恋心

月も、半ばを過ぎた頃のこと。

校庭に生い茂る木々から絶え間なく響く蝉の声を聞きながら、私は校門へと繋がる道を歩いていた。

放課後だけど、今日も一目散に教室を飛び出した私の周りには、まだ誰もいない。

夏の空は夕方でも澄み渡るように青く、ねっとりとした暑い外気に、肌はじんわりと汗ばむ。

ふと、地面を踏み込んだ私のローファーの足元に、黒い影が差す。

先程から徐々に近づいていた、カラカラという自転車の音を、すぐ真後ろに感じた。

振り返ると、彼がいた。

白い半袖のワイシャツに、紺色のネクタイ。

一番上のボタンだけが、外されている。

ピタリ、彼が足を止め、黒い瞳が私を捉える。それが、いつしか合図になっていた。

後ろに乗って、という合図。

私は彼の自転車の後ろに跨がり、サドルを掴む。

彼はちらりとだけ私の様子を確認してから、いつものようにゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。

汗ばんだ肌を撫でる風の感触が、心地よい。

目の前で力強く動く、大きな背中。

自転車に乗る私達の両側をぐんぐんと流れる、見慣れたいつもの景色。


この時間が、日のうちで一番好き。

私はもう、確信していた。

私は彼と過ごすささやかなこの時間を、いつも待ちわびていて。

彼のことが、中田くんのことが ─ 好き。

はっきりした理由なんて、わからない。

ただ無口で、見透かされそうなほどに深い黒い瞳をしていて。

そして時々、普段の彼からは考えられないほど優しい笑顔を見せてくれる中田くんのことが。

たまらなく、好きになっていた。

付き合いたいとか、どうこうしたいとか、そんなんじゃない。

ただこの時間を一緒に過ごせれば、それでいい。

だけど ─ 。

『あいつは、誰にも何にも興味を示さないから』

いつも頭を過るのは、中田くんのことを語った時のコウ先輩の声。

そうなんだ。中田くんには確かに、どこか遠くに常に目を向けている雰囲気がある。

一緒に自転車に乗っている今でさえ、まるで別々の場所にいるような。

それを感じた途端に、胸がキュンと締め付けられた。

そして無意識のうちに、その背に顔を預けていた。

彼の温もりをおでこに感じながら、そっと問い掛ける。

「中田くんの目には、何が映っているの」


すると、中田くんの背中がびくっと反応し、自転車があっという間に急停止した。

あまりに急だったから体が大きく揺れ、思わず中田くんの腰にしがみつく。

中田くんは、耳元のイヤホンを外しながらゆっくりと振り返り、じっと私を見つめて来た。

顔があまりにも近くて、私は慌てて体を離す。

「何か言った」

「ええと、あの……」

そんな、イヤホンをしていた中田くんに聞こえてるなんて思わなかった

赤く染まった顔を伏せ、懸命に言い訳を考える。

「今日はどんな曲聴いてるのかなあ、と思って……」

「ああ」

そんなことか、といった顔で中田くんは手を伸ばし、私の耳にイヤホンを着けた。

サラリ、髪の毛を避けた中田くんの指先が肌に一瞬触れ、その部分が一気に熱を持つ。

「今はビートルズ。《悲しみはぶっとばせ》って曲だよ」

中田くんはそう言うと、私の胸ポケットに携帯オーディオプレイヤーをヒョイと入れた。

耳からは、既にギターの音色がジャカジャカと響いている。

「ビートルズの中ではちょっと異質な曲だけど、何度聴いても飽きないんだ」

そして中田くんは、また綺麗に笑った。

その笑顔に、私の胸はうるさく騒ぎ出す。

そんな私の動揺には全く気づく様子もなく、中田くんは再び前を向いて自転車を漕ぎ始めた。

それは、ビートルズ好きの父が以前聴かせてくれたことのある曲だった。歌のタイトルまでは、知らなかったけど。

スローなテンポの落ち着いたメロディー、時々聞こえる力強い声、突如現れる笛の音色。

リピート再生しているんだろう、終わっても、また何度も何度も繰り返された。

そういえば、以前にもこうやってビートルズを聴かせてもらったことがあったっけ。


「中田くん、ビートルズ好きだよね」

「うん。生まれて初めて聴いたロックも、ビートルズだった」

背中越しに聞こえる、中田くんの声。

「初めて兄貴に、ビートルズの古いレコードを聴かせられた時、頭がカチ割られたみたいな衝撃を受けたんだ。《ア・ハード・デイズ・ナイト》。壊れるからもう聴くなって兄貴に怒られるくらい、夢中になって何度も聴いた」

