書道とは死ぬことと見つけたり(仮)

タカテン

第1話 おでん屋での死闘

 書道。

 この危険な芸術でどれだけの命が失われているか、あなたは知っているだろうか?

 

 書道で人が死ぬ? そんな馬鹿な、と思うかもしれない。

 が、死ぬ。書道を舐めていたら、それこそあっさり命を落とす。

 少なくとも花川毅山はなかわ・きざんは、そう教わって生きてきた。

 だからこそ物心ついた頃から『洗い一年、干し二年、りが三年で、彫り四年』の厳しい十年修行で、心身ともに鍛え上げられたのだ。


『洗い』とは筆を洗うことである。

 毛の根元まで浸み込んだ墨はしっかり落としきらないと、たとえ名工が作った逸品であってもたちまち粗悪品へとなり下がる。そんなことになったら書道家の恥、切腹して筆に詫びるしかない。

 故に毅山は3歳の頃から、洗いを徹底的に仕込まれた。

 たとえ手が悴む真冬であっても盥になんども冷水を汲み、水が黒く染まらなくなるまでひたすら筆を清める。もちろん、筆を左右の手のひらに乗せて丁寧に洗う、通称『拝み洗い』が基本だ。

 子供心に書道家の厳しさを知った毅山であった。

 

 次の『干し』とは洗った筆を乾かすことである。

 洗いと比べて楽に思えるかもしれないが、さにあらず。干しの修行中は風通りの良い日陰で、筆がベストな状態に乾くまでじっと見守り続けなければならない。

 それは時に十数時間にも及ぶ場合があり、その間、眠ることはおろかトイレに立つことも許されないという。

 何故なら筆が最良に乾くタイミングはわずか数秒。その一瞬を逃せば乾きすぎとなり、また洗いからやり直しとなるからだ。

 この修行で毅山は優れた書道家には欠かせない集中力を身に付けた。

 

 みっつめの『り』とは墨を摩ることである。

 一言に墨を摩ると言っても、その時の気温・湿度を正確に把握した上で、墨を摩る水や硯を吟味し、また書き上げる作品に応じて雲龍型や不知火型など様々な作法で摩らなければならない。

 この修行で命を落とす者はほとんどいないが、手を抜いた者は念願の書道家になっても一年以内に死を迎えると言われる。書道家プロが墨の選択にミスるなど決してあってはいけない。この三年間で毅山が摩った墨の量は、優に琵琶湖三杯分を越えると言われている。

 

 そして最後の『彫り』とは、作品に押す落款、すなわち作者印を彫り作ることである。

 作品の出来が書き手の技術、センス、力量に左右されるのは間違いないだろう。

 が、時にどんな傑作であろうとも、落款に締まりがないばかり駄作と評され自害する書道家は後を絶たない。魂で彫れ。さもなければ死あるのみ。

 ただし四年間もひたすら彫っていると、自分が書道家なのか彫り師なのか分からなくなる。毅山も危うく道を違えそうになった。


 これら厳しい修行に毅山が耐えられたのは、ひとえに父・花川範村はなかわ・はんそんへの憧れであろう。

 範村は当代で優れた三人の書道家に与えられる称号・現代三筆のひとり。その書体は厳しさの中にこそ宿る美しさがあった。

 

 いつか父のような書道家になるのだ――。

 

 そんな思いを胸に抱き、ようやく厳しい修行を終えて墨に筆をひたすのが許されたのは、毅山が13歳を迎えた時のことであった。

 初めて墨を含んだ筆を持ち、紙に対峙した時のことを毅山は今でもよく覚えている。

 まるで真剣を持って立ち会うような緊張感が体を貫いた。

 そう、ここからは文字通りの真剣勝負。名声と死の隣りあわせ。優れた作品を生み続ければ名声は高まるが、もし少しでも不甲斐ない様を晒した時には最悪自決するしかない。

 むしろ本当の修業はここからだと毅山は知った。

 

 かくして毅山は古典をひたすら学び、古きから新しきものを創造しようと試みた。

 またある時は己の心と向き合い、自らの魂を書にしたためようとした。

 さらにある時は都会の喧騒を離れ、田舎の孤島で新たな書の創造に取り組んだ(なお地元の子供たちに邪魔されてばっかりだった)。

 

