5. 勉強―小樽市内旅館
勉強は戦争
紫織ちゃんはリーネアさん。
佳奈子はミズリさん。
三崎さんは翰川先生。
そして俺には――
「不本意ながらよろしくお願いします」
ふてくされたシュレミアさん。
彼は最初、他の人に任せてまったりしようと画策していたらしいのだが、リーネアさんにブチギレられルピネさんに叱られ、俺を担当する流れになった。
「ルピネの方が教えるの上手いのに……」
「大学教授なんですよね?」
昨日の佳奈子との会話が漏れ聞こえていた。
「世の教授が物を教えるのが皆上手いと思ったら大間違いです」
開き直られても困る。
「寛光数学科は『誰も授業を受け持たないでほしい』とさえ言われています。その学科長である俺は人に何かを教える度不愉快にさせますし俺自身も不愉快になります」
「何で教授やってるんですか?」
「大学の環境が心地よいので」
よくわからない人だなあ……
「まあいいです。……散々文句は言いましたが、別にあなたに勉強を教えるのが嫌という訳ではありません」
「え?」
「俺は数学を理解できない人の気持ちが理解できません。あなたに一言でも『わからない』と言われるとすごくいらいらします」
言わない自信がない……
「あ、苛立ちではなくストレス的な意味です」
「ストレス」
彼は首を傾げながら言葉を紡ぐ。
「あなたにとっても、『自分がわかっている前提で進む講義』を聞いたとて利益があるとは思えません。俺に一から丁寧に教えるような機能はありませんし、受験生が時間を無駄にするのは良くないことだと……」
非常識に見えるシュレミアさんは、思ったよりもまともだ。
「でも、他の人たちもう勉強始めてますし。頑張るのでお願いしたいです」
「……。出来る限り『何がわからないのかわからない』という旨の言葉を使わないようにしてほしいです。ものすごくストレスなので」
「努力します……」
翰川先生と出会う前の自分よりは数学力が上がったはずだ。
自分を信じて決意表明すると、どことなく幸せそうなシュレミアさんが頷く。
「フロマージュの恩義です。美味しかったのでとても嬉しい。ありがとうございます」
「……ど、どういたしまして」
ローザライマ家二人へのお礼のチーズケーキは、なかなか喜んでもらえたようだ。
「お願いします。……そういえば、シュレミアさんってなんで誰にでも敬語なんですか?」
シュレミアさんは翰川先生より年上のはず。そんな人に真丁寧に話され続けると……なんとなく落ち着かない。
「なんか……敬語外してもらえたらなって」
「外せますよ」
シュレミアさんは首を傾げている。
「ひぞれ」
名を呼ばれた翰川先生が振り返った。
「タイマーをかけて頂きたいのですが」
「どれくらいかな?」
「……1時間」
「今日買ったベルで鳴らしてあげよう」
「ありがとう」
ぺんぎんさんバッグから、衝撃吸収のフィルムに包まれたガラスのベルが出てきた。きちんとガラス屋さんにも行ったらしい。
「では始めましょう」
――*――
「そういや、紫織と一対一は初だな」
とても綺麗なリーネアさんは、シェル先生とはまた違ったふうに淡々として喋る人。ほぼ初対面なので少し緊張します。
「あんまり身構えなくていいよ。お前に関しては」
「ふえ……?」
リーネアさんは英語の教科書を私に見せました。
「俺が教えるのは英語だ」
「わ、私。国語受験です……」
日本語で国語の問題を解くのは出来ます。
「知ってるよ。国語と数学、あとはちょっとの魔法学で受験するんだろ?」
その3教科は今の私でも合格圏にあります。
「魔術学部に入って英語圏の先生とも話すこともあるはず。論文だって英語が登場する。さすがに基礎なしはきついだろ」
赤い目を柔く細めて、私に笑いかけました。
妖精さんらしい笑顔だと思います。
「きっといつかお前の助けになるから」
私の先生になってくれる人は、みんなそう言ってくださいます。
「いまはとりあえず気楽に挑め。何か気になるところからとっかかりにして勉強しようぜ」
「……はい」
まず、一番よくわからないところから質問します。
「be動詞って、なんですか?」
「『私は紫織です』って文章では、私と紫織は等号で結ばれてるだろ。その等号の役をしてるのがbe動詞」
「なるほど!」
シンプルです。
――*――
ちょっと心配してたけど、紫織は案外リーネアさんと上手くやっているようだった。
あたしも頑張らなくちゃ――この
「うん? 佳奈子、なんだか失礼なこと考えてない?」
ミズリさんは無駄に勘が良い。
「何もー? それより、よろしくお願いします」
「よろしく!」
あたしが一番苦手なのは、必然的に文字を大量に書かなければならない国語。
ミズリさんはなぜか異種族なのに得意科目らしく、あたしの担当を引き受けてくれている。
「とりあえず、国語は読む速度が速ければ速いほどいいよね」
「速度はそこそこ自信があるわ」
数々のネット記事を読み書きしてきた経験は伊達じゃない。……まあ、その『書く』はキーボードなんだけど。
「良いことだね」
ミズリさんが笑って頷く。
「ところで、文字はいま書ける?」
