白い背中

その後、コウ先輩は私をバイクの後ろに乗せて家まで送ってくれた。

マンションの入り口付近で、バイクに乗り去って行く彼の後ろ姿を見送る。

さっきのコウ先輩の様子が、ずっと引っ掛かっていた。

“サリエリ”の話をした時の、どこか暗い表情のコウ先輩。

モーツァルトが天才なら、彼だって天才だろう。

才能があって、見た目もよくて、人望が厚くて。

そんなコウ先輩が、何であんな話をしたのかさっぱりわからない。

家に着いた時にはもう深夜の時を過ぎていたけど、リビングからはまだ明るい光が漏れていた。

案の定リビングのドアを開けると、母がダイニングテーブルに突っ伏して眠っていた。

テーブルの上には、空いた酒瓶やビールの缶がたくさん転がっている。

「お母さん、ベッドで寝ないと風邪ひくよ」

そう声を掛けたけど、母からは荒い寝息が聞こえるばかりだった。

酒瓶に手を掛けたままの手首が、痛々しいくらいに細くて見ていられなくて、私は思わず顔を逸らした。


翌日の放課後。

いつものように、私はいち早く教室を飛び出した。

私の方は全く見ようともしない、ユイとエリナ。

最近は「バイバイ」とすら、言ってくれない。

ユイとエリナは二人でいることが多くなっていて、私達の間には、徐々に見えない壁のようなものが出来始めていた。

お弁当はかろうじて一緒に食べてはいるけど、私といる時の二人の会話にも笑顔にも、何処かぎこちなさを感じる。

だけど元々人付き合いが苦手な私には、それをどうやったら修復出来るのかわからなかった。

それに、そんな時間もない。

気になりつつも、私は今日もバイト先に急がなくちゃいけなかった。


靴箱まで来ると、いつものように中田くんが既にいて、上靴からスニーカーに履き替えようとしていた。

私も彼の少し隣にしゃがみ込み、靴を履き替える準備をする。

何か声を掛けなくちゃ、とドキドキしながら考えていると、

「昨日、何であの駅前にいたの 兄貴に会ったんだろ」

中田くんの方から、声を掛けて来た。

「あ、うん。昨日っていうか、毎日いるんだ」

「毎日」

「うん。駅のカフェでバイトしてるの。もう半年くらいになるかな」

ほぼ同時に靴を履き終えた私達は、自然と並ぶように立ち上がった。

「何処のカフェ」

「“エデン”っていうところ。ちょっと古い感じの」

「ああ、噴水の前のとこだろ」

「そうそう、知ってる」

「まあ、いつも通るから」

中田くんの歩調に合わせて校庭を歩く。

校庭をしばらく進むと、突然中田くんは何も言わずに正門とは違う方向に歩き始めた。

中田くんが消えて行ったのは、自転車置き場の方で。

え、まさか中田くん、自転車なの

だって中田くんの家から学校までは、自転車だと時間以上掛かると思う。

校門に差し掛かる頃、そのまさかは現実であることが判明した。

中田くんが、モスグリーンの自転車を押して後ろから歩いて来たから。

携帯オーディオプレイヤーを聴いているみたいで、耳にイヤホンをしている。

ちょうど校門の辺りで、自転車を押す中田くんとばっちり目が合った。

「中田くん、自転車なの」

思わず聞くと、中田くんは顔をしかめてイヤホンを外した。

「何」

「自転車で来てるの 学校」

「そうだよ」

「遠くない」

「そうでもないよ。俺、電車苦手なんだ」

何てことないといった顔で、中田くんは答えた。

そういえばライブハウスまでも、自転車で来ていたっけ。

あの時は近所なのかなと思ったけど、実際は中田くんの家から随分距離がある。

「藤井さんは、電車」

「そうだよ」

「今日もバイトなの」

「うん、ほぼ毎日あるから」

「そう」

すると中田くんは突然足を止め、遠くの方を見た。

何か考えているようで、私も足を止め彼を見上げる。

中田くんの黒くて短い髪を、太陽が真上からギラギラと照り付けていた。

「駅まで、後ろ乗りなよ」

中田くんは私を見ずにそう言うと、自転車に跨がった。

「え」

驚きのあまり、大きな声を出してしまう。

中田くんは自転車に跨がったまま、私の方はやっぱり一切見ずに言葉を続けた。

「バイト、急ぐんだろ」

「……うん」

「いいから、乗って」

少しだけ、きつい口調。

背を向けているから、見えるのは彼の白いワイシャツの背中だけだった。

中田くんはそれ以上何も言わずに、自転車に乗ったままじっとその場にいる。

私が乗るまで、ずっとそこにいるような気がした。

「……ありがとう」

火照った顔で俯きながらそう答えても、彼は反応一つ示さなかった。


中田くんの自転車の荷台に跨がると、視界は目の前にある大きな背中で覆われた。

中田くんは何も言わずに、自転車を漕ぎ始めた。

徐々にスピードは速くなり、ビュンビュンと風を切る音が鼓膜に響く。

