百度のエクリチュール~作家個人は文軆を持ち得るか

 レーモン・クノーは『文体練習』において、ひとつの物語を、九十九種類の文軆でえがきわけた。「メモ」から「荘重体」まで網羅した、文軆の熱力学的死ともいえる異様な挑戦から、ロラン・バルトは『作家個人は文軆をもたない』という着想をえた。作家はだれでも、どんな文軆でもえがきうる、という虚無主義だ。なかんずく、文軆意識を極限までひくめた、文軆をもたない文軆を零度のエクリチュールとよんだわけだが、零度のエクリチュールとは元来、『文体練習』のように『作家個人は文軆をもたない』という視座から発想されたものだった。

 翩翻として、工藤氏は『ひとつのエクリチュールで多様な物語をえがく』という実験に挑戦している。『文体練習』が、ひとつの物語という消失点から無尽蔵に文軆が輻射されていたのにたいして、『豊穣なる語彙世界』では、ひとつの文軆という消失点から無尽蔵に物語が輻射されるという一点透視図法がとられている。その文軆は、きっと、偶然に成立したものではなく、工藤氏の半生のあれこれから醞醸された必然的な、ゆるぎない文軆といえるだろう。この稀覯な文軆を、文軆をもたない文軆としての零度のエクリチュールとは正反対に、工藤氏は断固として文軆をもつという意味から『百度のエクリチュール』という造語で形容したい。『百度のエクリチュール』による『零度のドラマツルギー』(在原業平並の超絶技巧による和歌から、現代の風俗描写まで)と、あえて表現してみたい。

 さらに重要なことは、本作は『言文一致している』という点だ。
 読者諸賢は、瞥見して本作を完全なる古文だと錯覚するかもしれない。しかし、実際には、おおくの作品で口語体がもちいられていることに注意していただきたい。和歌や漢文読み下し文などをのぞけば、ほとんどの文が『中途が文語体で末節が口語体』になっている。熟語の語義が字面から揣摩憶測できれば、物語を理解するのにさほど難儀はしない。この『口語体をもちいた擬古文』という箇所が大事であり、工藤氏はこの方法によって、『擬古文で現代をえがく』ことに成功しているのである。ファンのかたがたには激昂されるかもしれないが、京極夏彦の擬古文も、平野啓一郎の擬古文も、『現代をえがく』にあたって成功しているとはいいがたい。京極も平野も、其其の時代小説から、『擬古性をひくめる』ことで現代をえがこうとしているからだ。本作では、邃古中国から、現代東京まで、時空を超越して、古今東西の物語が、工藤氏の百度のエクリチュールによって、等価にえがかれている。工藤氏は『徹底した擬古文でえがくこと』で、古代のみならず、『現代も自然にえがける』ことを証明したのだ。これもまた、工藤氏という『作家個人に文軆が存在する』という儼乎たる立場ゆゑにもたらされた結果だろう。

 愚生は、此処に、あらゆる物語をえがきうる、あるひとつの文軆をみた。
 まさに、『作家個人は文軆を持ち得る』ことを工藤氏の墨痕にみたのである。

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