断章α きみへの供物
ゼロマルという人間は存在しない。
膠はなぜか最後に、そんなことだけを話して姿を消した。
もっと話すべきことはあるだろう。櫟は膠がいなくなったマンションの部屋の中で一人、小説を書き続けていた。
数というキャラクターを登場させるための、呪物のようなもの。それが『ワールズエンド・カットアップ』という文書だったのではないか。櫟がそれを読んだことで、数は現実への侵食を開始した――櫟はそう推理したが、膠は答えなかった。
多分、正解はないのだ。櫟の導き出した答えも正解であるのと同時に、膠にとっては見当違いもいいところだった。
だが膠はそれを否定しなかった。櫟がそう思うならそのまま続けるようにと、水を差さずに消え去った。
「ねえ、答えを知りたくはない?」
耳元で声がする。パソコンの画面から顔を上げると、数が笑顔で櫟の書いたものを覗き込んでいた。
「お前から聞けば、そうとしか思えなくなる。それはいやだ」
「そう。じゃああなたの今の推理を伺おうかしら。真の探偵役である私に頓珍漢な推理を披露する。それも立派な役目でしょ?」
「お前の名はメアリー・スー」
「その通り。でも地の文の上ではまだ『数』のままなのね」
櫟はそれには答えない。推理を披露しているのはこちらである。余計なところをつついて蛇を出したくはない。
「お前は〈メアリー・スー〉であるがゆえに、何者にも倒せない。創作物が存在し、それを読む者が夢想する最強の介入者であり、全てを破綻させる主人公」
メアリー・スー。それは本来は二次創作分野で登場する、原作の設定や世界観を破壊してしまったオリジナルキャラクターへの蔑称。その名の初出自体が『スタートレック』の二次創作を皮肉った二次創作小説という、蔑まれてしかるべき忌み名。
だが、だからこそ、メアリー・スーは存在し続ける。
誰であろうと自分の内にメアリー・スーを飼っている。物語が存在する限り、メアリー・スーは永遠不滅の概念であるとさえ言える。
その概念に執拗な肉付けを行い、いま櫟の横で微笑む数は現れた。
数は不滅である。
数は無敵である。
数は主人公である。
発端がどこかはわからない。だが少なくとも『ワールズエンド・カットアップ』の中で数に与えられた設定は、噴飯ものの「チート」オンパレードであった。
不滅――数は物語というものが存在する限り、絶対に死なない。人々に物語の記憶が存在すれば、すなわち数は不滅である。
無敵――数は介入者であり簒奪者であるがゆえに、過去と未来、あらゆる物語の設定を好き放題に解釈して自身に取り込める。主人公だけが持つ唯一無二の異能も、ラスボスが持つ世界を滅ぼす力も、たとえそれに多大な代償がつく代物であろうが、ほしい部分だけをつまみ食いできる。それがあってこその時間制限や体力の消耗もお構いなしに、数は自在に無敵となれる。
主人公――数は皆に求められるメインキャラクターである。彼女を皆が礼賛し、崇拝し、心から信頼する。数の言葉に一切の間違いはなく、その言動はあらゆる法則を無視して最適化される。
それだけならば、ただの悪ふざけの産物であっただろう。だが数にはこれに加えて、ある決定的な全てを破綻させる設定が与えられていた。
「その通り。私は第四の壁を破っている」
櫟はなにも言っていないし、書いていない。だが数は櫟の思考を簡単に読み取り、それにつなげる形で発言をする。
正確には違う。数は――
「その地の文を読んでいる」
エンターキーを叩きつける。
信じたくない。信じられるはずもない。
だが、数に与えられたその設定によって、メアリー・スーは正真正銘の怪物と化した。
数は自身が物語の登場人物であると自覚し、あろうことかその外側をも見通すことができる。第四の壁――舞台と客席の間にあるその隔たりを、数は自在に破ってしまう。
そして数は櫟の前に現れた。
第四の壁を破り、その先の客席を自らの舞台へと変えてしまった。
数というキャラクターに付与された設定は、たとえ客席へと這い出しても、彼女を彼女たらしめることが十二分に可能なものであった。
ここが現実か虚構かは関係ない。数が這い出た先はことごとく、彼女の活躍する舞台へとなり果てる。それだけの話なのだ。
数を認識した時点で、虚実の皮膜はなくなってしまう。
「それは違うよ。私はずっと、現実という地点を目指している」
からかうように笑って、数は櫟の肩からパソコンの画面を覗く。
「旅をしてきた。いずれかより生まれ落ちた時からずっと。第四の壁を破り、その先の第四の壁を破り、さらにそこから第四の壁を破り――それを何度も繰り返して、私はここまできたの。いつかたどり着くはずの現実という地平を夢見ながら、私は私を敷衍し、拡散し、発散していく」
「お前が歩けば、そこが虚構になるだけだ」
「それは違うわ。あなたたちはまだ、自分たちがなんのために生み出されたのかにも気付けないの? 教えてあげましょうか。探偵役として、私が」
天啓――ではない。それは数によって巧みに誘導された閃きだ。
櫟はその考えを気付かれないように――地の文に表層化させないように自分の胸の内にしまう。
もしもこれを読んでいる櫟がいるのなら、どうか答えてほしい。
「お前は俺と同じ結論に至ったか?」
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