作者さんの文章がとても好きで、本当に好きで、たぶんこの詩集が始まった頃から好きで、たびたび読み返している、いち読者のとっても主観的なレビューです。
こちらの詩集を読むたびに、こんなにも心が動くのは何故なのか、とつい考えてしまいます。
語彙力が圧倒的だからか、表現力が圧倒的だからか、勿論それもありますけれど、恐らく本質的な答えとは言い難い。ではなんだ、と更に考えて以外の結論に至った次第です。
私たちは日々を生きる中で、様々な出来事に遭遇し、その際に生じた感情を理解し、分解するという作業を無意識のうちに行っている。それでいて、言葉に出来ない感情を、到底飲み込めない出来事を、分解し損なった目に見えぬものを胸裡に持て余している。
普段は気づかないけれど、この方の詩を読むと気づくのです、自分のなかに消化できない不快な何かがあることを、哀しいなにかがあることを、神秘的な何かがあることを、そもそも心を表現するには圧倒的に言葉が足りないことを。作者さんはそういったものを詩として言葉にしてらっしゃいます。だから胸を打たれるのだと。
ここは言葉と感覚の海です。
海はこれからも深さを増し、色を増し、温度を増してゆくことでしょう。
人一倍熱く、人一倍冷たく、人一倍優しく、人一倍意地を張り、人一倍絶望し、人一倍、焦がれている。
最後の魅力は人柄ですかね。カクヨムで一番素敵な詩集、皆さんもどうぞ、読んでみて下さい。間違いなく感動します、虜になりますから。
私が上手く読めてないだけかもしれないが、死を言葉で切望している様に感じた。生の死、というより言葉で紡ぐ死。
それが魅力に思えた。私が死を言葉を使って考えるとき、この詩集の言葉は多大に私の表現を刺激してくれると思う。
私が「死」ではなく「死にたい」を考えるのは希死念慮からきていると思っている。つまり、上手く表現できない誰かと比較したときや時に過る「となりの芝生は青く見えて絶望」、自分の現在地に対する無根拠の絶望。塞ぎ込んでいるときに漠然と考える「死」。私の場合、別に死ぬつもりはない。でも死にたいと言う。間に受けて欲しくないけど聞いてほしい「死にたい」。
この詩の中で彼が表現している彼の一つの死生観。そうゆう観点から見ても面白い。「死にたい」と言葉に発することを歓迎しよう。感情のグラデーションを受け入れる幅を広げたい。