兄と弟
あのライブから日が過ぎ、新しい月曜日を迎えた。
学校に着くと、ざわつく教室内で既に中田くんは自分の席にいて、いつものように教科書を見ていた。
教室ではやっぱり、中田くんとは全く視線が合わない。
一緒にライブに行き、星空を見上げながら二人で話をしたことなんて嘘みたいだった。
昼休み。
日直の私は、課題のプリントを集めて職員室に持って行くよう先生に言われていた。
私の元に皆がプリントを持って来たけど、中田くんのだけが見当たらない。
「あの、中田くん。日本史のプリントが出てないんだけど……」
席の前まで行き、そう声を掛けると、中田くんは顔を上げて私を見た。
今日初めて見る、彼の瞳。
途端に、心臓が小さく音を鳴らす。
「まだ書いてるから、後で自分で先生に持って行く」
中田くんはそれだけ言うと、また顔を伏せた。
課題というのは、この前日本史の授業で見た戦争ものの映画の感想だ。
机の上には今まさにそのプリントがあって、中田くんは鉛筆を片手に頭を捻っている様子だった。
まだ半分も埋まっていない。そしてシャーペンじゃなくて鉛筆を使ってる人を久々に見た。
プリントの上の方に書かれた“中田力”という文字は、筆圧が強く歪んでいて、まるで小学生の字みたいだった。
何だか微笑ましく思いつつ「わかった」と返事をしてから、私は中田くんの席から離れた。
自分の席に戻ると、私達の様子を見ていたらしいエリナが、「中田ってああいうの、いつも遅いよね。鈍臭い男ってウザいよね」
と、トゲトゲしい口調で話し掛けて来た。
「……そうかな」
「だってウザいでしょ。マジ目障りなんだけど」
「でも、エリナには迷惑掛けてないじゃん」
「迷惑だよ。だって、存在がイラつくんだもん。毎回課題出すの遅れるくらいバカなら、学校やめればいいのにって思う」
それを聞いて、私はすごく腹立たしい気分になった。
何も答えずに集めたプリントをそそくさとまとめ、エリナを避けるようにガタンッと勢いよく席を立つ。
唇を噛み締め廊下に向かって歩きながら、中田くんに対してひどいことを言ったエリナに、何も言い返せなかった自分が情けなくて泣きそうだった。
先生の元にプリントを出し終え廊下を歩いていると、背後から「アゲハちゃん」と声を掛けられる。
振り返ると、コウ先輩がにこにこしながら立っていた。
ステージの上で大歓声を浴びながら歌っていた彼が、私と同じ制服を着て同じ学校にいるなんて、不思議な感じがする。
「ライブ、来てくれた」
「はい、行きました。チケット、ありがとうございました」
「どうだった 俺、変じゃなかった」
「変なんて、そんな。すごくかっこよかったです」
私の返事に、コウ先輩は照れたようにはにかんだ。
「良かったら来月のライブも ─ 」
コウ先輩が、そう言い掛けた時。
「コウさん」
何処かで聞いたことのある声が、突然背後から聞こえた。
思わず意識を奪われる印象深いその声に、コウ先輩も口を閉ざす。
振り返った先には、あの金髪ツンツン頭の木村くんがいた。
「ハヤタ、久し振り」
「土曜日のライブ、行きましたよ。相変わらずの人気っすね」
「そうかな。そっちも順調らしいじゃん」
「それが、肝心のボーカルがイマイチで」
こちらへと歩んで来た木村くんと、笑顔で立ち話を始めるコウ先輩。
どうやら、二人は知り合いみたい。
中田くんとも知り合いだし、木村くんって相当顔が広いのかも。
「ボーカル、ね」
ふっと真顔になり、コウ先輩は呟いた。
「前から言おうと思ってたんだけどさ。パンクはもう流行らないよ。時代が終わってる」
すると、途端に木村くんの表情が険しくなった。
「流行りなんて関係ない。やりたいことやるのが、ロックですから」
ふてくされ顔のまま、コウ先輩を睨む木村くん。
会話を聞いていると、どうやら木村くんもバンドをやってるみたい。見た目からして派手だし、すごく納得出来た。
その時、やっと私の存在に気づいたらしい木村くんが目を見開き。
「アゲハちゃんじゃん」
廊下中に、大声を響かせた。
それからコウ先輩を一瞥し、「あれ、何浮気」と意地悪っぽく言った。
彼なりの冗談なんだろう。
わかっているけど、私は少し嫌な気分になる。
木村くんはにっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、コウ先輩に一歩近づくと、
「リキに怒られますよ」
