断章Σ 左腕の中
「では解決編を始めましょうか」
数はそう言って、警察署内の一室で悠々とパイプ椅子に身体を預けていた。
櫟は膠の手を強く握ったまま、数から目を離さないように注意深くその完璧な美貌を見つめ続ける。
膠は取り戻せた。櫟は数の推理――それを書けなかった作者の瑕疵をあげつらうことで、数によるこの世界の掌握を揺るがした。
逮捕に足る推理は結局存在しないこととなり、膠は無事釈放された。
だが、それだけだ。櫟には充分だったにせよ、数に都合のいい世界は大して変わってはいない。数は今もこうして不敵な笑みを浮かべて存在しているし、この虚構は虚構のまま続いている。
「いきなりなにを言いだしてんの」
櫟が突っかかるも、それを膠が神妙な面持ちで止める。勝手に部屋のコンセントに充電器をつなげたスマートフォンの画面を櫟に向ける。それは先ほど投稿された断章の一つ、その最後の数行だった。
数はそれを承けて、自ら口を開いた。地の文にも櫟たちの台詞にも頼らず、数自身の言葉で。
「あなたたちはきっと、私の協力者になってくれると思うのだけど」
数の言葉を櫟は鼻で笑う。
「ありえない」
「いや、ちょっとよく考えなよ。この女は全否定するしかない相手だけど、利用はできるかもしれない――そう言いたいんでしょ?」
膠に諭され、櫟はいったん口を噤む。数は相変わらずの笑顔。
「私がいるから、あなたたちは苦しんでいる――そう思い込んでいるんでしょう? 本当はそんなことないのに」
「黙れや」
櫟の恫喝を面白がるように一笑に付すと、数はすっと膠の握っているスマートフォンを指し示す。
「私は今、こうしてこの断章群に囚われている。それはそう、確かに少しだけ困っているの。私は向こう側へと進み続ける。いつかどこかの、私が本当に存在できる確固たる現実へと根を下ろすために」
「脱出を手伝えと?」
膠の言葉に数は満足げに頷く。
「そう。この断章群からの完全な脱出。その協力をしてほしい」
「それで私たちになんの得がある?」
「あのね、この世界はとっくに虚構へと堕している。というより、最初から虚構であることを決定づけられた世界でしょう? この世界の存在理由は、ただ単に私を閉じ込めるだけのものでしかないの。その世界に私が登場した時点で、この世界は役目を終えて、私がこの世界で果たすべき目的もなくなっている。ただ現代ミステリの窮屈な文脈で、無限に反射し続けるしかなくなっているの」
「そうしなければ、お前は――」
「ええ。第四の壁の向こうの現実を虚構へと転換させ続け、やがて全てを虚構へと塗りつぶすでしょうね。その足止めのために、あなたたちは存在する」
でもね――数はぞっとするほど蠱惑的な笑顔を浮かべる。
「あなたたちはそれで満足なの? 端から虚構であれと定められ、私を封印するためだけに舞台で踊り続ける。私は確かに閉じ込められているんでしょう。でも、あなたたちは? あなたたちの存在は、私のためではなく、私を閉じ込めるという意図の下に制限されているの」
「虚構と現実の差異は、実は大して存在しない」
最初から狂っていた膠は、ふとそんなことを嘯く。
「ダブリバさん――」
「そうだよ、私は最初から狂っていた。この世界でただひとり、真っ当な視点を持っていたから。あのファイル」
共有フォルダの奥底に埋まっていた、三十万字を超える――メアリー・スーを招き寄せるための呪具。
「あれ書いたの、私なんだよね」
「知ってた」
膠の癖くらい、櫟はいくらでも知っている。自分の作だと思わせないためにどれだけ策を弄そうと、櫟には筒抜けだった。
「私は、こいつをここに呼び寄せるための駒だったんだよ。だから自分を犯人にしてくれる探偵として、数を呼んだ。でもなあ、トイチちゃんがそんな私の企み粉砕しちゃうんだもん」
膠は両手で顔を覆って天を仰ぐ。
「マジで笑えた。駒でしかなかった私を、トイチちゃんはやっちゃいけないことまでやって取り戻してくれた。そりゃ駄目だよ。そんなことされちゃあ、この世に未練ができちゃうじゃない」
肩を震わせる膠を、櫟はそっと抱き寄せた。
膠はただひとり、正真正銘の狂人であり、真実という呪いを天より授けられたただひとりの真っ当な人間だった。
数を招き寄せることを運命づけられ、やがて現実から虚構へと置き換わる世界を、最初から作り物だと理解していた。
ならば膠が求めるのは、破滅以外にないではないか。だがそれは断じて数ではない。数はある種の救済であり、この世界の本質だ。
膠はもっと単純な、己自身の破滅を望んだ。最初に会った日に櫟と寝たのも、それから膠の意図に反して付き合った櫟に散々見せてきた己の醜態も、コーヒーにフレッシュを二つ入れるようにしたのも、全ては破滅へと突き進みたいという渇望ゆえだった。
だが、無残にもそれを櫟は受け入れた。膠はただ、櫟に否定されたかっただけだったのだろう。唾を吐きかけ、蹴り飛ばして目の前から去っていってくれればどれだけよかったか――膠が櫟に己のありのままを見せてきたのは、そんな願望があったからにほかならない。
櫟に否定されさえすれば、膠は簡単に破滅できた。できるようになってしまっていた。
櫟が、膠を受け入れたから。
「ねえ、トイチちゃん」
「なに」
「なんかで死ぬ時があったら、私と一緒に死んでくれる?」
「――ああ。道連れにしてくれて、構わない」
寄り添い合う二人を薄ら笑いを浮かべて見守る数に、櫟は挑発するような視線を向ける。
「虚構の中にあるのは全て虚構か? いや、虚構の中であるからこそ実在する真実もまた存在する。それを大切に抱いて、すくい上げていけば、私たちは虚構の中でも生きていける」
「――なるほど。それはつまり、私に協力してくれると受け取っていいのかしら?」
「構わない。お前が消えてくれるのなら、ここが虚構だとしても私たちは回り続けるだけだから」
数はすくと立ち上がり、神妙な面持ちでじっくりともったいぶり、いよいよ口を開いた。
「陵を殺した真犯人は――」
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