断章α そいねビリーバー
櫟の話を聞き終えると、心理カウンセラーはなるほどと頷いた。
膠との同居が続く中、ある日櫟は完全に限界を迎えた。
膠が同じ空間にいるストレスにではない。不思議なことに膠が存在することは櫟になんらストレスを与えなかった。むしろ無味乾燥だったこれまでの日常よりも、彩りに溢れた日々のように感じてさえいた。
だが、膠は相変わらず櫟を急かし、脅し続けた。
小説を書け――もはや誰の手にも負えなくなるまで発散してしまっている無数の断章のうちのいくつかを書くことを、膠は執拗に求めた。
すでに書き手は膠がかき集めて相当数に及んでいる。それでいいではないかと言っても、駄々っ子のように櫟が書くものが読みたいと言って聞かない。
だが、櫟はとっくにこの断章の集合に恐怖を覚えていた。
支離滅裂に書き連ねられていくそれらは、あろうことか徐々に終結に向かって転がり始めていた。
探偵役の登場。最初に書いたのは誰だったか。それによって発散していた物語群は、坂を転がるように収束へと進み始めた。
傍目にはそう見えるだろう。櫟も最初はそう思った。一人の強力なキャラクターの登場で、一気に物語を畳みにかける。
だが違う。それは違うのだと、櫟は叫びたかった。
その先に起こるのは、制御の利かない完全な発散である。
櫟は直感的に悟った。このキャラクターは駄目だ。危険すぎる。
なぜなら、皆一様に同じキャラクターとして登場させているからだ。
章が変わるごとに登場人物の性質が好き放題に変わってしまうはずのこの小説群の中、彼女だけが常に同一のキャラクターを保持して活躍する。
途轍もなく危険な兆候だと、なぜわからない。
彼女はすでに物語の破壊を開始している。根底の理念をまず破壊し、結末が書けないはずだった物語に終焉をもたらすために動き出している。
違う。もたらされるのが終焉なら、まだマシだ。
彼女の登場により無秩序な物語はまとまりを見せたかのように見える。だが、まとまったらそれこそ全てが駄目になる。誰の手にも収まらない、無限に膨れ上がった断章たちが暴走を始める。承前したかのように続きを書くのは、単なるお遊びだったはずだ。それぞれが独立し、全く異なる話が散らばっていくさまを眺めるのが目的だったはずなのに――いや、ならばこれはその目論見通りの展開を見せているのか。
櫟は膠に問いただした。お前はこれでいいのか。お前の見たかったのはこんな茶番だったのかと。
「トイチ先生が書いてくれれば、それで」
膠はそう言って櫟の服を箪笥に仕舞った。
限界だった。この断章をまとめていく新たな断章を書くなど、櫟にはとてもできそうにない。
「櫟さん、そう気負う必要はありませんよ」
心理カウンセラーは櫟の話を聞いても、眉を顰めることもせず穏やかな表情のままだった。
「発散していくというのなら、櫟さんのストレスも発散させてしまえばいいと思いますよ。好きなように書いて、好きなように滅茶苦茶にしてしまえばいいんです。だって、そのほうが面白いじゃないですか」
櫟は死んだ目で目の前の椅子に座る相手を見た。セーラー服とそれを誇張したかのような美しい容姿。微笑む顔は少女のそれで、櫟と目が合うとさらに頬を緩める。
「あなたは――」
「ええ、そう。あなたの求めた探偵です」
数はやはり、小説の中と同じ美しさで櫟の目を覗き込む。
「数――」
ここはどこだったか。確か櫟は電車で十分ほどかけて大きな街に行って、予約していた心療内科にカウンセリングを受けにきたはずだが。
ぐるりと目が回ると、そこは櫟のマンションの自室に変わっている。
「あなたは私から逃げられない」
数の声はすぐ耳元で聞こえた。場面は櫟の寝室のベッドの上に変わっている。横たわる櫟の顔のすぐ隣に、数の顔があった。
数に頭を撫でられ、櫟は酷く赤面する。数はそれ見てくすくすと笑い、櫟の手を引き寄せる。
けたたましいモーター音が部屋に侵入してくる。がばと起き上がってドアへと目をやると、安物のコードレス掃除機を持った膠が寝室に入ってきていた。
膠は暫時呆然としていたが、数が身を起こすと手に持った掃除機を軽々とベッドへと投げつけた。
「うわ」
直撃は避けられたが、ばらばらになった掃除機から溜まったゴミと埃が布団へと舞い上がる。
「膠――」
怒鳴り声を上げようとしたが、それは立ち消えになってしまった。
膠は豹のように身体を沈め、両手にはそれぞれ逆手にナイフを握っていた。