そう言い残し、廊下の先へさっさと行ってしまった。
コウ先輩は立ち止まったまま、眉根を寄せて黙っている。
─ え
ていうか、木村くんの口振りだと、コウ先輩は中田くんと知り合いみたいで。
「リキと、付き合ってるの」
コウ先輩は眉をひそめたまま私を見て、そんなことを聞いて来た。
一気に顔が熱くなり、大げさなくらいに首を振る。
「いや、そんなんじゃないです コウ先輩のライブに中田くんと一緒に行った時に、木村くんにたまたま会って。木村くん、勝手に勘違いしてるみたいで」
コウ先輩は、何で中田くんのこと知ってるんだろう
するとコウ先輩が、今まで聞いたこともないほどに低い声を出した。
「リキと、一緒に行ったの あのライブ」
「……はい」
どうしてだろう。コウ先輩から放たれる空気が一瞬にして重いものに変わった気がして、答えるのが怖かった。
おずおずと返事をした私を、コウ先輩はじっと観察するように見つめていた。
やがて小さな声で「リキと、仲良かったんだね」と呟き、考え込むように更に私をじっと見る。
「あの、」
中田くんと知り合いなんですかって聞こうとした時、
「番号教えて」
突然、コウ先輩はそう言った。
そしてポケットからスマホを取り出し、「あと、アドレスも」と付け加える。
困惑しつつも断る理由がなくて、私は口頭で電話番号とメールアドレスを伝えた。
コウ先輩は、黙って手際よくそれを登録していた。
「リキのことで相談したいことがあるから、また連絡させて」
「中田くんのことで、ですか」
「そう」
不思議な気持ちで黙っていると、コウ先輩は私を見て、合点がいったように「ああ」と呟いた。
「あいつ、弟なんだ。俺の名前知らなかった 中田功っていうんだけど」
全く予想もしていなかった返事に、私はただただ目を丸くした。
えっ 兄弟
それなら、今のコウ先輩の反応には納得が行く。
だけど本当に想像も出来なかったことで、言葉を失ってしまった。
ていうか中田くん、何で教えてくれないの
いくら口下手でも、ライブに誘った時点で、これはお兄さんのバンドだって教えてくれてもいい気がする。
それにしても、こんなに似ていない兄弟は初めて見た。
見た目も、性格も。
驚きのあまり、よほど間抜けな顔をしていたんだろう。
コウ先輩は面白そうに私を見て、目を細めて笑った。
「似てないって思ったでしょ よく言われる。だけど正真正銘、血の繋がった兄弟だから」
そう言われて改めてまじまじとコウ先輩を見てみたけど、何処からどう見てもやっぱり二人は似ていない。
やんわりとした優しい女顔のコウ先輩に対して、中田くんはどちらかというと男っぽい雰囲気の顔立ちで。
スラリとしたコウ先輩に対し、彼よりも背の高い中田くんはひょろ長いイメージだし。
そして社交的なコウ先輩と、いつも一人でいる中田くん。
「それでさっきのツンツン頭、木村隼太っていうんだけど、うちのギターのリョウってやつの弟」
ギターのリョウさんて、あの黒髪に眼鏡の人だ。
それでコウ先輩は、木村くんのことも知っていたんだ。
「そうだったんですか……」
思いもしなかった様々な人の繋がりにひたすら驚いていると、コウ先輩はふっと柔らかい笑みを浮かべて「また、連絡させて」と言った。
そして私の頭にポンと手を乗せてから、廊下の向こうに去って行った。
教室に戻った私は、一人自分の席でお弁当を食べ始めた。
ユイとエリナはもう先に食べ終わったみたいで、はしゃぎながら二人で話をしていた。
ユイが私の前のエリナの席に椅子を引っ張って移動していて、二人とも私に背を向けた状態だから、話に全く入り込めない。
二人はわざと、私が入り込めないようにしているような気がした。
その時、机の上に置いていた私のスマホが音をたてて震え始めた。
「アゲハにメールって、めずらしいね」
ユイが顔だけをこちらに向けて冷ややかな口調でそう言ったけど、友達の少ない私にとってはその通りのことだった。
スマホを見れば、知らないアドレスからメールが届いている。
【今日の放課後空いてる リキのことで話したいことがあるんだ。中田功】
コウ先輩からだ。
中田くんのことで、話したいこと
さっきもそんなことを言っていたから、何なのか気になる。
だけど今日はバイトなので断りのメールをすると、すぐにまた返事が返って来た。
【どこでバイトしてるの】
【駅前のカフェです。】
そこでメールは途切れた。
