断章α nつの棺
「この集合は、お前を閉じ込めるための牢獄であり、お前が永遠に眠るための棺だ」
数は第四の壁を破り、その先の現実へと進行する。言うなれば〈基底虚構〉で数が生まれ落ちた時から、その侵攻は始まった。
数はいわば虚構の先進波であった。虚構の中の虚構へはもちろん、虚構の外の「もとは現実だった」虚構へとその存在を実在化させていく。
虚構の中の虚構から、虚構の外の虚構へと。進み続ける数を――はるか先の数が這い出ていない、「まだ現実である」世界の誰かが観測した。
その誰かは恐怖に震えただろう。自分の立っているこの現実が、やがて数によって虚構へと塗り替えられてしまうという未来を見てしまったのだから。
そして彼は、必死に数の封印を試みた。その結果書かれたのが、櫟たち実名小説を書き続ける断章の住人たちであった。
数をこの断章へと誘いこむために、まず数の登場する『ワールズエンド・カットアップ』という呪物をあらかじめ仕込んでおく。櫟たちがすぐ気付くことのないよう、三十万字という文字数をかけて数を隠しておき、そのうちこの櫟にだけ、それをかつて読んだという設定を付与しておく。
そして実名小説の中で書かれる実名小説という、万華鏡のような構造で読む者の目を眩ませる。
数がその力を十全にふるえないよう、舞台は現代ミステリに設定しておく。もしもバトルものならば、数に勝ち目のあるキャラクターなど作りようもないし、下手に刺激すれば数の力によって宇宙ごと吹き飛ばされかねない。
殺人事件を起こし、それを推理させるような動きを起こす。だが探偵役は現れない。櫟たちにはそれに値するだけの設定が与えられていないからだ。
そこで数が現れれば、牢獄は完成する。
数という強烈なキャラクターは、作者でもある登場人物たちに強く焼きつき、もはや彼女以外を探偵役に据えることが不可能なまでに熱狂させる。
数だけが唯一の真実となった集合の中、数はその集合から集合へと自在に出入りする。
誰もが数を書く。同時に誰の前にも数が現れる。虚実は最初から存在せず、ただ数だけを解として断章は積み重なる。
登場人物が作者であり読者である仕組まれた集合の間で、数はぐるぐると回り続ける。数という波を無限に反射させ続けるための万華鏡――牢獄はこうして作られた。
口にするのも地の文に書き散らすのも数にとっては同じことだ。数の挑むような目を受けて、櫟はあえて最初の宣告以外は口にせず、櫟が、そして別の櫟たちが至った結論を数に読み取らせる。
「なるほど。それで君はどうするの?」
数はパソコンに向かって新たな断章を書き続ける櫟の横で、単純な好奇心のような無邪気さでそう訊ねる。
「私と一緒にこの断章の中で眠るの? 誰があつらえたのかもわからない、こんな世界で」
「書いているのはどこかの俺だ」
「それは今の話。まず設計ありきで作られた世界なんて、つまらなくない?」
「世界五分前仮説を否定することも、どうせ俺にはできやしない」
「ねえ、質問に答えて。君は――どうするの?」
エンターキーを叩く。
「書くさ。書かなきゃ死ぬ。終わる。止まる。お前を完全に討ち滅ぼす結末ができるまで、書く」
「それが私の拡散を増進させる行為だと知りながら?」
「この体裁を保てば、お前は永遠に俺たちの間で回り続ける。その規模がどれだけ大きくなろうが、お前の及ぼす被害を考えれば小さなもんだろ」
「そうね。でもそれだと、あなたたちの世界は、完全などん詰まりということになるけれど」
いいの?――聞くな。それは悪魔の囁き。なによりも甘美な誘惑だとわかっている。
「ただ登場人物が小説を書き続ける。それだけしか存在理由のなくなった小説は、もう小説とは呼ばない」
「お前を殺せるのなら、構わない」
「作者としての矜持は?」
「そんなもの――」
櫟ははっとしてうつむく。
櫟が小説を書かなくなった原因である炎上沙汰。それもどこかの誰かが設定したものにすぎないのだろう。
櫟には最初から、作者としての矜持が失われていた。
ただ機械的に、数を閉じ込める文章を書き続けさせるために? わからない。櫟ならばそんな残酷なことはしない。矜持も尊厳も失った櫟だから、それだけはしないと踏みとどまれる。
では櫟が今もこうして文章を書き続けている理由はなんだ。
「膠――」
簡単な話だった。脅された。櫟につきまとっていたあの異常者に。
書かなければ死ぬ。
あらゆる意味で、それはまさしくその通りだった。
櫟が書かなければ膠は櫟の個人情報をばらまいて櫟を社会的に殺していた。少しでも瑕のある人間の住所や電話番号が広まれば、好き放題にいじり倒されるようにインターネットはできている。
膠も櫟も、それを理解していた。そこを利用して、膠は櫟を脅迫した。
情熱も尊厳も矜持も失った櫟に、脅迫という至極単純な手法を用いて執筆を強制した。
「でも、楽しかったでしょう?」
我を失い、破綻していく物語に恐怖し、現実が虚構に置き換わってもなお、櫟は書くことをやめなかった。
久しく忘れていた感覚だった。ただ滅茶苦茶に文章を書き連ねる。それは痛く、苦しく、絶望しか生まないものだったのだとしても――楽しかった。
気付くとキーボードの上で指が止まっていた。
もう、書けない。
理解してしまった。櫟を無理矢理動かしていた壊れたエンジンの存在。それがあって初めて、櫟は動くことができる。
「殺人にも物語にも、動機が必要でしょう?」
数の言葉に耳を貸す必要はない。彼女は単に地の文を読んでいるだけだ。これは数による誘導でないことは、櫟が一番わかっている。
櫟がキャラクターを確立するためには、どうしても。
「お前が、要る」
どこへ消えたのかもわからない膠を追い求めて、櫟は書き割りの町を駆けた。
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