私はサドルの後ろをぎこちなく持ちながら、いつまでも熱の冷める気配のない顔を伏せて、じっとしていた。

『あいつは、誰にも何にも興味を示さないから』

昨日の、コウ先輩の言葉を思い出す。

本当に、そうなんだろうか

中田くんは、少なくとも私を気にしてくれた。

バイトがあるから急いでいる私を気にして、自転車の後ろに乗せてくれた。

中田くんは本当に、コウ先輩が言っているような人なんだろうか。

『ああいう人は生まれつき“人の気持ちがわからない”んだって』

いつかのエリナの声も耳に蘇り、悲しい気持ちになる。

 ─ 本当の彼を、もっと知りたいと思った。

赤信号に変わり、横断歩道の手前で自転車が止まった。

私はふと、気になっていたことを中田くんに聞いてみる。

「中田くん、いつも帰るの早いけど、何か用事があるの」

「大体、タワレコ行ってる」

「タワレコって、駅前の」

「そうだよ」

駅はこの間行ったライブハウスのある大きな駅で、その駅前にあるその巨大なCDショップは、驚くほどの品ぞろえだ。

そういえばさっきも中田くんが、携帯オーディオプレイヤーを聴いていたことを思い出す。今はイヤホンを外してるみたいだけど。

「中田くん、ほんとに音楽好きなんだね。やっぱりコウ先輩の影響」

「うん。きっかけは、兄貴だよ」

「お兄さんと、仲いいんだね」

「うん、まあ」

ぶっきらぼうに答えた中田くんだったけど、ちらりと見えた横顔は微かに微笑んでいた。

信号が青に変わり、辺りの人達が一斉に歩き始めた。

中田くんも、再び自転車を漕ぎ始める。

「どんな音楽聴くの」

「昔のが多いかな」

「昔のって」

「ピストルズにクイーンにザ・フー。クラッシュにそれからビートルズ。他にも色々」

スラスラと中田くんが並べたバンド名は、父から何度かCDを聴かされたことがあるものが殆どで、ぐっと親近感が芽生えた。

特にビートルズは、毎日のように家で流れていたっけ。

懐かしい父との思い出に、少し切ない気持ちになる。

とにかく、中田くんがロック好きなんだということはわかった。

「60年代とか70年代のが多いね」

父からの受け売りで何となくそう呟いてみると、うん、と中田くんの横顔が嬉しそうに笑った。

「ロックが最高に狂ってて、最高に光ってた時代だよ」

中田くんの笑顔を見た途端に、体中が熱くなる。

胸がざわざわとして、居ても立っても居られないような気分だ。

「……中田くんも、ギター弾いたりするの」

キキーッ。

自転車が、悲鳴のような音を鳴らして止まった。

急ブレーキだったから、私の顔は反動で中田くんの背中に埋まってしまう。

「着いたよ」

そう言って私を振り返った中田くんは、いつも通りの無表情だった。

いつの間にか、学校の最寄り駅に着いたみたい。

「あ、ありがとう」

慌てて中田くんの背中から離れ、自転車を降りる。

中田くんは私が降りたのを確認すると、何も言わずにまた自転車を漕ごうとし始めた。

「気をつけてね」

急いでそう言うと、中田くんはチラリと私を見て「うん」とだけ答えた。

暖かい五月の陽気の中、黒い瞳が、ほんの一瞬私を見据える。

そして再び自転車を漕ぎ始めた中田くんは、もう私を振り返ることなく、木漏れ日がアスファルトに網目のような光模様を描く歩道の先へと消えて行った。


その夜、バイトを終え店の外に出ると、噴水の前に黒い人影が見えた。

暗闇に浮かぶそのシルエットは、私に向かって手招きをしている。

夜風に揺れる、薄茶色の髪。まさか、今日もコウ先輩がいるなんて思っていなかったから驚いた。

帰りの電車で、今日の中田くんの様子についてメールしようと思っていたところなんだけど。

戸惑いながらも、コウ先輩の目の前で立ち止まる。

「アゲハちゃん、お疲れ。これ飲みなよ」

コウ先輩は、レモンティーのペットボトルを手渡してくれた。

「ありがとうございます」

申し訳ないけど断るのも悪い気がして、素直にレモンティーを飲むことにする。

「今日のリキは、どうだった」

彼がわざわざ私を待っていたのは、やっぱりそれを聞きたかったからみたい。

私からのメールが待ち切れずにここまで直接聞きに来てしまうほど、中田くんのことが心配なんだろう。

つくづく、弟想いで優しい人だなあ、と思ってしまう。

「はい。いつも通り、ずっと自分の席で勉強してました」

「何か変わったことなかった」

「変わったこと……」

上を向き、今日の中田くんを思い起こしてみる。

「あ、そういえば。木村くんと話してました」

そう、あれは確か午前中の休み時間。

今日もその金色の髪をツンツンに立たせた木村くんが、存在感たっぷりの持ち前のオーラを振り撒きながら、うちのクラスにやって来た。