中途半端な終わり方で、何だかモヤモヤしてしまう。
落ち着かない気持ちでスマホをいじっていると、ふとコウ先輩のメールアドレスが目に入った。
××××-eri@××××××.ne.jp
“エリ”って入っている。彼女の名前だろうか。
あのコウ先輩の彼女なら、芸能人並みにかわいい人に違いない。
後ろを振り返り中田くんを見ると、やっと課題を終えた様子で、プリントを手に席から立ち上がろうとしていた。
先生に出しに行くのだろう。
席を立ち、中田くんを追い掛ける。
「中田くん」
教室の入り口付近で声を掛けると、中田くんはゆっくりと私を振り返った。
「コウ先輩、お兄さんなんでしょ どうして言ってくれなかったの」
咎めるつもりなんて全くなかったけど、気づけばそう声を掛けていた私は、単にユイとエリナの傍を離れ、中田くんと話すきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。
中田くんは、不思議そうに首を傾げた。
「それって、言う必要のあること」
「必要はないけど、普通教えてくれるんじゃ……」
すると、中田くんの顔があからさまに曇った。
「普通って何 俺、そういうのわかんないから」
そう言って、冷たく視線を逸らされる。
怒ってる
怒る理由がさっぱりわからないけど、いつも何を考えているのかわからない中田くんが、めずらしく負の感情を露にしていた。
「え、コウ先輩って中田のお兄さんなの」
その時私達の会話を聞いていたのか、近くにいた女の子達が急に中田くんに話し掛け始めた。
「マジで あ、そっか。名字一緒だもんね」
「うらやましー」
「家ではどんな感じなの コウ先輩」
今まで中田くんに見向きもしなかった女の子達が、我先にと群がる。
中田くんはじっとその子達の顔を見てから、何も答えずに教室を出て行ってしまった。
「何あれ、無愛想。せっかく話し掛けてあげたのに」
「口がきけないんじゃない」
「あいつやっぱ、おかしいよね」
「兄弟で全然違うね」
気分を害した女の子達は、口々に文句を言っていた。
廊下の向こうへと消えて行く、長身の中田くんの背中。
笑い合いはしゃぎ合う生徒達の間を、中田くんだけがひたすらに前へと突き進んでいる。
まるで黒い真っ直ぐな影が、ゆらゆらとした明るい光の中に溶けて行くみたいだった。
バイトが終わったのは、23時過ぎだった。
着替えを終え店の外に出ると、履き古したローファーでコツコツと駅までの道を歩む。
今日の夜空は雲が掛かっていて、星が殆ど見えない。
すると、閑散とした駅の構内の入り口で、壁に背を預けじっとこちらを見ている男の人に気づいた。
茶色くて癖のある、長めの前髪。チェックのシャツにジーパンっていうありがちな格好でも、スタイルがいいからか、不思議とオシャレに見えてしまう。
それは紛れもなくあのコウ先輩で、私は驚いて足を止めた。
「コウ先輩」
「アゲハちゃん、お疲れ」
コウ先輩はいつものようににっこりと笑い、ゆっくりとこちらに近づいて来た。
「どうして、こんなところに……」
「俺んち、ここから歩いて10分くらいなんだ。駅前でバイトしてるってメールくれたでしょ どのカフェかわからないから、ここで待ってた」
「そうなんですか……」
呟きながらも、忙しそうなコウ先輩がわざわざ私を待っていたなんて、信じられずに困惑していた。
そういえば、中田くんのことで話があるって言ってたけど、こうまでして私にそれを伝えたいんだろうか。
コウ先輩は私の前で立ち止まり、駅の方に顔を向けると、
「それにしても、この近くでバイトしてたなんてなあ」
と呟き、駅の入り口の横の柱の辺りを指差した。
「ちょうどあの辺りで、よく弾いてたよね。年くらい前かな。夏辺りに、突然来なくなったけど」
そこはまさに、年前の私が路上ライブをしていた場所だった。
やっぱり、と恥ずかしくなる。
「コウ先輩、見てたんですね」
「うん、毎日のようにね」
毎日って、一体何処にいたんだろう。
まさか本当に、あのグレーのパーカーの彼なんだろうか。
思い切って聞いてみようかと思った時、
「でも」
コウ先輩はふっと息を吐き、空を見上げた。
「本当に、透き通った綺麗な声だった。聴く度に、心が洗われるような気持ちになったよ」
そんなことを言われたら、嬉しいような恥ずかしいような、変な気持ちになる。
それから、希望に満ち溢れていたあの頃を鮮明に思い出して、切なくなった。