「そうなんだ」

中田くんがそうやってすすんで自分の話をしてくれたのは初めてのことで、驚くと同時に嬉しくて顔がほころんだ。

「中田くんは、本当に音楽が好きなんだね」

そう、中田くんにはロックに関する知識が驚くほどある。

毎日、CDショップや中古のレコード屋に行ってるみたい。

多分家でも、ずっと聴いているんだと思う。

歩道沿いに植えられた木々の横を、私達を乗せた自転車はぐんぐんと突き進む。

流れるように移り変わる、青々とした緑の景色。

耳元で鳴り続ける、《悲しみはぶっとばせ》。

「中田くんも、コウ先輩みたいにバンドやったりしない

の」

そう聞いたところで、自転車が急に止まった。いつの間にか、駅に着いたみたい。

中田くんといるとあっという間に時間が過ぎているから、いつも驚いてしまう。

寂しい気持ちになりながらも、荷台から降りようと地面に足を伸ばした。

そして完全に地面に降り立った時、中田くんが私を振り返ってじっと見ていることに気づいた。


「ハヤタに、誘われてるんだ」

「え」

「バンドしないか、って」

“ハヤタ”っていうのはあの派手な木村くんのことで。

ああ、そうか。

木村くんがよく中田くんに会いに来るのは、バンドに誘ってるからなんだ

「そうだったんだね バンド、しないの」

「迷ってる」

「どうして」

「俺、馬鹿だから。上手くやれる自信がない」

中田くんは、その真っ黒な瞳で真っ直ぐに私を見つめた。

額に、汗が滲んでいる。

すぐ近くの街路樹でけたたましく蝉が鳴き、駅の中から電車の発着を知らせるメロディーが微かに流れて来た。

「そんな、」

喉から、自然と声が出る。

「中田くんは、馬鹿なんかじゃない」

「そうかな」

中田くんは一瞬だけ睫毛を伏せ、瞳に影を落とした。

そして再び、鋭い眼差しで私を見る。

その些細な仕草に、胸がぎゅっと痛くなった。

以前コウ先輩は、子供の頃から他の子と様子の違った中田くんは、いじめられたり、お父さんに受け入れてもらえなかったりした、って言ってた。

飄々としているように見えても、中田くんは本当はずっと、周りの自分に対する評価を肌で感じて来たんじゃないだろうか。

「うん。それに、中田くんには他の人にはない良さがあって、すごく……素敵だと思う」

言いながら、顔がみるみる紅潮してしまう。

だけど真意が伝わるように、私は中田くんから目を逸らさずに精一杯の気持ちを込めて言葉を続けた。

「もし中田くんが本当はバンドをやりたいなら、やった方がいいと思う。きっと中田くんにしか出来ない、すごいバンドが出来ると思うよ」

中田くんの目を見つめ、微笑む。

中田くんは少しだけ笑って、

「うん」

と静かに答えた。

「最高のギター弾きが、いたんだ」

「え」

「偉大でもないし、有名でもない。だけど、いつも幸せそうに歌ってた。俺はその人を、この世の何よりも綺麗だと思った」

「そう」

「その時思ったんだ。俺もあんな風に、いつか自由に歌えるようになりたい、って」

そう言い終えると中田くんは口の端を緩め、またあの綺麗な笑顔を見せてくれた。

それから前に向き直り、さよならも告げずに再び自転車を漕ぎ始める。

「いつもありがとう」

既に少しだけ先へと行ってしまった背中にそう声を掛けると、中田くんは後ろを向いたまま軽く手を上げた。

真夏の日差しに照らされたアスファルトの地面から、ゆらゆらと湯気のような熱気が立ち上っている。

