季節という概念を視覚化できたのなら、それはどのようなものだろう。
作中には《季節》がまるで生物のような風体で登場します。
物質化していても、春はまさに春だし冬はまさに冬で。その季節特有のありさまを見せてくれます。
そして思い至ります。確かに私は季節を『見て』いたのに、それを忘れていただけなのだと。
その忘れていた季節を、丁寧に美しく芽吹かせた描写は圧巻です。私はこれほどまでに美しい風景を、まるで見えていなかったように生きてきたのかと思い知ります。
「でもこれはファンタジーのお話だから」と割り切れないのは、そこに描かれる季節の表情があまりに見慣れたものだったから。ファンタジーなのに、読めば脳内で容易に具現化できるというのはとても素晴らしいことです。それだけ作者さまが、日々流れていく風景を見て、嗅いで、聞いて、触って、味わって——事細かに取り込むことができているのだと思います。
常々、小説というものは読者の人生になんらかの影響を与えるものだと思っています。この小説は間違いなく、読んだ人の風景の感じ方を変えてくれるものだと断言できます。
——『季節殺し』。
しかしそれでも、季節は殺される。
それほど美しい《季節》がなぜ殺されたのか。
タイトルのミステリーは導入から終盤まで読者を惹きつけます。
そしてその理由を知ったとき、私は春雷に打たれ胸が焼け落ちました。
それでも、読むのをやめられなかった。この物語の結びを知るのは権利ではなくもはや義務であると直感したから。
美しい描写、入り組んだミステリー、深いファンタジー世界、個性的なキャラクター。それらをきれいにまとめあげる技量。
書籍化していてもおかしくない……いえ、書籍化していないことがおかしいと思える作品です。
最近の流行りの作品には飽きたけれど書籍化作品レベルのものを読みたいとお考えの方、この作品こそがまさにそれです。お薦めします。
そして読書好きな人にも強くお薦めします。
「いや、読書好きってカクヨムユーザー全員じゃあないか!」と思った方、間違いではありません。この場を借りて全ユーザーに強くお薦めいたします。
季節を調停し、季節の流れを”あるべき姿”に変える力をもつ、セツ。
彼は『季環師』として世界の各地を旅していた。
セツが『季節の声』に呼ばれ、ともに生きる少女クワイヤと訪れたのは『冬の砦』を越えた先にあった小さな町。そこでは季節が失われており、厳しい冬の息吹だけが町中を吹き抜けていくのだった――。
私は本作の筆者、夢見里龍さんの友人です。友人の書いた小説がどんなものかと思い遊びに来ました。彼女は日頃、ことばに対して高い意識をもっています。「うつくしいことばをさがしている」とも言っていました。そしてただ茫洋と探しているだけではなく、彼女は結果を出しています。あの名門電撃小説大賞の最終選考候補者。そのように凜然と輝く実績をおもちなのです。なので私は本作を読むにあたり、どのような言葉が選ばれ、そして並べられているのかというところを楽しみにしていました。
この物語のタグをよく見ていただきたいのですが、「ライトノベル」と「ヘビーノベル」という一見相反するタグがつけられています。これは筆者が意図してつけたものです。まず、本作は間違いなくライトノベルの範囲に含まれるでしょう。中学生や高校生の語彙力であっても、詰まることなく読み進めていくことが可能だからです。丁寧な風景描写。人物の仕草。物語を彩る料理や町の様子。なにより私たちが普段訪れることのできない架空の町、そして人の『こころ』が描かれています。いわゆる、良質なファンタジー作品であります。お世辞抜きで読みやすかった。シーンごとの場景が頭の中にすっと入ってきて、見せ場ではドキドキしながら次のエピソードへと進みました。この「読みやすさ」と「不思議さ」と「異世界感」。この要素をもって、本作は間違いなくライトノベルであると評価することができます。
一方で、筆者は本作を「ヘビーノベル」であるとも定義づけています。ここには筆者の、『ことば』に対する純粋で熱い思いが込められているものと推測しました。白皙・麗美・雪嶺・鎖場・流雪溝・蒸篭・淡彩・霧氷・薬研・貪婪・雪霞・瞞着・雪塊・無辜・憂虞・驕傲・星茨・妖美・隻影・憂懼・玻璃・春宵・本繻子……これらは(筆者の造語が混じっていたらすみませんが)本作において実際に使われた言葉の例です。ほとんどの言葉を、見たことも聞いたこともないのではないでしょうか。私も、知りませんでした。では、なぜ筆者は普段耳にしない言葉を本作において使用したのか。これは『演出』というものです。言葉とは喜びであり、演出でもあるのです。