瞬間、膠の姿が視界から消える。櫟の目の前に数本の長い髪の毛が散った。
ベッドの掛け布団が跳ね上がり、髪の毛を切られた数がそれを防壁代わりに寝室の中央へと一歩で躍り出る。
みしっ、と部屋の軋む音。見上げると天井の隅に、膠が獲物に狙いを定める姿勢で張りついていた。だが数の舞い上げた布団で視界が遮られ、瞬時の判断に致命的な遅れが生じる。
膠は天井を踏み切りにして、矢のようにベッドの足元へと飛ぶ。数は余裕の笑みを崩さない。
獣のように四肢で低く構える膠に、数は空中の布団を掴んで包み込むように放る。
羽が舞った。膠は跳躍するように身を起こし、その動きで右手のナイフを振るって布団を真っ二つに切り裂いていた。
嘲るような数度の舌打ち。数は右手の人差し指と中指で、膠が持っていたはずの二本目のナイフを掴んでいた。
いや、違う。今の動作の間に、膠が左手のナイフを数の心臓めがけて投擲していたのだ。数は慌てることなくそれを指二本で白刃取りし、これ見よがしにぶらぶらと振り、そのまま足元に落ちるように優しく手離した。
地面につく寸前、膠は数の眼前へと迫っていた。流れるように落下するナイフを掴むと、それをくるくると手の中で回し、右手に持ったナイフと合わせて袈裟懸けと逆袈裟になるように数へと斬りかかる。
数は膠の背後に立っていた。膠の刃は完全に空を切る。素人目にも隙だらけとわかる背中を見て、数はやれやれと溜め息を吐き、優しく手を置いた。
「戦っても勝てないから、じゃなかったの?」
振り向きざまに一閃。体重の乗ったその一撃を、数は今度は小指一本を曲げて刃を包み込み、完全に受け止める。
「呆れた」
宙に舞ったままだった布団の詰め物の羽毛が、ぴたりとそれぞれの空域で制止する。
見ればそれらは鋭利な鋼の羽根へと性質を変えており、数が空いた手を投げやりに振るうと、一斉に凶刃と化して膠へと殺到する。
膠は封じられていない左手のナイフで弾き落とそうとするが、飛翔してくる大量の物体を小さなナイフ一本で捌ききるなど、どうあっても不可能だ。たとえその半数を実際に弾いていた膠であろうとも、こればかりは無理な道理だった。
身体中に羽根が突き刺さった膠は、痛みなど意に介さないように数を強く睨み続けた。
「あなたは自分で自分の世界観を破壊するの?」
「俺の世界観は、トイチ先生からもらったのものだからな」
「はあ、連れ出したところで、逃げられはしないと思うけど」
「お前が出てきた時点で、基本詰んでることに変わりはない。なら、選択肢は多いに越したことはない」
「私にコンプリートできない選択肢は存在しないのに」
「あるさ。お前が存在しないという結末が」
「全く、そんなものは存在しない」
トイチ先生ぇ――膠が場違いに間の抜けた声で櫟を呼ぶ。
「すみませーん、ちょっと俺に付き合ってもらえませんか。なあに、簡単な話です。トイチ先生は市街のクリニックでカウンセリング中なんです。それを自覚してもらえれば、ほら」
「櫟さん? 大丈夫ですか?」
目の前に座っているのは白衣を引っかけた若い男だった。
そうだ――最初に顔を合わせたのはこの男だった。白昼夢でも見ていたのかと寒気を覚えながら、櫟は平静を取り繕う。
「なにを話していましたっけ」
相手に不審を与え、診療結果を悪くすることを自覚しながらも、櫟はそう訊ねた。
「ここはどこだったか。確か櫟は電車で十分ほどかけて大きな街に行って、予約していた心療内科にカウンセリングを受けにきたはずだが。
ぐるりと目が回ると、そこは櫟のマンションの自室に変わっている。」
「あなたは私から逃げられない」
カウンセラーの男は怪訝さを隠すように笑うと、先ほどまで櫟が体験したことをそのまま文章に起こしたものにして音読を始めた。
「どうするんですか」
目の前の相手を見ることができない。顔を上げればまた数に変わっているのかもしれない。それはきっととても幸せなことなのだとわかるが、わかってしまうことに途轍もない不安を掻き立てられる。
「じゃあ次回は一箇月後に。都合のいい日にちはどこです?」
櫟はなにも言わずに立ち上がってクリニックを飛び出した。追ってくる者はいない。当然のことのように思えてくる。
電車に乗って自宅に戻る頃には、この世の全てが書き割りに見えていた。蹴っ飛ばせば穴の開くはりぼて。櫟はたまたまその中に立っている。
ならばどうする。舞台を叩き壊すか。
「お帰りなさい」
重そうに身体を引きずりながら、膠が玄関まで出迎えにくる。