中田くんの白い背中はその中を進み、あっという間に歩道の先へと消えて行った。


その夜もバイトを終え、私は電車に揺られていた。

闇にすっかり包まれた街を窓からぼんやりと眺めていた時、鞄の中でスマホが震え出した。

取り出してみれば、それはコウ先輩からのメールだった。

最近はバンド活動が忙しいみたいで、コウ先輩がバイト後の私を待ち伏せしていることはあまりない。

ツアーで他県に行っているらしく、ここ数日は学校も休んでいる。

だけどそんな日が続いても、先輩は毎日この時間、必ずメールをくれた。

【アゲハちゃんお疲れ 今日のリキはどうだった】

いつも、こんな内容。

私はいつものように、何も問題なかったことを伝えた。

液晶をタッチしながらも頭を過るのは、バイト前に見た中田くんの姿だった。

『いつか自由に歌えるようになりたい』

そう言って白い歯を見せて笑った中田くんは、夏の光の中で、眩しいくらいに輝いていた。

返信し終えてからふと顔を上げると、窓ガラスに映る青白い自分の顔が目に入った。

最近また、少し痩せた気がする。

このところ家に帰る度に、台所の流しに並んだ空のお酒のボトルが増えている。

誰もが認める美人だった母は、ここ数ヶ月でぐんと白髪が増え痩せ細り、年前とは随分変わってしまった。

正直、帰るのが怖い。


家に着いたのは、深夜の時前だった。

玄関のドアを開けた瞬間に、妙な胸騒ぎを感じた。

見た目は何も変わらないんだけど、何だかいつもとは家の雰囲気が違う。

母が一人酔っぱらっている、いつもの我が家じゃない。

一歩足を踏み入れ、玄関に脱ぎ捨てられた見たことのない男物の靴を見て、体がゾクリとした。

廊下の先に見える、リビングへと続くドアの磨りガラスにはぼんやりと明かりが灯り、ガサガサという物音が微かに漏れている。

恐る恐るゆっくりとそちらに近づき深く息を吸ってから、思い切ってドアを開けた。

開けてすぐに、リビングの隅にいる白いポロシャツ姿の男の後ろ姿が目に入った。

男はしゃがみ込み、段ボール箱に物を詰めている。

見れば部屋中が段ボール箱だらけで、棚の中がすっかり空っぽになっていた。

「誰……ですか」

蚊の鳴くような、情けない声が出た。

空き巣、ではないと思う。空き巣なら、こんなに堂々と段ボールに物を詰めたりしないだろう。

それなら、この人は誰

そして母は、何処にいるんだろう。

男が、ゆっくりと後ろを振り返った。

見たことのない中年の男だった。40代後半、といったところか。

色黒でべったりとした黒髪、額には深い皺が刻まれている。

男は立ち上がり口を真一文字に結ぶと、険しい表情で私を上から下までyと眺めた。

それから口角を上げ、ふっと嘲笑的な笑みを浮かべる。

「娘か。憎たらしいくらい、あの男に似ているな」

「誰ですか……あなた」

「お前の伯父だよ。ヨウコの兄だ」

平然と、男は答えた。

“ヨウコ”というのは、私の母のことだ。

母に兄がいたなんて初耳で、驚かずにはいられなかった。

というより考えてみれば、母方の親戚には一切会ったことがない。

「おじ……」

目を丸くする私に、伯父は数歩近づいた。

その目は冷ややかで、心底私を見下しているのが見て取れる。

「ああ、ヨウコは勘当されてたから、俺のことも知らされてないのか。ヨウコはあのミュージシャンかぶれの男との間にお前が出来て、家を追い出されたからな。こんなことになるのがわかっていたから、俺も親父も反対したんだ」

