断章Σ ダ・ヴィンチ・語尾
「どうですか、じゃあないんだよ」
櫟は悪戯っ子そのものの笑顔を浮かべる膠に、溜め息を吐いて読了した旨を伝える。
「お気に召さない?」
「私が地方のご都合モラトリアム状態になってるのでまず減点。次に私が自業自得で燃えた設定のリアリティのなさでさらに減点。私の中学時代の面白エピソードをさらっと織り込んでるとこは――まあ面白かったけど」
「まあトイチちゃんのフォロワーならみんな知ってる鉄板エピソードだからねー。何回再放送すんだよってくらい」
「というかダブリバさん、自分を男にするとあんな感じだと自分で思ってんの?」
「いやあ」
頭をかく膠の氷で薄まったアイスコーヒーに、フレッシュを二つ入れてやる。櫟がそれ油だよ、と教えてやってからというもの、膠はそれまで一つしか入れなかったフレッシュを二つ投入するようになった。
――破滅したいんですよね。
初めてインターネットの外で出会った相手への第一声がそれだった。ただ櫟も膠の「芸風」は知っていたので、そうですね、と応じた。
そう考えれば、膠が櫟とだけで共有しているファイル共有サイトに投げたこの小説に出てくる膠の造形も納得がいく。
そもそもの膠の性質は確かに同質であったし、膠ならばそれを読むことになる櫟を困惑させるために、自分を異常者としてより誇張して描く。
「じゃあ、ゼロマル先生に投げていい?」
膠の言葉に、櫟は慌てて聞き返す。
「なんでゼロマル先生が出てくるの?」
「あれ、言ってなかったっけ。私たちの2クリック圏内の連中をどんどん巻き込んで、内輪のシェアワールドみたいにする気だったんだけど」
聞いてない、とうつむきながら呟く。
これは膠が櫟という個人に読ませるために書いたものだと思っていた。だから露骨な膠の描写も笑って流すことができた。だがそれを同じ文化圏に属するとはいえ、櫟と膠のリアルでの関係を知らない者たちに読ませて果たして大丈夫なのか。膠が巻き込むと言っている者のうちリアルでの付き合いにまで発展した者は少なからず存在するが、彼らだって二人の関係性は把握していない――はずだ。
この女なら吹聴していてもおかしくはないが――櫟は膠の無邪気と呼ぶにはあまりに危なっかしい笑顔を見て、自分が勝てるはずもないと脱力する。これではあの小説での脅迫された関係と同じではないか。
いや、膠を受け入れてしまった時点で、その関係はとっくに決定づけられていた。それを承知の上で櫟は膠を受け入れる覚悟を決めた。
フレッシュと氷水とコーヒーの混ざった液体をゆっくりとストローで攪拌し続ける膠は、泰然と櫟の返答を待っているようで、その実櫟をじりじりと圧迫していた。
「ゼロマル先生の次は?」
「ゼロマル先生が勝手に招き入れることを考慮しなければ、サザンさんかな」
それなら大丈夫だと、櫟は了承した。櫟と膠の共通のユーザーで、そんな逸った行動を起こす間抜けはいないという信頼は全体で共有している。膠が提示したのは、当然その信頼関係の中に含まれる者だった。
「はい、DM送信しました。で、トイチちゃんこの続き書かない?」
「いやだ。書くなら自分で設定変えて書く。でもなあ、ナマモノ苦手なんだけど」
櫟と膠はあるアニメの二次創作をきっかけにつながった。ミステリ要素を骨子ではあるがコメディとして扱ったエピソードが複数あるそのアニメの設定を使い、実際の本格ミステリのロジックを持ち込んで好き放題に二次創作小説を書くという共通点を持った二人は、互いに「狂人」とジャンル内で異端視されていた。
とはいえ夕方に放送されていたそのアニメも数年でシリーズに幕を下ろし、ジャンルは推移していく。
二人がその間に得たのは、畏怖と信頼だった。
二次創作同人文化で、小説は圧倒的に弱い立場にある。同人誌として刷った場合、小説という性質上必然的に漫画よりページ数が嵩むことで印刷費が高くなり、採算をとるためにはどうしても漫画よりも一冊の値段を高く設定しなければならない。
漫画ならばその場で数ページ目を通せばおおよその作風を掴むことができる場合もあるが、小説ではそれも――大多数の人間に対して――難しい。ゲートウェイから新たな客層を取り込むことが非常に困難であることはサークル側も一般参加者側も理解しており、それゆえに――櫟と膠は強かった。
