まぼろし

D・Ghost works

第1話

 故郷を離れて転々と職を乗り換えては、何か物にしたという自信を得ないまま、ついに職にあぶれた私は再び実家に戻って二か月と言う間、居場所を求めて日がな一日、公園のベンチに腰かけている。手持ち無沙汰を慰めるのは近所の古書店で買った五十円の古本。タイトルはもとより、作者の名前すら耳にした事のない数々を何冊読破した事か。

 小説、ハウツー、童話、民俗学、哲学、官能物……何をどれだけ読んだからと言って、何が変わるわけでもない。

 このベンチに腰掛けるようになってから、一人の老人の存在に気が付いていた。その老人は読書をするでもなく、公園の木々草花を愛でている様子もなく、ただ隣のベンチに座り日光浴をしているだけ。老人の目がめしいていると知ったのは、名前も知らない民俗学者の書いた新書から目を上げた時の事だった。だらしのない私はベンチに寝そべって、本の背表紙で陽射しを隠しながら文章を追っていたのだけれど、何やら頭の上の方から視線を感じた。顔を向けると、隣のベンチに品の良いグレーのハンチング帽を被った件の老人が座っている。老人はこちらに顔を向けていて、一目で失明しているとわかる真白な目を私の方へ投げている。

 私は途端に気まずさを覚え、姿勢を正して座り直したのだけれど、そこまで動いてようやく(かの老人に見えていないだろうに、何を慌てているのだろう?)と思い直し、チラリと視線を向けると真白な瞳をした老人は素知らぬ様子で暖かな日差しを浴びながら水筒に入った飲み物で口を潤していた。


 失業保険の支給をただ待っている私に対し、我が家は驚くほど寛大だ。それが私にとって居心地の悪さに繋がっているのか、いないのか……。

 毎日、朝食は両親と共に取り、その後家の鍵を手にして「散歩に行ってくる」と一声添えて、後は真直ぐいつもの公園へ。誰かに見られている訳でもないのに出来るだけ人目……特に小学生位の子供らの目に付かないように、不審者に思われないように、などと中途半端な警戒心をさらして幾分いくぶんか廃れた公園のベンチに座る。

 それからは只々ただただ、本に向かうばかり。毒にも薬にもならない文字の羅列を追う。それがなぜ毒にも薬にも成ってくれないのか、心のどこかで分かっているのかもしれない。多分。

 しばらくの間、午前の風に吹かれて、瘋癲ふうてんにはしばし眩しい日差しに目を細めながら空腹を無視して時間を消化している間に腕時計はゆるゆると午後一時へ向かう。

 その頃になると音も無く老人が現れる。いつものベンチに腰を下ろし、手にした杖の頭に両手を重ね、帽子からはみ出した白髪から見受けられる御歳おんとしにしてはスラリとした姿勢でどこかを眺める。

 それから何事も無く太陽は傾き、日が暮れる前に老人は一人で帰って行き、日が暮れてから私は家路につく。紫色した空を背景に飛んで行くムクドリの群れの影と、その遥か彼方で沈む太陽に背を向けて。


 変わり映え無い虚無きょむの時間を過ごす公園に居ながら、めしいた老人の存在を忘れてしまうのは容易たやすい事だった。本を捲ったり、空を眺めながら昔の事、あまり良くない記憶を思い起こせば隣のベンチに誰が座っていようがそんな事は些細な事で、私は途端に一人ぼっちになる。先日読んだ宗教の本に照らし合わせれば、私の状態は禅病の様相ようそうていしているのかもしれない。

 ある日、いつものように公園におもむくと、いつも私が座っているベンチは何者かに破壊されていた。酔っぱらいか、はたまた無鉄砲な若者の仕業か……。背もたれはひしゃげ、足は折れて、とてもじゃないが座る事なんて出来そうにないので、老人の事を失念していた私は特別戸惑いも無く隣のベンチに腰を下ろした。それから数時間後、午後一時を周った辺りに音も無く現れた盲た老人に私は酷く驚かされることになる。

「どちら様か存じませんが、これは失礼した」

 私の足に杖の先をぶつけてしまった老人が白い目を私の肩の辺りに向けて頭を下げるから私は慌てて本を閉じ、この二か月ほどの間、家族以外の人間とまともに口を利いていない事もあってか

「……いえいえ……こちらこそ面目ない」

 などと、少々頓珍漢とんちんかんな返答をこぼしてしまい、途端にそれを恥じる気持ちでわずかばかり顔が赤くなるのを感じる。もちろん老人は私の顔色など知る由も無く、だた少し困ったような顔をしてから壊れている方のベンチへ向かおうとするので、これはいかん。私は慌ててベンチから腰を上げ

「よかったら座ってください」と声を掛ける。すると老人は首を振り

「それは申し訳ないですので」

「……いや、そっちのベンチ壊れてるんで座ったら危ないですよ。こっち使ってください」

「とはいえ、あなたの居場所を取るわけにも参りません」

 そう言って老人は遠慮する。世のお年寄りの中には気を使われる事を嫌う方も居ると聞くけれど、多分この老人もそう言った年寄りの一人なのだろう。そう思うとめしいた上に人の手を借りようとしないこの老人が他人事ながらも気にかかり

「……それじゃあ、私の隣が空いてますんで、宜しければ……」

 などと突拍子とっぴょうしもない事を言ってしまう。この閉鎖的に近代化した今の社会に、好んで他人とベンチに同席したいと思う人間がはたして居るのだろうか? 百歩譲ってこの老人がこころよしとしても、そう言った微妙な距離感の元、しばらくの時間を他人と共に過ごす事なんて私に耐えられようか、などと考えていうちに少しばかり悩んでいた老人は微笑を浮かべ