 そして今、毅山は筆一本を晒に巻き、全国各地を渡り歩く通称『流れ筆』となって、戦う者同士が己の命を賭けた『筆勝負』の世界を生きている。

 その目的はただひとつ――。

 

 死ぬこと、であった。




 

「筆勝負、始めさせていただきます。お題は今度オープンする私のおでん屋に飾る書。まずは先攻・弁慶雅鳳べんけい・がほう、いざ作品をしたためよ!」 

 

 立会人を務めるおでん屋の店主の呼びかけに、雅鳳は応ッと勇ましい声を上げた。

 身長二メートルを超える大男で、背中にはまるで大木のようなものを筆頭に、本人曰く今まで倒した相手から奪い取った999本の筆が縛り付けられている。

 

 その中から雅鳳は一本の筆を引き抜いた。

 なんてことはない、普通の筆だ。せっかくだからあのクソでかい筆で書いて欲しかったなと店主は内心がっかりした。

 一方、毅山はじっと雅鳳が取り出した筆の毛の根元を見つめ、途端に表情が険しくなった。

 

「がはは! この期に及んでワシの書に恐れをなしたか!」


 そんな毅山の表情を見て、雅鳳がニヤリと笑いながら筆を走らせる。

 

「おおっ! これは何とも楽しげな字だ!」


 その書き綴る字体に、雅鳳が選んだ筆には不満だった店主も思わず顔が綻んだ。

 尺八屏の紙を横置きにして書かれる字体は、明らかに普通の書とは違っていたのだ。

 

 くるくると。

 ひたすらくるくると筆が円を描き、文字を形成していくのである。

 それはまるで紙の上で演じられるフィギュアスケート。まるで音楽が聞こえてきそうなリズミカルな筆さばきで、決めたぜ必殺トリプルアクセル!

 顔に似合わぬ華麗な書に、店主はクマのぬいぐるみを投げ入れたくなった。

 

「これは素晴らしい! 見たことがない書だ」

「ふふふ。これは副島種臣の名作『帰雲飛雨』からヒントを得てワシが作り上げたオリジナル字体よ」

「なんと! して、何と書いてあるのだ?」

「ふっ。この字体に相応しく『花鳥風月』と書かせていただいた」


 字体が奇抜なのに、言葉は意外と平凡!?

 危うくツッコミを入れそうになる店主である。

 

「この店の一番いい部屋に飾るといいであろう。お代はそうだな、勉強させていただいてざっと百万円ってところか」

「ううむ。百万とは大きく出たなっ。しかし、確かにそれだけの価値はあるようにも思える」


 店主が唸った。チョロいにもほどがあった。

 

 

 

「いやいや、いきなり凄い作品が飛び出したものだ。しかし勝負はまだついてはおらぬな。では続いて毅山さんとやらに書いてもらおう」


 言われて毅山は静かに頷くと、まず雅鳳同様、尺八屏の紙を横向きに置き換えた。


「ふ、我が雅鳳書体には勝てる者など……な、なにぃ!?」

「ほぉ。紙を二枚、横につなげたか」


 雅鳳が驚き、店主が唸ったように、毅山は横置きの尺八屏を二枚、横に並べた。

 

「馬鹿な! 一体どんな大作を書こうと」

「静かにしろ。気が散るじゃねーか」


 大声でわめきたてる雅鳳に一言注意すると、毅山は一度深呼吸をする。

 そして次の瞬間、まるで突風のような気が毅山の身体から放たれた!

 

「な、なんとっ! 凄まじい気だ!」


 下手したら吹き飛ばされそうな気の暴風に耐えながら、店主は毅山の様子を伺う。

 毅山はただ静かに紙面へ筆を走らせていた。

 その姿はあまりに自然で、気負いがない。とてもこれほどの気を放っている本人には見えなかった。

 だが、だからこそ店主は毅山の勝負に殉じる覚悟をその姿に感じた。

 今、毅山は己の命を賭け、自分の心の訴えるがままに、その思いを、魂を、次々といい感じに書き上げている! 

