オーバー・テクノロジーによるコミュニケーション夥多をえがいたSFだ。
最初から憂鬱な話題で失礼かもしれないが、最近、某TV番組出演者が、Twitterなどによる罵詈讒謗にたえられずにみずから命をたつ事件があった。オーバー・テクノロジーとコミュニケーション夥多による悲劇は、すでに現実のものとなっている。
コミュニケーションの過剰による悲劇としては、グレッグ・イーガンの短篇「ふたりの距離」がある。これは、最早『意識の一致』という窮極のコミュニケーション技術ゆゑの悲劇であった。本作は、此処まで過激ではないという意味で、イーガンより地味だとおもわれるかもしれないが、愚生はゆゑにこそ、より現実に咫尺して問題提起しているようにおもわれる。
個人的に、『テクノロジーそのものが悪』であることは原理的にありえないとかんがえている。のちに戦争で悪用される相対性理論もインターネット・プロトコル技術も、いってみれば『純粋』な科學であって、それ自体に悪意はない。愚生は人間というものを根本的に信用していないので、這般の科學を陵辱するのは、いつでも人間の『悪意』だとおもっている。
といえども、本作の悲劇は何某かの『悪意』ゆゑのものではない。終盤、コミュニケーション夥多による自死の例が挿入されているが、これをふくめ、主人公の悲劇は『善意』というか、厳密には愛情によって惹起せしめられる。此処において、テクノロジーも人間も悪ではない。すべてが最善の選択をしたうえで、本作の結末は成立している。此処に、著者のヒューマニズムをかんじた。善VS善という永遠の二律背反が本作の骨骼を堅韌なものにしている。『愛はおしみなく与える』と聖書が主張すれば、『愛はおしみなく奪う』と有島武郎が標榜するのと同様である。
余談だが、著者のプロフィール欄や、各作品の説明から浮彫にされる経歴がすごい。すでにおおくの賞を受賞されていて、プロ一歩手前である。プロになられたときには、是非、『むかし、九頭龍っていうワナビに褒められてさあ』と宣伝していただきたい。