伝承文學としての人生~物語ることを物語る

 失業中の青年が、盲目の老爺と邂逅することからはじまる物語である。
 前半で言及されているように、曩時より、巨万の盲目の作家たちが巨万の物語を創作してきた。ホメロスを劈頭とし、ミルトン、ボルヘスもこれにあたるだろう。と雖も、作者様のイメージしているのは、琵琶法師によって口伝されてきた平家物語のようだ。
 睛眼者のみえる世界がみえない老爺と、健常者にはみえないものまでみえてしまった(かもしれない)青年という対蹠は、文藝作品としてはありきたりかもしれない。が、老爺と青年の『物語り』が、形式上、並列に攪拌されている本作では、終焉部でも理解されるように、老爺と青年、障碍者と健常者という階層秩序的二項対立は脱構築される。
 此処において、青年は盲目である老爺の『視点』をもちいて老爺の人生を体験する。其処で、金銭を譲渡した少年が、おそらく、老爺が三途の川をわたる船賃をはらってくれるという構造なのだろうし、此処も非常に伎倆がさえている。が、個人的には、斯様な大衆文學的な仕掛けよりも、矢張り、平家物語を髣髴させる『口伝』という構造が浮彫にされるところに蠱惑された。
『ゆったり語られる老人の話は今まで聞いた話とは少しばかり違った趣で、なにかの伝承の様な含みがあった。』と後半にあるように、老爺は躬自らの人生を青年に口伝して、口伝された青年は本作の視点人物として、老爺の人生を我々読者に口伝する。
 此処において、老爺が青年に『物語る』ということは、すべての作者が読者に『物語る』という構造とアナロジーをなす。作者は読者が『みえない』し、読者は作品が『みえすぎてしまう』立場にあるわけだ。また、愚生が恁麼の物語を評論するとき、『口伝された物語がさらに口伝されてゆく』前述の構造とかさなる。畢竟、本作は『物語る』ことについての『物語』といえる。メタフィクションではなく、あくまで、自然主義文學として文學をメタ化した良作である。
 斯様な純文學作品が、カクヨム内で増えてくれるとうれしい。

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