぞ続きをとばかりに加熱されていない電子煙草を口にくわえた。

「――私は、この章を書いたのは蓬じゃないんじゃないかと思う」

「文体は、見た感じ同じだけど」

「『作者当て』、前にやったの覚えてるでしょう」

 陵ははっとしてパイプ椅子にふんぞり返る膠に目を向ける。

 このサークルで不定期に行われるゲームのようなものが「作者当て」だった。サークルメンバー全員が作者名を出さないまま掌編を書き、それを読み合って作者が誰かを推理するというもの。

 前回行われたそのゲームで、二つの作品に等しく蓬が作者であると票が入った。

 正解が発表されると、片方の作者は確かに蓬であったが、もう一方の作者は膠だった。

 膠はその気になれば、容易に他人の文体を模倣できる。反省会という名の飲み会で、膠は場を混乱させたかったと動機を語りつつ、その底知れぬ筆力を暗示していた。

 膠ならば、蓬と同じ文体で断章を投稿することも可能なのではないか――。

「突っ込みどころ満載すぎるんだけど、一つずつ処理するか。まず第一に、あの章を投稿したのは蓬のアカウントだということはわかってるよね。私は不正アクセスはしていないし、そんなスキルも蓬との結託もない」

 音を立てて机に電子煙草を置き、膠は前屈みに構える。

「どうぞ、一つずつ、いくらでも」

「じゃあ、あれを書いたのは膠?」

「ノー。だけじゃ味気ないし先回りして芽を摘んでおこうか。まず私はあの日の飲み会に参加していなかった。だから蓬が飲みすぎる可能性も、死ぬことも、そのタイミングだって把握のしようがない。私が蓬から断章とアカウント情報を託されていたとしても、投稿時刻は蓬の死後でなくちゃあ演出としての効果がまるでなくなってしまう」

 その通りだと櫟は言葉に詰まる。

 もしあの章が蓬による己の死によって意味を持つなんらかの「告発」のようなもので、その意志を膠が継いでこんな真似をしでかしたのだとしても、膠の言う通りこの演出ではまるで力を持たない。蓬が確実に死んだと判明したのちに蓬の名義で作品を上げる――死者からの告発という形にしたほうが、この場は大いに荒れただろう。そもそもあの章から、櫟が読んだ限りではそのような意図は全く掴めなかった。

 この場で櫟たちが混乱しているのは、蓬にあの断章を投稿するだけの意識レベルが残っていなかったことが明らかだからだ。はっきり言って、それ以外の疑念はあとからなぜだかついてきた塵芥のようなもので、だからこそ混乱は極まっている。

「たとえば――たとえばだけど、誰かが蓬のあれ」

 形状は見覚えがあるのに名称が浮かばないのであろう陵に、櫟はスキットル、と名称を教えてやる。

「それに、なにか混入させてたりしたら、どう?」

「ほーん、毒だなんて言わんだろうな?」

 膠の挑発を一笑に付し、陵は蓬との思い出を語るように続ける。

「蓬は飲み会でもなんでも、出歩く時はあのスキットルを持ってたでしょ。中身はウォッカで、自宅に帰るまでには必ず空にする。でも、管理は相当おざなりだった。この机の上に放りっぱなしでどこかに出ていくことも多かったし、珍しがって見せろって言ってくる相手にはすぐに貸してそのまま半日預けっぱなしで相手を困らせるのもしょっちゅうだった」

「毒を仕込むチャンスはいくらでもあるわけか」

「毒なわけないでしょうが。警察が見逃すはずないんだから。でも、同じウォッカなら?」

 膠がなるほどと頷く。

「ウォッカのウォッカ割りということか。多少の嵩増しならば気付かないだろうし、加えてウォッカの中には度数が八十を超えるようなふざけた代物もある。蓬はあのスキットルを空にしてしまうことがルーチンになっているから、あからさまでなくとも死に至るレベルの度数に調整してしまえば、自分で証拠も飲み干してくれるというわけだ」