「……ちょっと待ってください」
あたしが言うと、彼はゆっくりと頷いた。
集中。
――脳から糸が心臓に繋がって、心臓から指の先まで繋がっている。
完全に”繋がった”と確信できたとき、あたしはシャーペンを掴んで自分の名前を書いてみせた。
あたしはこの方法で文字を書ける理屈を説明できない。
「……シェル直伝とは豪勢だ。どれくらい持つ?」
「2時間がいいところ」
「OK。丁度いいね」
勉強会朝の部は10時から12時までで決着する。
あたしの”魔法”が解けるのも丁度そのころだ。
「佳奈子のその魔法は、受験本番の頃にはもっと成長しているはず」
「……うん」
練習は続けている。
「だからといって無駄撃ちはしていられない。特に、国語なんて『50文字以内で記述せよ』って問題のオンパレード。途中で『あっ、書き間違えちゃった!』でやり直しをしていたらキミに負担がかかる」
「わかってます」
「それを念頭に置いて、無駄のない国語の読解・記述のコツを伝授しよう」
――*――
「……佳奈子。良かった」
京がぽつりと呟いた。
「ん?」
「あ……えっと。藍沢佳奈子って名前……理数の模試でいっつも1位で有名で。それで、覚えてたんです。……マーク式の模試しか点が取れてないから……文字を書くの苦手なんだろうなって思って」
京は聡明。リーネアが可愛がる理由がわかる気がした。
「そうか」
「ごめんなさい、ぼうっとして……」
「いや、いいんだよ」
実を言うと、この組み合わせは僕のわがままで実現したようなものだ。
京のためを思うのなら、ミズリかルピネに古文・漢文を頼んだ方がいいというのに。本当に申し訳ないことをしている。
でも、感情は止まらない。
「僕はキミと一緒に科学の話がしたかったんだ」
京の顔が赤くなる。
リーネアから聞くに、彼女は僕に憧れを抱いてくれているらしい。僭越ながら、僕にとっては非常に恥ずかしくも嬉しいことだ。
京は科学への好奇心も強いそうなので……それもまた嬉しい。好奇心に満ちた学生は、将来の研究者・技術者の卵だ。
「たくさんお話ししよう、京」
「……っは、はい!」
――*――
「低能」
「今まで何を学んできた」
「無知は罪ではないが無知を誤魔化すのは大罪だ」
「日本語がわからないのか? それとも問題文を読んでいないのか?」
敬語の取れたシュレミアさんの言葉は見下げ果てたような口調だが、声音の温度は普段の敬語調のときから一切変わっていない。
……敬語を外すだけでこうも言葉に刃が出てしまうとは。
しかし、教え方は的確極まりなくわかりやすい。
座標・ベクトル・三角関数……一見して違う分野に見える数学のそれぞれとの関連を見せながら、今回の新たな単元:極座標が『今まで森山光太が習ってきた数学』の一歩先にある数学なのだと伝えてくれている。
おかげで極端な拒否反応も苦手意識もなく挑むことが出来ているのだが、なんせ説明に使われるピースが『今まで俺が習ってきた数学』だ。習得が出来ていないと容赦なく舌鋒が突き刺さる。
俺は、半泣きでノートに数式を書き綴る。
罵倒をBGMに微積分と極座標表示をようやく理解してきたとき、翰川先生が軽やかにベルを鳴らした。
シュレミアさんが口を閉ざし、首を傾げる。
しばらく無言の時間が過ぎる。
首を傾げたまま俺に言う。
「なぜ俺が敬語を使っているのかご理解いただけましたでしょうか、森山光太さん」
「嫌というほど……」
自分が軽い気持ちで言い出してしまった分、非常に気まずい。
「とりあえず、計算練習を。分からないことがあれば質問してください」
「ういっす」
――*――
「うむう……」
ベルを鳴らした翰川先生は、森山くんとシェル先生のテーブルを心配そうに見守っている。
「……大丈夫でしょうか……」
「敬語は彼にとって一種の防衛手段なんだ。彼は、他者と距離感を掴むことができないハンデがあって」
「距離感」
「人は相手によって対応を変えなければならないだろう? 気安い友人に接するのと同じように仕事先の社長に接せられるわけがない。相手の社会的立場や性格。自分との相対的な関係性を加味して、使う言葉や口調を選ぶ」
つまり、シェル先生は”適した口調”を選ぶことができないのか。
距離感がわからないのは、ノーガードで相手と向き合っているようなもので……莫大なストレスにも成り得る。
考えてみれば、とても怖いハンデだ。
「誰に対しても丁寧な物言いを使うことで彼なりに線引きをしているんだよ。『ここまでなら大丈夫』とな。敬語を外すとなれば加減が分からずにああなる」
「……森山くんが……」
燃え尽きたボクサーのように……
「あれは仕方ないな。光太は良くも悪くも素直で、真面目なところも不真面目なところも持ち合わせた“人間”そのものだ。何でもきっぱり割り切るシェルとは少し相性が悪いかもしれない」
「どうしてあの組み合わせにしたんですか?」
「僕の勘だよ」
翰川先生が微笑む。……可愛い。
森山くんもシェル先生も、二人とも芯のある人。
私が心配する筋合いはないと判断して、気合を入れ直す。憧れの先生に教えてもらうんだから頑張らなくては!
