ほんもののことば

季節を調停し、季節の流れを”あるべき姿”に変える力をもつ、セツ。
彼は『季環師』として世界の各地を旅していた。
セツが『季節の声』に呼ばれ、ともに生きる少女クワイヤと訪れたのは『冬の砦』を越えた先にあった小さな町。そこでは季節が失われており、厳しい冬の息吹だけが町中を吹き抜けていくのだった――。

私は本作の筆者、夢見里龍さんの友人です。友人の書いた小説がどんなものかと思い遊びに来ました。彼女は日頃、ことばに対して高い意識をもっています。「うつくしいことばをさがしている」とも言っていました。そしてただ茫洋と探しているだけではなく、彼女は結果を出しています。あの名門電撃小説大賞の最終選考候補者。そのように凜然と輝く実績をおもちなのです。なので私は本作を読むにあたり、どのような言葉が選ばれ、そして並べられているのかというところを楽しみにしていました。

この物語のタグをよく見ていただきたいのですが、「ライトノベル」と「ヘビーノベル」という一見相反するタグがつけられています。これは筆者が意図してつけたものです。まず、本作は間違いなくライトノベルの範囲に含まれるでしょう。中学生や高校生の語彙力であっても、詰まることなく読み進めていくことが可能だからです。丁寧な風景描写。人物の仕草。物語を彩る料理や町の様子。なにより私たちが普段訪れることのできない架空の町、そして人の『こころ』が描かれています。いわゆる、良質なファンタジー作品であります。お世辞抜きで読みやすかった。シーンごとの場景が頭の中にすっと入ってきて、見せ場ではドキドキしながら次のエピソードへと進みました。この「読みやすさ」と「不思議さ」と「異世界感」。この要素をもって、本作は間違いなくライトノベルであると評価することができます。

一方で、筆者は本作を「ヘビーノベル」であるとも定義づけています。ここには筆者の、『ことば』に対する純粋で熱い思いが込められているものと推測しました。白皙・麗美・雪嶺・鎖場・流雪溝・蒸篭・淡彩・霧氷・薬研・貪婪・雪霞・瞞着・雪塊・無辜・憂虞・驕傲・星茨・妖美・隻影・憂懼・玻璃・春宵・本繻子……これらは(筆者の造語が混じっていたらすみませんが)本作において実際に使われた言葉の例です。ほとんどの言葉を、見たことも聞いたこともないのではないでしょうか。私も、知りませんでした。では、なぜ筆者は普段耳にしない言葉を本作において使用したのか。これは『演出』というものです。言葉とは喜びであり、演出でもあるのです。

かつて私は職場の同僚に訊かれたことがあります。「どうして植物の名前を覚えようとするのか」と。もちろん単純に植物が好きだから、ということもあります。しかし小説を書くという点にフォーカスしていえば、演出のために必要だからと私は答えました。物語を突き詰めるとキャラクターに至ります。キャラクターが動いてシナリオができる。物語とは、ここで完結させることもできるのです。しかしただお話を読むだけで、読者は没入感を得ることができるでしょうか。その世界に意識の全てで潜りこむことができるでしょうか。読者のこころの全てを物語と重ね合わせてほしい。そのために必要なことが演出なのです。つまりファンタジー(と括るのは失礼ですね、すみません)をファンタジーたらしめるのは、描写に加えて文章における言葉選びが必要になってきます。夢見里さんはこの分野において、他の作家とは一線を画する武器をもっているのです。つまり本作は『非常に演出能力の高い作品』なのです。その点について、筆者は「ヘビーノベル」と称したのではないかと思います。

まとめると、平易な言葉や丁寧な説明によって読者を引きつけ、そして普段耳にしない魅力的な言葉で読者を物語世界に落としこむのです。本作はそれができている希有な小説です。これは高いレベルの作品においては同じような特徴が見られ、(筆者は他作と比べられることを嫌がるでしょうが)私は本作にジブリの世界を感じました。筆者が世界を「書いている」のではなく「つくっている」のです。このあたりのニュアンスは微妙なところなのでもう少し具体的に述べましょう。たとえばあなたの目の前でセツとクワイヤが話をしているとします。そのときあなたは、話をしている二人だけでなく『二人の向こうに広がる場景』も想像できるのです。ジブリでもそうですよね。登場人物同士が話をしているシーンを思い出すと、そこの風景も一緒に思い出すことができますよね。風景描写パートで場景を想像するのは難くないですが、このように風景描写と切り離された箇所で世界を感じさせるというのには非常に高い技術が必要になります。私はこの技術について、筆者の域に達していません。本レビュータイトル「ほんもののことば」の意味の半分は、この技術力に対してであります。

さて、ここまで「平易なことば」「場感を高めることば」について解説をしてきましたが、ここからはシナリオ上の特性について、ことばと紐付けて書いていきたいと思います。シナリオについて私が純粋に感じたことは、『筆者は落差がお好き』ということです。この物語は一つの課題と一つのクライマックスを設ける構造として描かれているのではありません。随所随所にトラブルと、それに付随する人間のこころが描かれています。セツとクワイヤだけではなく、医者のヨウジュ、宿屋の娘のハルビア、ハルビアに想いを寄せるエンダ、村を統括する老人『長』。また、現在を生きるものだけでなく、現在を紡ぎ出した過去の人間もまたそれぞれの希望と絶望を抱いていたということが描かれています。その希望と絶望の振幅が極めて大きい。これは本作のシナリオの特性であり、おそらくは筆者の好みなのではないかと推測しました。

登場人物たちのこころが大きく揺れ動くのであれば、当然読者である私のこころも同時性をもって揺れ動きます。厳密にいえば、揺れ動く可能性を有しています。その可能性を現実のものにしてくれたのが、先述の「ことばの力」なのです。これが確保されているから、私は物語世界に入り、キャラクターたちと一緒になってこころを動かすことができた。また、豊かな場景描写がシャレードとなって、キャラクターたちのこころを私に伝えてきたのです。すなわち「ことばの力」が、筆者の探している「うつくしいことば」が、誰かを護りたいという気持ちや春を強く希う気持ちを私のこころに届かせてくれたのではないかと思うわけです。こころが物語を動かし、けして飽きのこない緩急を提供してくれる。これはすばらしい作品だと思います。

結びに。本レビュータイトル「ほんもののことば」の、あと半分の意味はなんでしょう。それは、筆者が「ことばの力」を元々有しているわけではなく、ことばが好きで、そして『さがしている』という事実にあてて送らせていただきました。きっと夢見里さんはたくさんの本を読んだ。小説、資料、教科書、絵本……いろんな本を読まれてきたことでしょう。それは彼女が本を愛していたから、ことばを愛していたからでもありますが、やはり彼女はことばを「さがしている」のです。この「さがす」という姿勢に作家として敬意を払い、彼女の至ったことばを「ほんもののことば」と表現させていただいたのです。たしかに技術はある。しかし技術のためだけにさがしているのではない。筆者は、ほんもののことばをさがしているのです。

本作『季節殺し』には、ほんもののことばが書かれています。
どうかあなたのこころにも、ほんもののことばが届きますように。

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