断章α 二枚のとんかつ

 膠はへらへらと笑いながら、もう何度目になるのかもわからない櫟の詰問を受け流した。

 この男にこちらからこうも関わっていることに心底ぞっとするが、それでも櫟は膠を問い詰める必要があった。

 陵の部屋で見つかった死体――蓬とフォウマはイコールでつながった。

 フォウマ――蓬は都内在住で、こんな観光地でもない地方に出向く理由はまず存在しない。

 ゆえに、考えられる可能性は、インターネット上で付き合いのある膠に呼び出されたというもの以外にない。

「本当になにも知りませんよ。だって俺、あの翌日にフォウマさんにトイチ先生を引き合わすために新幹線のチケットまで取ったんですよ? その上でフォウマさんをこっちに呼び出すなんて無駄遣いできるほど懐は温かくないです」

 この弁明も何度も聞いている。ならばもう一歩――踏み込んでしまおうか。警鐘が頭の中で鳴り響くが、それを無視して膠へと詰め寄る。

「お前が殺したんじゃないのか? フォウマさんを呼び出して殺し、俺と明日フォウマさんを訪ねる予定を入れておくことで心理的アリバイを作っておく」

 膠はそれを聞くと愉悦に顔を歪め、感涙をはらはらと落とす。

「トイチ先生、俺のこと初めて『お前』って呼んでくれましたね」

 舌打ちするのも悪態を吐くのも忌まわしく、櫟は無言で立ち上がってベランダに出た。

 櫟の自宅――祖父から相続したマンションの一室。そこに当然のように居座っている膠の存在に、徐々に違和感を抱かなくなっている自分が怖い。

 最初は尋問するために連れ込んだ。白状するまで腰を据えて向き合うのに適した場所は、櫟にはここしか思いつかなかったからだ。

 膠はことの重大さがまるでわかっていない――ふうを装っている。膠は膠なりになぜか突然現れた蓬の死体に頭を悩ませているが、それ以上に櫟が膠に疑念を抱いているほうが面白くて仕方がない。そんな機微まで掴めるようになり始めていることに嫌悪感と早く逃げなければ引き返せなくなるという焦燥感で身体がかっと熱くなる。狂人には狂人なりの論理があるという。それを理解し始めているということは、櫟もまた狂人の域へと足を踏み入れてしまっているからではないか――。

「トイチ先生、夕飯なにがいいですか?」

「なんでも」

 こんなやり取りにすら自然に受け答えをしている。正気を疑ってしまうが、すでにもう生活の一部と化している。それがなおのこと怖くてたまらない。

 膠はいつの間にか、ここに住み着いていた。

 真実を吐かせるためにあれこれ手を尽くす中、酒を山ほど飲ませた日があった。必然、櫟も付き合わなければ膠の酌は進まない。飲めと言えば膠はいくらでも飲んだ。櫟は普段と変わらない饒舌のままの膠を眺めながら、ちびちびと酒を舐めるだけにとどめていたはずだった。

 先に意識を失ったのは櫟のほうだった。櫟の倍以上の量を飲んでいたはずの膠は、最後まで平然と笑っていた。

 酷い頭痛で目覚めると、寝室のベッドで寝かされていた。手の届くところには封を切っていないペットボトルの水が置いてあり、ひと息で半分ほど飲み干す。

「おはようございます」

 笑顔で寝室に入ってきた膠の姿を見て、櫟は一気に吐き気に襲われた。

 膠は櫟の普段着を当然のように身につけていた。ちょっと大きいですね、と笑う男にやかましいと返すだけの余力すら櫟にはない。

「ひどい寝汗でしたから、シャワー浴びてきたほうがいいですよ。掃除しておいたのでお湯を張ればお風呂も入れますけど、入れておきましょうか?」

「なにを――している」

「トイチ先生がぶっ倒れちゃったんで、介抱してたんですよ。あの章でのフォウマさんみたいに急性アル中で死んじゃったら笑いごとじゃないですからね」

 頭痛と嫌悪に顔を顰める。

 まだ続いている。どういうわけだか、膠の発案した実名小説は、未だに新たな書き手と作品が増え続けていた。

 フォウマが現実で死んだことは、彼のフォロワーならば知っている。ならばなぜこうもフォウマが作中で殺される章が投稿されるのか。そこまで不謹慎な輩ばかりなのか、あるいはフォウマのことが可視範囲に入っていないような者が、無数に膨れ上がった断章だけを参照して乗っかっているような状態にまで進んでしまっているのか。

 作品が作者の手を離れることはどうあっても避けられない。たとえそれが実名小説であろうと、それを読んで、続きを書くことを許されれば、現実でもインターネットでも接点のない人間が我が物顔で乗り込んでくるのは必至だろう。

 なぜなら、そこにはすでにでき上がった作品群が存在している。

 それに触れて自分も参加したいと乗り込んでくる者にとっては、作中の登場人物が実名だろうと存在していようと死んでいようと関係がない。彼らにとっては読んだ小説によって得られる情報が小説の世界を形作る全てで、櫟や膠は登場人物の一人にすぎない。

 膠がこの企てをどの範囲にまで広げたのかは不明だが、もう櫟や膠がトイチやダブリバという名でインターネット上で活動しているという事実を知らない層にまでリーチしていることは間違いない。理由は簡単だ。登場人物がほぼ固定され始めているからである。

 初期に書き始めた章に登場した櫟、膠、陵、蓬――ほぼこの四人で登場人物は固定されていた。この四人をどう転がし、どう掻き回すか。主題はそうした方向に傾いている。ゆえに、現実などお構いなしに、蓬は頻繁に殺される。