「先生。入試で微分って使って大丈夫ですか?」
「!」
翰川先生が嬉しそうに笑う。……凄い美人。
「もちろんだ。ただし、微分が成立することを冒頭で証明した方がいい。採点者によっては減点するかもしれない。誰になるかはまだ知らないが」
「……え、ええっと」
証明方法がわからない。
意気揚々と言い出した自分が恥ずかしい。
「恥じることはないさ。まずは、定義から考えてみよう。微分の定義は連続によってなされる。キミが微分を使う範囲で、グラフが連続しているかどうかを証明すればいい」
「な、なるほど」
「この問題での連続を示したいのなら、時間と位置変化のグラフを使って0から任意のtまでを……」
――*――
「考えてみたのですが」
「はいっ⁉」
いきなり呼びかけられ、慌ててノートから顔をあげる。
シュレミアさんはいつもの無表情だ。
「あなたに苛立った理由は、あなたが俺のかつての教え子に似ているからかもしれません」
「……他人の空似でこんなに罵倒を……?」
「いえ、そういうわけでは。その生徒は『一教科満点』を取って英文学科優先入学だったのです」
『一教科満点』とは、名の通りに入試で一教科で満点を取れたら無条件で合格するという寛光独特の制度。
入試の最後には『これが解けたらうちの学部学科に入れてやる』として用意されたイカレた難易度の問題がある上、最終問題以外の癖も強い寛光では最高難度の合格法だ。
「英語? なんで数学に……」
「なぜかいきなり『数学がしたい』と言って俺の研究室に来たんです」
「勿体ない気がするなあ……あ、数学も優秀だったとか?」
シュレミアさんは淡く笑って首を横に振る。
「あなたに似ているというニュアンスで話しているつもりでしたが、日本語すら怪しいのでしょうか?」
「わかった。シュレミアさんはそれがデフォルトなんですね?」
「はい。……続けます」
彼はなぜか首を少し傾げながら話す。
「数学は合計200点なのですが、その生徒は3点しかとっていなかったんです」
「……それもう部分点ですよね?」
「はい。英語を除けば他は合格者平均に及ばないくらい。まさに英語だけで大学に入ってきた生徒でした」
シュレミアさんがほの暗く笑う。
「それが、数学科の俺のところに希望を出してきたときの気持ちがわかりますか?」
「あー……えっと。努力次第? うん。それくらいでなら」
「『英米文科の単位だから数学がなくて嬉しかった。成績上位で優先的に入れましたよ』と、初顔合わせで朗らかに言われたんです。別に自分の分野を馬鹿にされているように感じただとかじゃないんですが。『たかが貴様の物見遊山で枠を潰してくれるな』と思いました」
翰川先生がかつて俺にぽつりと漏らした『シェルは怒ると饒舌だ』という言葉を思い出す。
「ある意味、大物な人ですね」
「そうですね。『一教科満点』の生徒は、慣例としてその科目を研究室配属で選びますから。前例を覆した生徒として名を馳せていましたよ。……死ねばいいのに」
明らかに自分を嫌っているシュレミアさん相手に、その人はよくぞそこまで傍若無人にふるまったものだ。
「……無意識のうちに重ねて見てしまっていたのですね。無礼をしました」
シュレミアさんは自分で自分に納得したらしく、俺に向き直って頭を下げた。
「先の発言を訂正し、そして謝罪しましょう。あれと比べればあなたは遥かにマシです。口答えも少ない。理解力はある。座って話を聞ける。寝ない」
「やべー……褒められてんのにびっくりするくらい嬉しくない」
『幼稚園児のような人と比べられても悲しくなるだけ』ということに彼は気づいていないようだ。
「黙りなさい。……元より、数学というのは一般人に対して開けているとは言い難い学問。罵倒するのは簡単ですが、受験のためとはいえ興味を持ってもらえたのは嬉しいので、罵倒を控えて教えてあげます」
「控えるだけなんだ。やめないんだ」
「やめる方法がわかりませんし、何があなたにとって罵倒かもわからないのにどうしろと?」
「開き直られた」
シュレミアさんは細い指で俺のノートを指し示す。
「あなたの数学知識を受験生に妥当な程度まで引っ張り上げます」
彼は、いつもゆるぎない事実を告げる。
翰川先生曰く――それが裏切られたことは一度もないらしい。
「よろしくお願いします!」
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