「そうなると、死亡時刻も計算――設定できるかも」

「死のタイマーか。スイッチを押すのは膠自身というのも洒落が効いてる」

 櫟は陵と膠の話を聞きながら、奥歯に詰まっていたものがうまく外れた気分を味わい、声を上げて笑い出した。

 ぎょっとして膠と陵が櫟を見るが、櫟の笑いは収まらない。こいつはいよいよ犯人の自白タイムかとすわ身構える二人に、まあ落ち着けと櫟は笑いながら口を開く。

「度数なのよ。通常のウォッカは四十度。それで計算してたから、駄目だった。でも陵の言ったような度数を高める手法を使えば、こちらの計算も変えなきゃいけないわけ。つまり血中アルコール濃度は当然、摂取したメチルアルコールが強ければ強いだけ、速やかに上がっていくでしょう。泥酔状態の0.2パーセントから昏睡、死亡確定の0.4パーセントまで血中アルコール濃度が上がるのに、大して時間がかかっていなかったとしたら? そう、泥酔状態の最後の意識でこの章を投稿し、即座に昏睡状態に陥って一時間後に死亡したとすれば、綺麗に説明がつくんだよ。なあんだ、謎なんてなかったじゃないの」

 さて帰るかと立ち上がった櫟に、膠が座れと吼える。

「櫟、君は自分の疑問だけにしか目を向けず、重大な点を見逃している。陵の推理も君の結論も、所詮は憶測の域を出ていないが、もしこの二つが噛み合った場合、不気味な影がぬっと顔を出すじゃないか。何者かが蓬のスキットルに混ぜ物をした。これを蓬が死んでいる以上殺意と捉える。そこに君の結論――投稿した断章が蓬自身の手によるものだという仮定を加えると、この断章が急に意味を持ち出す。そう、最初に立ち返ってしまうんだよ。これが蓬によるダイイングメッセージ――あるいは、死者からの告発であるというね」

 櫟は座ったまま、がくがくと震えていた。

 その程度、即座に理解できた。帰ると言ったのは一刻も早く逃げ出したかったからだ。

 蓬が己の死と何者かの殺意を悟ったとして、この章を投稿した理由。その答えは文字列の中にはっきりと書いてあった。

 蓬の死をきっかけとして、推理を――探偵役を見出させようと目論んでいる。そう、きちんと書いてある。

 それになんの意味がある――蓬の提唱した言葉を思い出す。「未完成原稿推理」。推理すべきは蓬の死だけではない。永遠に続きが書かれることのなくなったこの断章――その存在しない結末をも推理せよと蓬は闊達に笑っている。

 蓬は果たして、己の死をも演出としてしまうほどのエンターテイナーだろうか。そうではないと櫟は震える手を握る。これは膠が「作者当て」でやったのと同じ趣向だ。

 ただ単に、場を混乱させる――それこそが蓬の最期の茶目っ気か、あるいは復讐だった。

「書くしかない」

 陵がうなだれたまま、そう漏らした。

「蓬の目的はそれ以外にない。私たちに血を吐きながら続けるマラソンをやらせようとしてるんだよ。もしも書けないなんて言い出すやつがいたら――そいつが犯人だ」

「なるほど面白い。蓬は誰よりもフィクションの力を信じていた。妄信と呼べるレベルでね。小説の中での告発も自白も推理も、なんら意味をなさないという大前提を理解した上で、推理を、自白を、告発を書き連ね続ける。フィクションに耐えられない、フィクションを信じてしまうという背信を犯した者こそが、まさしく犯人にふさわしい」

 確かに蓬の考えそうなことではある。作者全てが探偵役。蓬は言っていた。下手な鉄砲う数打ちゃあたる――あれは読者による推理を指したものだったが、無数の作者が現実の事件を扱って無数の無秩序な断章を書き続ければ。

 あるいは、真実は小説の中にこそ垣間見えるのかもしれない。

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