断章Σ ゼロの焦点街

 どれだけ逃げようと、表面上はなにも変わらない。

 毎朝起きて、以前と同じ仕事に向かい、帰宅して眠る。

 警察に追われたり、世界からつまはじきにされることもない。櫟の日常は相も変わらず普通のままだ。

 それでも櫟は逃げていた。もう限界だと泣き出しそうになってもなお奮い立ち、必死になって逃げ続けた。

 膠の消息も、数の正体もわからない。

 だがあの断章たちは、今もまた数を増やしていた。

 いつの間にか、数はその中にも平然と登場していた。

 あるいは彼女は最初からそのために櫟の前に現れたのかもしれない。櫟は断じて数を作中に登場させてはいない。誰かが書いたのが先か、数が膠のもとへ現れたのが先か――卵と鶏のような考えるだけ無駄な問題ではあった。

 だがそれが、じりじりと櫟を追い詰め続けていた。櫟は懸命に逃げようともがくが、虚実の皮膜はハエ取り紙のように櫟を絡めとっていく。

 数は、膠は、櫟は、どこまで現実なのか。

「所詮この世は嘘とまやかし――ってやつっすよ」

 缶チューハイを傾けながら、蓬が笑う。

 櫟は休日の今日、なんの連絡も入れずに蓬の自宅アパートを訪れた。蓬は櫟の表情を見て面倒くさそうな溜め息を吐き、ビールはないけどいいですか――と冷蔵庫から発泡酒だか第三のビールだかもう呼び名もわからない一番値段の安い酒を取り出して放ってよこした。

 それから延々飲み続け、櫟は自分でも整理のついていないこれまでの経緯を酒の勢いを借りて吐き出した。

 蓬は面倒そうにしょっちゅう顔を顰めていたが、最後までしっかりと櫟の話を聞いていた。

「ダブリバさんはなー、頭がよすぎたんじゃないですかねぇ。この世は舞台、人はみな役者――ってやつですからね」

 さて、と十数本目の缶を開けて、蓬はスマートフォンを素早く操作する。

「ずっと気になってたんですけどね、ゼロマル先生って――誰ですか?」

「はい?」

「いや、あの実名小説の中で、直接登場はしないのに言及されてるから、最初は私らの2クリック圏内の人かと思ってんですが、私はそんな人知らないですし、いくら掘ってもそれらしい人が出てこないんですよ」

 ゼロマルは櫟とインターネット上で長い付き合いの、小説投稿サイトを主戦場とする作者――だったはずだ。互いにフォローし合っており、直接の絡みこそ少なかったがよく空中リプライを投げ合っていた――と記憶している。

 櫟は酔いが回った頭で自分のフォロー欄を開く。スクロールを何度も繰り返し、本当に初期の頃からの付き合いの連中のアカウントが表示される段になり、一番最初にフォローしたアニメの公式アカウントが表示されるまで、ゼロマルの名は一度も現れなかった。

「インターネットやめたのか」

 ありうる話ではある。なにも言わずにアカウントを削除して距離をとれば、櫟のようなフォローフォロワー数が日々変動する相手には消えたことさえしばらくは気付かれない。投稿が長らく流れてこないことに不審を感じて初めて、相手が消えたことを認識できる。

 では、いつからだ。いつからゼロマルの投稿は消えた。

 思い出そうとして、頭が靄の中に溶けていくような虚脱感を覚える。酒のせいではない。確かに悪酔いはしているが、こんな、記憶まで溶け出すような飲み方はしていない。

 度数ばかり強いチューハイを煽って気合いを入れ、ゼロマルのアカウント――その痕跡を捜すために検索を始める。

 ゼロマルというハンドルネームでは無意味だ。彼あるいは彼女はことあるごとにハンドルネームもスクリーンネームもアイコンも抽象的なものにころころと変えていた。ただ、その文脈のようなものは読み取れる者にとっては容易に掴むことができ、また発言内容も一貫していたので、見た目が変わる度に行われる本人確認は恒例行事のようなものだった。

 だからこそ、検索することは困難を極めた。かつてのハンドルネームもスクリーンネームも、思い出そうとするとするりと逃げていってしまう。あまりに数が多すぎ、どれもこれも「金」だの「女」だの「酒」だのと抽象的にすぎる。

 ならば小説投稿サイトのほうで捜そうとしても、そういえば櫟はゼロマルの小説をろくに読んだことがないことに気付く。

 櫟はひょっとすると、ゼロマルという存在しない虚像を見ていただけではないのか。いつの間にかテーブルに出ていた日本酒の一升瓶から紙コップになみなみと注いで、ショットのように一気に飲み込む。

 ゼロマルという人間はどこにも存在しなかった。ただ櫟がタイムラインを眺めていると流れてくる、一貫性のあるように見えてその実全く無関係のアカウントたちを統合して、それがゼロマルという個人であると錯覚していただけだったのではないか。

「ダブリバさんは――」

 膠はゼロマルを知っているようにあの小説群の櫟と膠以外で初めてのメンバーに加えるようなことを言っていた。いや、あれはそういう体だけだったのではないか。膠は櫟などよりよっぽど頭がいい。よすぎるほどに――狂い果てるほどまでに。

「そういえば読みました? あれ」

 二本目の日本酒の一升瓶をとってきて、よろめきながら腰を下ろすと蓬はテーブルに置きっぱなしになっている自分のノートパソコンを開いた。

「あれ?」

「いや、この共有フォルダの中になんかサイズのでかいファイルがあったんですよね。かなり古くて、そのあとみんながどんどん章を上げてくるからすぐに底に埋もれたみたいで私もついこの間気付いたんすけど」

 蓬は共有フォルダの画面を表示させたノートパソコンを斜めにして横に座る櫟にも見えるようにする。

「これですこれです。『0』っていうやつ」

 そのファイルを見て櫟は眉を顰めた。

 確かにサイズは大きい。文書作成ソフトで500キロバイトを超えているものなど当然このフォルダの中にはほかにない。それどころか大抵のファイルはその十分の一以下のサイズしかない。

「ここで読むには長すぎますから、あとで読んでみたらどうです? まあまあ面白いっすよ」

「いや、ここで読む。んで、ちょっと貸してくれます?」

「うげ、マジっすか。まあほかんとこ触らないでもらえれば構いませんけど、長いっすよ?」

 返答より先に、櫟はファイルを開いていた。

 それを合図に蓬はクッションを枕にして寝転がり、すぐに高いびきをかき始めた。櫟もそうだが、蓬も相当飲んでいる。

 読み続ける。櫟の文章でも蓬の文章でもない。わざと着飾ったような気取った文章。そう思わせることが作者の狙いであるとも徐々にわかってくる。

 十万字、二十万字と読み進めるうちに意識が朦朧としてくる。代謝しきれないアルコールがアセトアルデヒドとなって身体の中を巡っている。

 すでに二日酔いのような頭痛がしてきていた。パソコンの時計を見るとすでに日付は変わっていて、外は段々白んできているのであながち間違いでもなさそうだ。

 三十万字――ここで、主人公が登場した。

 彼女の名は、メアリー・スー。主人公としての極致を体現した、万物の主人公である。

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