 櫟が死んだこともあった。膠が殺されたこともあった。陵が自殺したこともあった。

 そしてただの一度も、事件が解決に導かれたことはなかった。

 櫟は薄々感づいていた。その章で起こった事件を解決するだけでは、もはやなんの意味もなくなってしまっている。

 それぞれの断章は、無秩序な別々の断章に接続される形で書かれている。そしてその前後のつながりは全く明示されていない。一見つながっているように見える章も、作者が別人で、承けた章の作者が全く異なる展開を書いた章を投稿するが常となっていた。

 誰もが尻込みをしている。そして無理だと悟っている。

 たとえ一つの章で起こった事件を解決しようと、その事件自体が全く別の意図と貌を持つに決まっている。

 この作品群の真の解決編は、この作品群、そしてこの現実全てを内包した上で、全てに納得のいく解答を示す以外にありえないのだ。

 そんなものは無理だ。

 だから誰も解決編を書こうとしない。結果として作品群はただただ混迷を極め続け、膨らみ続け、櫟たちの手を離れて多くの人間の無茶苦茶なアイデアを取り込み続けている。

 やっているほうは楽しいのだろう。無際限に広がり続ける支離滅裂な作品の集合体。誰かが「カットアップ」という言葉を使っていたが、どうつなげようと読み取ろうと、もはや意味を構築することは不可能なレベルにまで発散してしまっている。

 膠が用意した風呂に浸かって脱力する。冷水のシャワーを浴びて、少しは頭痛はマシになっていた。

「着替えとタオル置いときますね」

 脱衣所に入った膠がそう言ってすぐに出ていく。すでにこの部屋の衣服とタオルの置き場は把握したらしい。2LDKという結構な広さがあるというのに、それはもう部屋の隅々まで検分したということではないか。熱い湯に入っているのに、寒気にぶるりと震えた。

 それからずっと、膠はこの部屋に居着いている。

 風呂を上がって用意されていた朝食に手をつけたのがまずかったのか。溜まっていた洗濯物が全て干されていたのに文句を言わなかったのがまずかったのか。夕飯も用意すると言われて金を渡したのがまずかったのか。

 スーパーから帰ってきた膠は手早く食材を冷蔵庫に入れる。冷蔵庫の所有権はほとんど膠に明け渡していた。もともとそのまますぐに食べられるようなものしか入っていなかったそこには、今や櫟にはどうやって調理すればいいのかもわからないような肉や魚や野菜でいっぱいだ。

 スマートフォンの時計を見る。午後四時すぎ。膠が料理を始めるにはまだ早い。櫟と膠の生活リズムが噛み合っていくことに最初は軋んだ悲鳴を上げていたはずが、今では滞りなく回っている。

「それで、書かないんですか?」

 リビングの机に座った膠は、ワイヤレスキーボードを接続したスマートフォンをスタンドで立て、その画面に立ち上げたテキストエディタでなにかを書き始めた。

「書けるかよ」

 吐き捨てる。櫟が全面的に正しいことは明白だ。現に登場人物として担ぎ出された人間がひとり死んでいる。そんな状況で続きを書くという狂気にまで、幸い櫟はまだ足を踏み入れていない。

「はあ、いったいなにが駄目なんです?」

「なにって――フォウマさんが死んで」

「俺もトイチ先生もサザンさんもフォウマさんも、全員死んでますよ」

「それは、小説の中で……だろう」

「なにが違うんですかね? フォウマさんが作中で死んだことと、この間フォウマさんが実際に死んだことは、なんの関係もない話じゃないですか。死んだ人間を作中に登場させることが駄目なら、生きている人間を作中で殺すことのほうがよっぽど冒涜的じゃないですか」

 櫟は頼りない視線で膠を睨む。当人にとっては威嚇のつもりでも、これでは哀願と同義であった。

「だから、書かないんだよ」

「なにか忘れてませんか?」

 リビングに立ったままの櫟に向けて、膠は自身のスマートフォンのスタンドをくるりと回して画面を見せた。

 櫟の個人情報が、これでもかと詳らかに記されていた。おそらくはどこかへの投稿画面。

 スマートフォンを奪ってタスクキルを試みるのでは――遅い。膠の手元のワイヤレスキーボードはこのスマートフォンと接続している。櫟が一歩を踏み出すより速く、膠がエンターキーを押せば終わりである。

「まだ」

 櫟は身体を微動だにせず、口だけを動かす。

「脅すのか」

 膠はさっぱり意味がわからない様子で首を傾げる。

「なにを言ってるんです? 俺はこうしないとトイチ先生に取り入れないのは当然じゃないですか」

「そうか」

 お前はそうなのか。いや、最初からそうだった。こうして出会う前から、膠はずっと壊れていた。

 櫟の自滅する過程を眺めて初めて感情を覚えたと宣うこの男は、結局まだ人間になどなれていない。

 可能性があるとすれば、櫟がまた、盛大に自爆するさまを鑑賞した時だろう。

 櫟は無言で自室に戻り、ノートパソコンを立ち上げて我を失ったように猛然と小説を書き連ねた。前後のつながりのない断章。それをファイル共有サイトに投稿すると、リビングから膠の純粋な歓喜の声が響いた。

 わかった――充分にわかった。

 書くしかない。それが櫟が現在進行形で破滅へと向かう行為であり、膠を人間にしてやれる唯一の見世物なのだから。

 夕飯の香りに誘われてリビングへと向かうと、いつものように膠と二人で彼の用意した食卓を囲む。

 いつもと変わらず、美味かった。

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