かつて私は職場の同僚に訊かれたことがあります。「どうして植物の名前を覚えようとするのか」と。もちろん単純に植物が好きだから、ということもあります。しかし小説を書くという点にフォーカスしていえば、演出のために必要だからと私は答えました。物語を突き詰めるとキャラクターに至ります。キャラクターが動いてシナリオができる。物語とは、ここで完結させることもできるのです。しかしただお話を読むだけで、読者は没入感を得ることができるでしょうか。その世界に意識の全てで潜りこむことができるでしょうか。読者のこころの全てを物語と重ね合わせてほしい。そのために必要なことが演出なのです。つまりファンタジー(と括るのは失礼ですね、すみません)をファンタジーたらしめるのは、描写に加えて文章における言葉選びが必要になってきます。夢見里さんはこの分野において、他の作家とは一線を画する武器をもっているのです。つまり本作は『非常に演出能力の高い作品』なのです。その点について、筆者は「ヘビーノベル」と称したのではないかと思います。
まとめると、平易な言葉や丁寧な説明によって読者を引きつけ、そして普段耳にしない魅力的な言葉で読者を物語世界に落としこむのです。本作はそれができている希有な小説です。これは高いレベルの作品においては同じような特徴が見られ、(筆者は他作と比べられることを嫌がるでしょうが)私は本作にジブリの世界を感じました。筆者が世界を「書いている」のではなく「つくっている」のです。このあたりのニュアンスは微妙なところなのでもう少し具体的に述べましょう。たとえばあなたの目の前でセツとクワイヤが話をしているとします。そのときあなたは、話をしている二人だけでなく『二人の向こうに広がる場景』も想像できるのです。ジブリでもそうですよね。登場人物同士が話をしているシーンを思い出すと、そこの風景も一緒に思い出すことができますよね。風景描写パートで場景を想像するのは難くないですが、このように風景描写と切り離された箇所で世界を感じさせるというのには非常に高い技術が必要になります。私はこの技術について、筆者の域に達していません。本レビュータイトル「ほんもののことば」の意味の半分は、この技術力に対してであります。
さて、ここまで「平易なことば」「場感を高めることば」について解説をしてきましたが、ここからはシナリオ上の特性について、ことばと紐付けて書いていきたいと思います。シナリオについて私が純粋に感じたことは、『筆者は落差がお好き』ということです。この物語は一つの課題と一つのクライマックスを設ける構造として描かれているのではありません。随所随所にトラブルと、それに付随する人間のこころが描かれています。セツとクワイヤだけではなく、医者のヨウジュ、宿屋の娘のハルビア、ハルビアに想いを寄せるエンダ、村を統括する老人『長』。また、現在を生きるものだけでなく、現在を紡ぎ出した過去の人間もまたそれぞれの希望と絶望を抱いていたということが描かれています。その希望と絶望の振幅が極めて大きい。これは本作のシナリオの特性であり、おそらくは筆者の好みなのではないかと推測しました。
登場人物たちのこころが大きく揺れ動くのであれば、当然読者である私のこころも同時性をもって揺れ動きます。厳密にいえば、揺れ動く可能性を有しています。その可能性を現実のものにしてくれたのが、先述の「ことばの力」なのです。これが確保されているから、私は物語世界に入り、キャラクターたちと一緒になってこころを動かすことができた。また、豊かな場景描写がシャレードとなって、キャラクターたちのこころを私に伝えてきたのです。すなわち「ことばの力」が、筆者の探している「うつくしいことば」が、誰かを護りたいという気持ちや春を強く希う気持ちを私のこころに届かせてくれたのではないかと思うわけです。こころが物語を動かし、けして飽きのこない緩急を提供してくれる。これはすばらしい作品だと思います。
