豊穣なる語彙世界

工藤行人

天地玄黄

東瀛

 夜来やらい黒風白雨こくふうはくうむことを知らず、滉瀁渺瀰こうようびょうび大海原わだのはら澎湃ほうはいたる波瀾をてておおぶねふるう。一命を鯨鯢けいげいあぎとに懸くるもむ無しとの所思しょしともづなを解いてより以来このかた、仕儀のくなるやも知れぬこと聆悉れいしつしていたとは申せ、今やほばしらは傾きかじくだけ、いよよ身命しんみょう危殆きたいに瀕するに及んでは、自然じねん鼎沸ていふつする舩人ふなびと達の悔悟かいごらん方無きは必定ひつじょうなること。

何人なんぴとあまよばひたまうたか……)

 万斛ばんこくの荷は涼しき雨余うよに香る。東瀛とうえい万里滄溟ばんりそうめいを隔てし彼方、聞き及ぶ蓬莱ほうらい国の豊かなる森羅は、卑湿ひしつのみならずかる沛雨はいうもたらしたるものぞや。此度こたみふな旅途たびすがら緬邈めんばくの地を夙夜しゅくや夢寐むびに思いつつ、ゆうたりして漫然と滄海わたつみあそばんと欲せし舩人ふなびと達には霄明しょうめいも又遥けきものなりけるぞや。


※『玉塵抄』廿三に「雩ハアマゴイトヨムゾ、アマヨバイトヨム人モアリ」とあり(中田祝夫編『玉塵抄(五)』抄物大系別刊シリーズ、勉誠出版、1971参照)。


※『祇陀大智禅師逸偈』及び『明忍律師行業曲記』に面白きみあり。

 其の一:【簸】(大智)

  「黒風船ヲ簸ヒ、檣傾キ檝摧ケ、身命殆ンド危ンデ、飄-泊ス高麗ニ」

 其の二:【航】(明忍)

  「ユウタリシテレ海ニ」(*レはレ点)→「海にゆうたりして」 


 其の一に就きて。諸橋轍次『大漢和辞典』に「簸」は「①ひる。箕で煽って穀物の糠や塵を去る。②あふる。あふりあげる」とあり。

 白川静『字通』に「簸」は「字音:ハ、字訓:ひる、あおる、語義:①ひる、あおる、あおりあげる、②ふるいすてる。語系:簸・播・波pauiは同声、波のようにゆり動かし、ひらひらと風に揚げるというような状態をいう」とあり。

 『角川大字源』に載せる「簸」の古訓に「中古:アグ・アフグ・ソソル・ソロフル・ヒアグ・ヒク・ヒラク・ヒル・ミ、中世:ヒル、近世:ヒル」とあり。

 いづれも送り仮名に「ヒ」の連用形活用語尾を持つ「簸フ」の用例は見えず。今、語義にりて「フルヒ」「フルフ」とむも後考を期すべし。

 其の二に就きて。「航」は「カウ(コウ)」と詁むゆへ「コウタリシテ」の可能性あるも、仮に「ユウタリシテ」とまば「悠たり」「ゆったり」の意か。管見の辞典類・古辞書に斯かる用例を載せるものあらざるも興趣あり。

 成る程、「航海」はまさしく海にゆうたりしたきものならん。

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