「それでは、お言葉に甘えて」

 と座ろうとするので、私は私で老人の腕に手を添えて腰を下ろす動作を手伝う始末。


 公園の入り口から五歩進めば玄関。その道中には歩幅に沿うように敷石が五つ並んでおります。雨の後なんかは滑りやすいんで気を付けないとひっくり返っちゃいましてね。お蔭で何度、肘を擦り剥いた事か。玄関の引き戸は結構古びていたので少しばかり開けるのにコツが必要でして、戸の真ん中あたりを軽く押しながら開けるとギイギイ音を立てずに開けられました。玄関の先には奥行で五歩、横幅で八歩程の土間がありまして、夕方に帰ってくると途端に味噌汁の匂いに包まれて腹が減っていたのを思い出した物です。

 隣に座る老人は話の合間に水筒からお茶を飲み、私はその姿を眺めながら再び老人が語るのを待っている。そして老人が思い出したように昔語りを続けると、私は目を閉じる。

 土間で草履を脱いで居間に上がり飯を食うんですが、今と違って貧しい物ですから、おかずなんてのは豆腐や枝豆ばかりでしてね、これがなかなか食い辛くて、なんせ見えないから豆腐は上手く持てませんし、枝豆が鞘から飛んでしまうと、どこに落ちたのかわからない。だからとって粗末にすれば親父に殴られる。飯を食いながらタンコブばかりこさえてたものです。

 老人の話は不思議で、何の変哲もない、失礼な言い方をすれば面白くも何ともない話でしかないのだけれど、この老人の視点に立って聞き入ってみると非常に体温のあるお話しだった。老人の視点。つまりめしいと同じように目を閉じて光を遮って話を聞く。それだけの事。それだけでこの老人の幼少時代や、かつてこの公園に建っていた木造の家の中で囲炉裏を囲む家族の様子が私の目蓋の裏に現れる。

「少し話しすぎましたかね?」

「……いえ、そんな。夕食の後は何をしていたんですか?」

 暗くなれば大概の方は出来る事が無くなってしまいますが、生憎生まれてからずっと目の見えない私は草鞋や、しめ縄を編んだり、それか竹籠やら編み笠やらを作って小遣いを稼いでました。それでも次の朝には畑に行く親父に迷惑はかけられませんので、それほど遅くまで起きている事はありませんでしたが。

「見なくても編める物なんですか?」

 純粋な疑問とは時になんと滑稽こっけいな事か、そう思ったのは口を開いた後の事。老人は優しく笑っていて、いつも携えているリュックサックからポケットティッシュを取り出す。それからティッシュペーパーを一枚引っ張り出し、細く裂いてからそれをって二本のこよりを作り、そのこよりを両手の平に挟んで悴んだ手の平を温めるように擦り合わせる。

「ティッシュじゃ上手くいかないものですね」

 そう呟きながら老人が重ねていた手の平を開くと、編み込まれた二本のこよりが、一本の太いこよりを作っていた。その太いこよりの表面には綺麗な畝が出来上がっていて、正月に見かける立派なしめ縄のミニチュアみたいだ。

「どうやったんです?」

 思わず目を大きく開いてこよりを観察するのだけれど、老人は白んだ目を薄く開いて微笑むばかり。

 ちょうど、いまブランコが置いてある場所。そこには押入れがありまして家族の服や布団が片づけられていて、親父に怒られるとよくそこに放り込まれたんですが、暗かろうが明るかろうが関係ない物ですから怖いと思う事も無くて、そう言う時なんかは、ただ、ただ、退屈でして。それで箪笥の中を探ってみたのですが、奥の方の床板に蓋のような物がありまして、剥ぐってみると床下に繋がっているのか、湿気った空気と土の臭いが上がってきます。多分、床下の手入れをする際に使う出入り口なんでしょう。

 老人がブランコの方へ手をかざして語る間、私は目を閉じて風景を思い描き、幼少の頃の老人を思い描き、埃っぽく黴臭い押入れの中を思い描き、床下への蓋を剥ぐって地面に手を伸ばした際に着物の袖に土が付く様子を思い描く。その光景の続きがどう変化していくのかは私には想像出来ない。語り手の老人の言葉に全て委ねられる。

 その日、床下に手を伸ばして土を掘り起こし、箪笥に入ってた親父の釣り道具を埋めました。いつも怒られてばかりだったので子供なりに仕返しをと思ったんでしょう。とはいえ二、三日も過ぎてしまえば腹の立っていた事なんてすっかり忘れて、むしろ悪い事をしてしまったと憂鬱になるんですが、かといって一人で押入れに入って掘り起こせば家の者を驚かせてしまいますし、かといってわざと怒られて、もう一度、押入れに押し込まれるなんて事も出来ず、そうこうしているうちにお国がこの土地を買いたいと仰いました。家のほうも大分ボロが来てたのと十分な御代金を頂ける事だったので、丁度、十の歳の頃でしたかね、隣町へ引っ越しました。


 物語を語る事を生業としていた大昔の人物にはめしいが多かった。盲であるが故にその鋭利な感覚を用いて語られる一句一句には人を動かす特別な力が宿ったとか。といってもそう言った知識は少し前に読んだ本の受け売り。私は平家物語すら知らない。けれども老人から放たれた語りは不思議で、不思議で。

 家に帰ってからも目を閉じれば、昼間聞いた物語が鮮明によみがえってくる。別段面白くも無ければ、つまらなくもない光景の羅列。見た事のあるはずない景色の全てから、どこかで知っているような奇妙な感覚が滲む。

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