そして脇目もふらずに中田くんの席まで真っ直ぐに進み、真面目な顔で中田くんに何か話していた。

「中田くんと木村くんって、仲いいですよね」

「ああ、ハヤタね」

コウ先輩は、納得したように頷いた。

「仲いいっていうか、ハヤタはリキ信者だから」

「信者」

意味がわからなくて首を傾げながらコウ先輩を見ると、彼は思いもしなかったほど真剣な眼差しを、じっと暗い地面に向けていた。

やがて私の視線に気づくと、我に返ったように表情を緩め、いつものように微笑む。

そして私の質問には答えずに、

「他には 変わったことはなかった」

と聞いて来た。

変わったことといえば、中田くんが私を自転車の後ろに乗せてくれたことだけど、それは言い出せなかった。

話してしまえば、私の顔は間違いなくゆでだこのように真っ赤になって、きっと変に思われる。

一瞬思い出しただけの今でさえ、もう顔が火照り始めているというのに。

それにコウ先輩は学校での中田くんの様子を知りたいわけだから、そのことは話さなくてもいいと思った。

帰り道の、話だし。

「……ないです」

俯きながらそう答えると、しばらくして「そっか、ありがとう」とコウ先輩は静かに言った。


コウ先輩はそれから、自分のバンドの話をしてくれた。

バンド名の由来や、木村くんのお兄さんであるギターのリョウさんの話。

冗談を交えるタイミングだとか話し方も本当に上手で、私は笑いながらコウ先輩の話に夢中になっていた。

虫の音が、何処からかジーッと響いた。

暖かい風が、いつか嗅いだような夏の匂いを運んで来る。

ふと楽しそうに話していたコウ先輩が口をつぐんで、笑ったままの私をじっと見つめた。

前髪の隙間から見える、綺麗な茶色い瞳。

筋の通った鼻も、形のいい唇も、本当に全てが完璧で非の打ちどころがない。

コウ先輩は真顔でしばらく私を見つめてから、突然すっと片手を伸ばして来た。

頬に触れたその手は、驚くほどひんやりとしていて、思わず体がビクンと反応してしまう。

コウ先輩が何でこんなことするのかさっぱりわからなくて、一瞬躊躇った。

「去年、君を毎日見ていたんだ」

コウ先輩は頬から手を滑らせると、私の肩までの黒髪に指先を絡めた。

「綺麗な子だな、って初めは思った程度だったけど。一生懸命ギターを弾いてる姿がかわいく思えて来て、そしてその透き通るような声に、段々夢中になった」

あの頃の自分を語られるのが恥ずかしくて、私は途端に赤くなる。

こんなにも間近で熱い眼差しを向けられたら、どうしたらいいかわからない。

コウ先輩の指先は、私の髪の毛を優しく摘まむように弄んでいる。それから彼はその毛束に唇を寄せ、そっと口付けした。

妖艶なその姿に、心臓が大きく跳ね上がる。

言葉を失っていると、

「終電」

腕時計を見ながら、コウ先輩はそう口にした。

指から離された髪の毛が、はらり、と元の位置へと戻って行く。

「もうすぐだよ。ごめんね、今日も長々と。今日も送ってっても、俺は全然いいんだけど」

我に返り、慌てて立ち上がる。

今日も送ってもらうだなんて、そんなことは出来ない。

「ごめんなさい、私こそ。ごちそうさまでした」

ぺこりと頭を下げ立ち去ろうとすると、ぐっと手首を掴まれた。

「明日も待ってるから。教えて、リキのこと」

「……はい」

「じゃ、また明日ね」

「はい」

コウ先輩は、いつものように優しく微笑んだ。

それからゆっくりと手を離し、バイバイ、と振ってくれた。

私は再び頭を下げると、駅に向かって走り出した。

改札口の前で振り返ってみると、コウ先輩はまだ噴水の脇に座り、こちらに顔を向けていた。


そして、全く想像もしていなかったことだけど。

中田くんとコウ先輩、二人と関わる日々は、それから毎日のように繰り返された。

放課後、中田くんは毎日私を自転車で、学校の最寄り駅まで送ってくれた。

いつもポツポツと会話を交わす程度だけど、中田くんは時々笑顔を見せてくれるようになった。

それは私が笑っている時だったり、中田くんの携帯オーディオプレイヤーに入っている曲を知ってるって言った時だったり。

普段は鋭く睨むような顔をしている彼の笑顔は、本当に格別で。

中田くんが笑えば、一瞬にして辺りの喧騒が消え景色も遠のき、頭の中がその笑顔でいっぱいになる。

大きな背中も。

低くて男らしい声も。

全てが、たまらなく私をドキドキとさせる。

そしてバイトが終われば、大抵コウ先輩が私を待っていた。

多忙な先輩のことだからいない時もたまにあるけど、そんな日は必ず電話が掛かって来た。


そしていつしか、じめじめとした梅雨の時季が終わり、入道雲が空高く昇る暑い夏が訪れていた。



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