櫟のものだった白いシャツは穴だらけで、真っ赤に染まっている。歩いてきたあとにも真新しい血が滴っていた。
「膠――」
「どこまでが現実か、ですか。全部ですよ。全部嘘です。ねえ、トイチ先生」
足元にできた血溜まりへと崩れ落ちながら、膠は依然狂気の笑みを浮かべていた。
「書いてくださいよ。それしかないんです。嘘に対抗するには、嘘を重ねるしかないんですから」
「説明しろ」
呼吸の弱まっていく膠の身体を揺さぶり、櫟は絶叫する。
「全部、説明しろ!」
「言ったじゃないですか。全部嘘なんですよ。対抗するのなら、知りたいのなら、書くしかないんですよ。だって、まだ解決編には入ってませんから」
膠は櫟の身体を支えに立ち上がると、しばし呆然と天井を見上げ、深く息を吸い込む。
「すみません、貸していただいてた服、駄目にしちゃいました」
膠はそう言って血まみれ穴だらけのシャツを脱ぐ。
服の下の膠の身体には、傷一つついていなかった。
いや――櫟は目を見張る。よく見れば全身についた刺創が急速に塞がっていっている。
「あちらも手加減はしてくれたみたいですね。この世界観じゃそこまで大規模なのは不可能だと言っても、彼女なら触れただけで即死させることくらいできたでしょうし」
着ていたシャツを丸めると、こちらも傷だらけになったズボン――もとは櫟のものだ――を脱いで、一緒にまとめてビニール袋に放り込む。
「お前――なんなんだ」
「それはトイチ先生に決めていただかないと。もう、道は残されてませんよ」
「わかるように話せ!」
「俺の言ってることは最初から変わってません。『語るな。やれ』です。書いてください」
櫟は悪態を吐いて叫んで怒鳴った。
「なんなんだ――俺がなにをした――なにをさせたいんだ――」
「これもまた、一つの材料です。さて、どう転がすかお手並み拝見といきましょうか、トイチ先生」
櫟のスマートフォンが鳴動する。これは――そう、櫟は基本的にスマートフォンの通知音は切っている。この携帯電話が鳴動するのは、電話か――これは着信音からして違う――携帯電話会社固有のメール。
長らく使っていないアプリの一つだ。付き合いのある者たちとは無料通話アプリのメッセージ機能で事足りる。だから通知を切るのも忘れていた。それだけ使うことも、メールが届くこともなかったからだ。
櫟の知り合いに携帯メールを使う者はいない。メールマガジンにも登録していないし、携帯電話会社固有のメールアドレスはそもそもインターネットのサービスの契約には用いていない。
いや、一つだけあった。スマートフォンに機種変更する前から使っている、あの忌まわしい小説投稿サイト。罵倒ばかり送りつけられてくるメッセージは非通知にした。古いサイトなので、それ以外に細かな通知機能はない。
それは作者側の視点。櫟が読者としてサイトを使っている中で見つけた「お気に入り」作品。その中の一つに対し、通知を有効にしていた――その通知が届くことは結局いままで一度もなかった。更新は途絶し、だからこそ櫟はその作品の更新通知メールを登録していた。
メールを開く。普段使わないアプリなので少し手間取りながらも、届いたメールの内容を読んで、櫟ははっと息を呑んだ。
慌てて作者のSNSを見にいく。相変わらずソーシャルゲームのスクリーンショットばかり。一分待つ。再読み込み。二分待つ。再読み込み――。
――書いた
たった三文字の投稿が新たに表示された。
「そうだ――ゼロマルさん」
長らく待っていた、数年ぶりの更新。それよりも大きな衝撃――記憶が、急激に蘇ってくる。
「『ワールズエンド・カットアップ』――そうだ、なんで、忘れていたんだ」
ゼロマルが公開していた小説。いわゆる現代異能バトル――「中二」や「厨二」と呼ばれる要素をふんだんに盛り込んだその作品の「主人公」の設定を読んだ時、櫟は腹を抱えて笑った。そんなものがアリか、もう話を構築するのも不可能ではないかと。
事実、彼女が登場したのは相当な枚数の群像劇が繰り広げられ、それが一つの結末を迎える段になった際だった。主人公が登場するまでにかかった文字数は、約三十万字。それでも彼女が登場すれば、確かに彼女はその物語の主人公であった。
彼女の名は、メアリー・スー。主人公としての極致を体現した、万物の主人公である。
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