結びに。本レビュータイトル「ほんもののことば」の、あと半分の意味はなんでしょう。それは、筆者が「ことばの力」を元々有しているわけではなく、ことばが好きで、そして『さがしている』という事実にあてて送らせていただきました。きっと夢見里さんはたくさんの本を読んだ。小説、資料、教科書、絵本……いろんな本を読まれてきたことでしょう。それは彼女が本を愛していたから、ことばを愛していたからでもありますが、やはり彼女はことばを「さがしている」のです。この「さがす」という姿勢に作家として敬意を払い、彼女の至ったことばを「ほんもののことば」と表現させていただいたのです。たしかに技術はある。しかし技術のためだけにさがしているのではない。筆者は、ほんもののことばをさがしているのです。
本作『季節殺し』には、ほんもののことばが書かれています。
どうかあなたのこころにも、ほんもののことばが届きますように。
冬に閉ざされた街の中で紡がれる、春を巡るお話。
幻想という概念をそのまま紡いだかのような筆致は、感覚鈍る冬の冷たさや、命巡る温かい春の風をありありと感じさせます。
独創的な世界観は、作者様が表現したい幻想を余すことなく、かつ独特に表現しきっています。
際立った季節という概念を生かす殺すという、普通であれば思いつかない壮大な設定。
それを書き切る高い描写力。描かれるキャラクターたちと、愛という強い感情。
すべてを美しくまとめ上げる夢見里様の描写技術や構成力に感嘆するばかり。
ほんの少しのつもりが、つい夢中になって読み進めていました。
美しいものや幻想譚を愛する方であれば、是非とも一度読んでいただきたい作品です。
麗らかな春、力強い夏、色づく秋、凍てつく冬ーー。
私たちの世界にも当たり前のように存在する『季節』を巡る物語。
舞台は、『春』が死に絶え長きにわたり『冬』に閉ざされた街。そこへ、美しい少女を連れた不思議な旅人が訪れる。彼によって徐々に暴かれてゆく、『冬』に閉ざされた街の壮絶な過去。そして、『季節殺し』とはーー。
大変美しい物語でした。長きにわたる冬の中で、独自の暮らしを構築している人々のたくましさ、春を願う心優しき少女、街を守ろうとした人々の決意、季節を愛し愛される旅人、そして、生きた『季節』たち。その全てが美しく、儚げで、とても心を打たれました。
美しい文章や物語、幻想的な物語がお好きな方に、ぜひご一読を勧めたい作品です。
細かい小道具や、料理、農作物、家の構造にその土地の歴史とそこから派生した習慣や思想、そしてそこに棲まう人々。
この物語の世界観には、まるで筆者の夢見里 龍さんがまるで実際にその世界を長い年月をかけて観測してきたかのような説得力があります。
情景描写の精細さもその強い説得力に一役買っています。
吹き込む空気の甲高い音。慈悲も悪意もなくただ降り積もる雪の持つ力。そして黄金色の陽光と、それを受けた者の表情。
瞼を閉じればありありとその情景が思い浮かぶような文章は、それだけでほぅと息を漏らしてしまいそうなほどに耽美です。
時計の針が何周もし、陽が何度も沈んでは昇り、人の世では改革が続き、足は幾度も踏み出され、季節は巡り続けた。それ程の長い長い時間の一部の物語が、この季節殺しであると感じます。
この物語は幻想譚であり、とある世界の歴史書でもあり、その世界を観測した者の日記でもあります。それはファンタジーと呼ぶにはあまりにも濃密な在り方で、だからこそこの作品は至上のファンタジーたりえる。
ファンタジーとはこうでありたい。心底そう思える作品でした。
常世の冬に守られた町。
その町の住人たちは《春》を知らなかった。
ただ、そんな中でハルビアだけはまだ見ぬ春に恋い焦がれていた。
そこへやって来たのは季環師の青年と妖精と見紛う美しき少女。
青年は言います。雪深い町を前に、今の季節は《春》だと。
自分は留まり続ける季節を巡らせるためにやって来たのだと。
しかし、《春》を見たいと望む少女の願いを知りながら、村長たちは余計なことはするなと秘密裏に動き出します。
何故町は冬に閉ざされたのか。《春》を殺したのは誰なのか。
物語はその秘密を探る物語。
その世界を綴る文章は、雪国特有の冷たさを伝えて来ます。痛いほどの冷たさ。その中で身に染みる建物の中の暖かさ。雪原の様子。冬の森。吐く息は白く世界は煌めく。
物語がクライマックスを迎える中での《春》が一時蘇ったときの描写など、冷たく痛い空気が溶かされ、温かく花の匂いが香る風が頬を撫でるかのような錯覚を覚えるほどに美しいです。
本当に、絵心があったなら、是非にも絵にしたい描写の数々が読み進めた読者の目に飛び込んで来るはず!