狂人呼ばわりされたことで他ジャンルの作者からも目をつけられ、アンソロジーや共作の申し出が、そちらのジャンルで狂人扱いされている作者から届くことになった。
そうして櫟と膠の活動範囲は、同じ狂人文化圏へと収斂し拡散していった。やはり趣味嗜好も似かより、彼らが言及するコンテンツへの信頼も高くなる。そうなればまた別ジャンルへと触手を伸ばし、そこでまた新たなつながりができる。
それを繰り返し、櫟と膠は二次創作同人内で堅固な固定客を一定数抱える立ち位置を得た。いわゆる壁サークルなどとは比較にもならないし、それどころか採算を合わせることすら毎回ギリギリであったが、「その作者であるから購入する」という層ができるくらいには異彩を放っていた。
その間にできた人間関係を用いて実名小説を書く――実在する人間を二次創作で扱う「ナマモノ」――というよりは、楽屋落ちに近いか。
「ハンドルネームなんだし、ハンナマ」
「それ、ダジャレだったら許さない」
「許さないで」
ストローで息を送って泡立てていた液体を、毒杯を煽るようにコップを傾けて飲み干す。膠は唇に付着した液体をわざわざ舌で舐めとってから、まずいなあ、と笑った。
もともと同じアニメの二次創作で狂人扱いされていた櫟と膠だったが、二人が初めて顔を合わせることとなったのは同人誌即売会の会場ではなく、櫟が就職を機に地方から東京に移住したその日だった。
二次創作を行っていたジャンルの多くがそれなりに大きいこともあり、同人誌即売会はオールジャンルのもの以外にも、ジャンルを限定したオンリーイベントも開催されていた。地方に住んでいた櫟としても即売会の度に東京に出向くだけの体力も財力もない。そこが妙な噛み合わせをみせ、二人が同じ即売会に揃って参加する機会は巡ってこなかった。
荷解きを終えてスマートフォンをチェックすると、膠――ダブリバからDMが届いていた。
内容は都内の居酒屋の名前とホームページへのリンク。そして「のむぞ」というひとことのみ。
なんともダブリバらしいと櫟は笑った。今日東京に出てくるということは直截的には言っていないが、数日前からの発言から文脈を読み取れば簡単にわかることだった。
返信は「うけたまわっ!」――二人の周囲だけで用いられるジャーゴンだ。
櫟がインターネットでつながった人間と直接会うのはこれが初めてではない。無論相手の性質は慎重に見極めている。最低でも三年以上の密な付き合いであることを条件にすればほとんどふるい落とされるし、そんな相手でもなければ会いたいとも思わない。相手の発言や、顔を合わせた相手へどれだけ言及しないかを重視する。現実で手に入れた相手の情報をインターネットで公開するような手合いは、まず信用ならないと言っていい。
そうしてより分けられた人間は、櫟と直接顔を合わせても驚くだけですませる。それ以上の感情を向ける相手は今までいなかったので、櫟は自分の目の精度には確かな自信があった。
その点、ダブリバはおそらく最も信用できる相手だと言ってよかった。相当古い付き合いであったし、会った相手のことは同じ場所にいるということを同じ料理の画像を上げることでしか示さない。両者をフォローしていれば会っていると瞬時に了解できるが、片方しか視界に入っていない人間にはわからない。
今までどちらからも誘いがなかったほうが不自然なほど、二人は気心が知れていたし、互いの性質を把握していた。
だからご丁寧なお誘いがなくとも、このDMだけで櫟は話に乗った。二人の関係を現実で接触させるには、なんともふさわしい導入のような気がしたからだ。
指定された居酒屋の場所を調べてここからの経路と所要時間を表示すると、どうやら化粧を入念に直している時間はなさそうだった。実家を出た際の化粧はなんとかもってくれるだろうと鏡を見て、大甘なセーフの判定を下す。
初対面の印象には確かに気を遣うが、かといって完璧に決めていけば相手は怯むだろうし、そこまで糊塗する価値が自分にはないことも櫟はよく知っている。
即売会などで現れるハンドルネームも知らないような連中は、垢抜けていなければつけ込めると勘違いし、コスプレではなく着飾っていると怖がって敬遠する。そのあたりのバランス感覚は、櫟が会おうと決めた相手に払う必要はない。
