「葉隠」論考

本作のお題目としても掲げられている「葉隠」の引用について少し。

『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』

この言葉を残したのは佐賀鍋島藩士・山本常朝なる人物で、祐筆であったとされることからも本作との数奇な縁を感じずにはいられない。

彼が「葉隠」を執筆したのは(実際には山本の口述を、同藩士・田代陣基が書き記した)江戸時代中期の頃。世は太平の時代となり、徳川幕藩体制も八代吉宗の政権へと移り変わり、武士の生活も目まぐるしく変わっていった頃である。

戦争がなくなり武士のアイデンティティは大きく失われ、士農工商の身分制度で最上位にありながら生活には困窮し、町人(商人)に金を借りてやっと暮らしていたような当時の世相に、憤りを感じていた山本常朝が、武士が華やかだった時代を再び取り戻さんとしてつづった心得がかの「葉隠」である。

しかしこの山本常朝という人は、元来、身体が弱く、武の人ではなかった。
また当時の佐賀鍋島藩は、全国でも先進的な改革として「切腹禁止令」を発布。
武士が命をかけて主君に仕える時代はすでに終わっていたのだ。

このことが山本常朝という人に「武人として死すこと」の強烈な憧れを抱かせてしまった要因であると言われてる。

これに呼応してしまったのがかの三島由紀夫である。
先の大戦で、桜の如く、見事散ろうと心に決めていた三島だったが、身体が弱いため軍隊には入れず結局生き残ってしまったという「殉死」へのコンプレックスがあったのだ。

このふたりと本作の花川毅山はどこか似ている。
「死」への妄執と、己が掲げる理想像に世間を巻き込んでしまうところだ。

「葉隠」はときに馬鹿にされ、ときに利用されてきた思想である。

花川毅山には、どういった運命が待ち受けているというのだろうか――。

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