誰が悪いわけではなく。誰もが誰かを守るために立ち上がり決行した末に訪れた未来。変わることを拒絶した世界で、たった一人の《春》を待ち望んだ少女の願いが叶う様を、是非一緒に見守って下さい。
「季節を殺す」とはどういうことだろう……?
執筆をなさっているときからずっと気になっておりました。
そして読み始めると期待以上にこの世界に引き込まれました。
季節の循環を生業とする者が、春を封じ冬に閉ざされ続ける町を訪れる……。
不思議な設定であるのに、そこに息づく人々が確かにいると感じられる描写は、すんなりと読む人を物語りの中へ誘うでしょう。
《冬》の町に住む人々は助け合い、つましく暮らしています。想像できる風景は西洋風であるのに、どこか日本の雪国のような趣も感じました。
この物語における季節のありようには、厳かで慈愛に満ち、胸を打たれます。最初は神のような存在かと想像していたのですが、そう喩えるにはあまりに清らかで純粋なものでした。生き物の形をしていても、決してわたしたちの知る生き物なのではない、美しすぎて恐ろしいと感じるほどでした。
対して「季節殺し」の真実が詳らかになるにつれ、浮き彫りになる人の業、愛故の罪は生々しく痛ましい。
そして季環師であるセツは、人でありながら人であることを手放したような存在に見え、妖精のようなクワイヤはときにセツよりも人のように豊かに感情を表すところが興味深かったです。
大人のための幻想譚でもあり、自然の厳しさと美しさや人としてのあり方を問う童話のようでもあります。
春が待ち遠しいこの季節に読むと、一層この物語に愛着を覚えます。
いつか、ここには描かれていない季節の物語も読んでみたいです。
これは季節の調停者である季環師の物語。この物語の中で、季節は生き物であり、殺されたり、生まれたりする者なのだ。それは単なる季節の擬人化ではなく、本当に人間のような存在として、物語に登場する。ハイファンタジーというと、ヨーロッパ風だったり、中華風だったり、ウェスタン風だったりするが、この物語はずっと《冬》の町だ。これだけでも、今までになかったファンタジー作品であることは、言うまでもない。
季環師のセツが訪れたのは、長い間《冬》が留まる雪の町。ここには《春》が訪れるはずなのに、もう何十年も《冬》がいる。雪国の暮らしぶりが見事に描写され、冬の世界観に圧倒される。温泉を利用した流雪溝や、樹氷の表現などがリアルで、そこに住む人々の生活が感じられる。雪国特有の閉鎖的な人々の様子や、頑なな人々の心までもが、上手く表現されていて、驚いた。そこに巧く「冬患い」や「春の祟り」など、この物語の鍵となる表現が織り込まれている。
そして季環師のセツには相棒と呼ぶべき《光季の姫》がいる。空を駆け、セツを助け、まるで妖精のような美しい少女だ。しかしこの《姫》は他の《季節》たちが敵わないほど、強いのだ。
さらに、キーパーソンとなるのは、冬の町で唯一よそ者のセツに優しく、春を待ち焦がれる娘・ハルビアだ。このハルビアの家系が春に祟られているとされている。そして、ハルビアを取り巻く人々が、セツと接点を持ちながら、物語は進んでいく。マレビト的なセツとパラドクス的存在のハルビア。
果たしてセツは季環師として、人々を《冬》から解放し、《春》を呼ぶことが出来るのか?
異世界ファンタジーやハイファンタジーが苦手な方、飽きてしまった方にもお勧めの一作です。
是非、ご一読ください‼