櫟としても相手の見た目は気にも留めないし、幸い生理的嫌悪を催す悪臭を放つような手合いにはまだ出会っていない。そこも櫟が自分の目の確かさを信頼している一因だった。
指定された居酒屋は店名に「歌声」と入っており、実際に目にした外観は喫茶店に近かった。閑散とした通りの中で弱々しい灯りを点す薄汚れた店構えは、あまりの格式の低さから一見さんお断りの空気を放っている。
尻込みはするが、ダブリバのことだから――と思うと好奇心と高揚感が勝った。
店の中ではイントロの一音を聞いただけで即座にテンションが最高潮に達する、櫟の魂に染みついたアニメの挿入歌のカラオケが鳴り響いていた。
そして狭い店内の空いたスペースで、作中で毎回挿入される3DCGによるライブアニメーションと全く同じ振りつけで歌いながら踊る女。
櫟は入り口に呆然と突っ立ったまま、そのカラオケ――ライブに見入っていた。
曲が終わった時には、全てを察していた。ダンスの間に目が合うと悪戯っぽく微笑む彼女――それがダブリバ――膠だった。
「男と男にしたのはやっぱ、性別誤認誘導?」
櫟はコーヒー店を出て、夕暮れの街を膠の背後にぴったりとついて歩く。二人だろうと歩道だろうと横に広がって歩いている人間を見ると苛立ってしまう。それは当然自分自身にも適用される。それに膠は次にどこに行くのか話していないし、おそらく決めてすらいない。ふらふらと漂う膠の後ろにいる自分はさながら艫の舵だろうか。破滅を望む操舵手は膠なのだけど。
「いや? 誘導もなにも、お互い実際に会うまでは男だと認識してたでしょ?」
「まあ、すっと腑には落ちたけど」
「そんなもん。私は別に男だと言ったこともなかったし、女だと言う必要もなかった。時々エントリーしてくる日本語通じない連中が文脈も読まずに類推した性別を論拠に文句つけてくることはあるけど、どちらにせよそれに耳を貸す価値は皆無だし。たぶん書く人によって登場人物の設定は変わるだろうっていう一例を、当人が書いただけの話」
確かに膠が引き入れようと目星をつけている者の多くは、櫟か膠のどちらか、あるいは両方と直接会っている。彼らなら膠の意図を察してにやりと笑うだろう。
「ああ、ここかー」
膠は背の低いマンションの前で立ち止まった。膠の家でも櫟の家でもない。
「どこ」
櫟が怪訝な顔をして訊くと、膠はスマートフォンを操作しながらエントランスに入っていく。
慌てて追いかけると、膠がスマートフォンの画面をこちらに向けている。肩越しに覗き込むと、DMのやりとりの画面だった。このマンションの住所と、部屋番号が一番下に表示されている。
「実はトイチちゃんと話してる間に、サザンさんにも送っちゃったんだよね。気に入ったみたいで、作戦会議という名の家飲みをやろうって話になって。怒ってる?」
「いや、なんというか、こういうのもう慣れたわ」
膠はサザンと何度か会っているというが、櫟はまだ顔を合わせたことはない。そんな相手のところになにも言わずに引っ張ってくる膠にげんなりとするが、サザンも当然櫟が安全だと判断している人間の一人だ。
膠といると退屈はしない。彼女は破滅を渇望しているからで、醜態も絶望も慟哭もいくらでも見せてくれる。
そして膠がどれだけ破滅に突き進もうが、櫟を絶対に道連れにはしないと誓われている。思っていた以上の距離を感じて一時は塞ぎこんだが、たぶん破滅以外に選択肢のない彼女にとって、唯一見つけることのできた代替案だったのだ。
「
玄関で本名を見て、櫟はインターフォンを鳴らす。反応はない。もう一度鳴らしてしばらく待つが、部屋の中からはなんの物音もしない。
膠がなんの躊躇もなくドアノブを回した。冗談のつもりだったのだろうが、ドアは呆気なく開いた。
「あー、トイチちゃん入んないほうがいいかも」
中を覗き込んだ膠はそのまま滑り込むと、後ろ手でドアを半分閉めた。
「いやあ、これはまあ。ふふふ」
「ちょっと、ダブリバさん?」
櫟はよくわからないままドアを引く。膠ののんびりとした驚きの声と、漏れてしまった笑声がどうしても気にかかる。絶対に――ろくでもない。
膠は玄関からそのままつながるリビングで熱心にスマホのカメラのシャッターを切っていた。
その足元には、首に深々と包丁が突き刺さった死体が転がっていた。
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