 そんな毅山の魂の書とは……。

 

 

 だいこん。

 たまご。

 こんにゃく。

 はんぺん。

 がんもどき。

 牛スジ。

 餅巾着。

 エトセトラエトセトラ……。

 

 

 

「ふざけるなっ! おでんの具をつらつらと書いて、こんなものを書と呼べるかっ!」


 雅鳳が叫んだ! 至極当然な訴えであった。


「ふっ、書とは本来自由なものだぜ、おっさん」


 対して書き終えた毅山は気を静めながら答える。

 

「それに店主は気に入ってくれたようだ」

「なっ!?」


 雅鳳は慌てて振り返る。

 そこには涎をタプタプ落とす店主の姿があった。

 

「なんて、なんて美味そうな字なんや。汁が浸み込んだ大根、ほくほくなじゃがいも、ゼラチン質が癖になる牛スジ……ああ、どれも見ただけで涎が出るほど食べたくなる字じゃあ」

「これをお品書きにして店の壁に掲げるといい。きっと商売繁盛するだろう」

「決まりや! この勝負、毅山さんの勝ちやぁ!」


 店主の言葉にがくりとその場に膝をつく雅鳳。

 対して毅山は作品の隅にそっと落款を押した。

 鮮やかな朱色で浮かび上がる「毅山之印」の四文字。作品がいっそう引き締まると同時に、白と黒の世界で唯一の色が華やかさをも演出する。

 ただ、かくも傑作を生み出しながら、毅山の胸中に浮かぶのはただひとつ。

 

 すまない、親父。また俺は死ねなかった。

 

 自分に死ねと命じた父への謝罪の気持ちだけであった。

 

 

 

 

「さて、おっさん。介錯はいるか?」

「ま、待て。今、辞世の句を考えておる」

「うむ。現世に別れを告げる最期の言葉だからな。じっくり考えるがいい」


 筆勝負の掟に則り、敗れた雅鳳の自害を待つ毅山。が、すぐにそわそわし始めると


「ところでおっさん、さっきから気になっていたんだが……」


 そう言って雅鳳が背負っている筆を近くで観察し始めた。


「あーあ、やっぱりだ、どれもこれも洗いがなっちゃいねぇ。根元で墨ががっちがちに固まってやがるじゃねぇか。あんた、洗いの修行を怠ったな?」

「洗いの修行? なんだそれは?」

「『洗い一年、干し二年、摩りが三年、彫り四年』の『洗い』だよ。この十年修行を修めてこそ、俺たちは晴れて筆を扱うのが許される書道家になれるんだろーが」

「へ? そんなの初めて聞いたぞ。ワシは子供の頃、親に買ってもらったお習字セットで書道を始めたが?」

「お習字セットだとぉぉぉぉ!?」


 毅山は吠えた。

 お習字セットという言葉は、毅山にとって禁句である。

 何故なら書道家の息子に生まれた毅山は物心ついた頃から例の修行をさせられ、周りの子供たちがお習字セットでお気楽に字を書いている傍ら、彼はひたすら墨を摩ったり、印を彫ったりしかできなかったのだ。

 おかげで周りからはイジメられた。が、それよりもクラスメイトたちが何の苦労もなく筆を持って字を書いているのが羨ましくて仕方がなかった。

 つまりは完全なトラウマである。

 

「お習字セットでぬくぬく育った奴が書道家とか、ふざけてんじゃねーぞ! 死ぬ前にその腐った根性、俺が一から鍛え直してやる。おい、おっさん、まずは洗いからだ。間違っても蛇口から水を流して洗うんじゃねーぞ。そんなことをしたら水流で毛が傷んじまうからな。盥に水を汲んで、その中で丁寧に丁寧に墨を洗い落としてやるんだ。筆への感謝の念も忘れるな。ありがとうございます、ありがとうございますとお礼を言いながら洗えば、やがて筆にも魂がこもり――」


 毅山の熱血指導が続く。

 雅鳳はここぞとばかりに、とっくの昔に逃げ出していた。

 

 筆勝負とは、何度も言うようにお互いの命を賭けた真剣勝負である。

 が、このご時世に本気で命を賭けようなんて思っているのは毅山ぐらいである。対戦相手は書道界のサラブレッドに勝てば名をあげられるし、負けてもなんだかんだ胡麻化して逃げてしまおうって連中ばかりであった。


 毅山がいつ死ねるのか――それは誰にも分からない。

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