伯父の目は、憎しみで満ち溢れていた。

まるで私を通して、私に似ている父を睨んでいるかのように。

初めて知る母と父の結婚のいきさつに驚きつつも、その目が怖くて、私は凍り付いたように動けないでいた。

「……お母さんは」

震えながらすがるように辺りを見回しても、母のいる気配はない。

見えるのは、リビングのあちこちに散乱した生活用品と、段ボール箱の山だけ。

「ヨウコは、入院したよ」

「 ─ 入院」

「アルコール依存症でな。仕事先でぶっ倒れたらしく、俺のところに連絡が入った。かなり重度だ」

「アルコール依存症……」

膝が、微かに震えた。

四六時中、お酒の臭いがしていた母。

飲み過ぎだとは思っていたけど、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。

「そんな、大丈夫なんですか…… 母は、何処の病院にいるんですか」

「お前に教えるつもりはない」

「どうして 娘なのに……」

「ヨウコの面倒は、これから俺が見るからだ」

伯父はつかつかと歩み寄り、私のすぐ近くに仁王立ちになった。

物凄い威圧感に、何も言い返せない。

「あの男、借金残して逃げたんだってな。原因は、金と女らしいぞ」

「……」

「しかも相当な額の借金だ。ヨウコは借金返すために働き詰めだったんだってな、かわいそうに。俺のかわいい妹をあんな鶏ガラみたいな体にしやがって」

そう忌々しく言い放った伯父の口振りに、兄妹の情を超えたものを感じ、気味が悪くなる。

「だが、このマンションを売れば何とかなる。まだローンは残っているが、地価が値上がりしてて良い値で売れるみたいだ。良かったな、ヨウコはもう苦労せずに、静かに療養すればいいわけだ」

「そうなんですか」

それを聞いた途端に恐怖を忘れ、心からホッとした。

そうなんだ、マンションが売れるんだ

「それですぐにでもここを欲しがってる人がいるらしいから、日のうちに退去だってよ」

「日……」

それは、いくら何でも急過ぎじゃないだろうか。

だから伯父は、勝手にこうやって荷物を片付けているんだろうか。

それにしても、何処に引っ越すというのだろう。


「そして今すぐお前はここを出て、もう二度と俺の前に現れるな」

「 ─ え」

「わからないか 俺はお前が心底憎い。ヨウコはお前のせいで、あの男と結婚するはめになったんだ。お前が生まれて来たせいで」

ジロリ。


私を鋭く睨む伯父の充血した瞳には、その冷たい言葉の響き通り深い憎しみが籠もっていた。

「子供が出来たって聞いた時、腹を蹴ってやったのに、どうして死ななかったんだ」

鬼のような形相の伯父は、本当に今にも私を殺してしまいそうだった。

体中が、総毛立つ。

恐怖から、足が勝手にじりじりと後退していた。

「女なんだから、体でも売れば生きて行けるだろ。ヨウコには家出したとでも言っておく。だから今すぐ、ここを出て行け」

信じられないほど、冷たい物言いだった。

この身が深く深く、まるで地の底にまで落ちて行くような感覚に陥る。

親戚だなんて、思えない。

優しい母の兄だなんて、思えない。

気がつけば、震える身を翻してマンションを飛び出していた。

夜の闇の中を、ひたすらに駆け抜ける。

聞こえるのは、自分の荒い息遣いと足音だけ。とめどなく、涙が頬を伝う。

いっそこのまま、闇に溶けて消えてしまえればいいのに。

消えて何も考えることが出来なくなれば、このズタズタな苦しみを味わわなくてすむのに。

真夜中の道路をぼろ雑巾みたいにヨタヨタと歩き続け、辿り着いたのは公園だった。

大型遊具の一角、小さな家のような屋根のある場所に潜り込む。

きっと昼には子供達がここで、お店屋さんごっこなどをして遊んでいるんだろう。

どうにかして入り込めた内部はとても狭く、惨めな泣き声は壁に反響し、嫌というほど耳に跳ね返った。

お金もないし、行くところもない。

これからどうしたらいいのか、何もわからない。

ただひたすらに、物言わぬ魔物のような闇に怯え、泣き続けた。

そして私はいつしか泣き疲れ、眠りに落ちていた。


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リキ  ―もう一度、君の声を聴かせて―/ユニモン 魔法のiらんど文庫/カクヨム運営公式 @kakuyomu_official

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