私はもう、あの頃のようには歌えないと思うから。
「でも、もうギターはやめたんです」
ポツリと吐き出した言葉。
コウ先輩が、こちらに視線を移したのを感じた。
「ちょっとあそこに座らない」
“何で歌をやめたの”なんて詮索するようなことは聞かずに、コウ先輩はまるで全てをわかっているような大らかな笑みを浮かべ噴水を指し示す。それから、
「何か飲み物買って来る。先座ってて」
そう言い残し、一人自動販売機の方へと歩いて行った。
言われた通りに先に噴水の脇に腰掛けていると、しばらくしてコウ先輩が缶を二つ持って、こちらに歩んで来た。
差し出されたのはアイスレモンティーで、なぜ私の好みがわかったのかと驚く。
「この間、売店の外でレモンティー買ってたから」
コウ先輩は、少し照れ臭そうに言った。
この間 ああ、そうだ、チケット貰った時。
何て細かな気配りが出来る人なんだろう。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、コウ先輩はふわりと優しく笑ってから、私のすぐ横に腰掛けた。
そして小さな音をたてて、手にしたブラックコーヒーのプルトップを開けている。
ブラックコーヒーだなんてさすが大人だなあ、と変なところで感動してしまう。
それから、この間のライブの後、中田くんがオレンジジュースを選んでいたのを思い出し、思わずクスリと笑ってしまった。だって、中田くんにオレンジジュースって、何だか似合わない。
コウ先輩は笑う私を見て、不思議そうな顔をしていた。
「何かおかしい」
「兄弟で好みが全然違うんだな、って思って。中田くん、この間オレンジジュース選んでたんです」
中田くんと過ごしたあの夜のことを思い起こすと、なぜか胸が熱くなる。
「……そのリキのことで、聞いて欲しいことがあるんだ」
すると突然、コウ先輩が改まったように低い声を出した。
その目は暗いアスファルトの地面を見つめていて、いつもとは違いひどく真顔だ。
「アゲハちゃんは、リキを見てどう思う」
「どう、って……」
私は目を瞑り、中田くんの綺麗な黒い瞳を思い浮かべた。
自分でも驚くほど自然に、言葉がスラスラと湧いて来る。
「誰にも何にも染まらなくて自分を貫く、とても強い人」
「そう。アゲハちゃんはあいつのこと、そんな風に思ってくれているんだね。ありがとう」
しばらく私を眺めてから、コウ先輩は再び地面に目線を移した。
そしてポツリ、暗い足元に向かって言葉を溢す。
「でも大抵のやつは、あいつを“おかしい”って言う」
重い沈黙が、闇に沈み込む。
何か言い返したかったけど、中田くんが皆に“おかしい”と思われていることに対して、反論出来ない自分がいた。
「アゲハちゃんさ、変だと思わなかった 俺が毎日年の、アゲハちゃんのクラスを見に行ってるの。あれね、リキを見に行ってるんだ」
「中田くんを……ですか」
コウ先輩は、地面を見つめたまま微かに頷いた。
「あいつ、中学の時に登校拒否したり、暴力事件を起こしたりしたから。またおかしなことをしやしないか心配で、ついつい見に行ってしまうんだ」
「中田くんが、暴力」
驚いて、顔を上げる。
あんなに静かで真面目な中田くんが、暴力を振るうだなんて信じられない。
コウ先輩は一口コーヒーを飲み、空を見上げた。
どんよりと雲の立ち込めた空には、何も見るものはなかったけど。
「あいつ、殆ど喋らないだろ。いつも一人で何か異様っていうか、クラスの他の子と様子が違うよね。子供の頃からずっとそうだったし、決して出来のいい子でもなかった。ほら、学校の勉強に全くついて行けてなくて、本読み当てられても読めなかったり、課題やっても話し合いやっても、いつもクラスから取り残されているような子っていなかった リキは、そういうタイプなんだよ。そして、子供の頃からずっといじめられてた」
中田くんが、いじめに ─ 。
教室の隅に一人座っている中田くんのシルエットが脳裏に浮かび、胸がぎゅっと締め付けられた。
「父さんはすごくプライドの高い人で、そんなリキの存在を露骨に嫌がっていた。殴ったり罵ったり、自分の子供なのに化け物でも見るような目つきで、本当にひどかった。でもその代わり、母さんはリキを溺愛してた。父さんに疎まれているからこそ、余計にリキがかわいかったんだと思う。リキも本当に母さんが好きで、誰にも見せない笑顔を母さんにだけは見せていた。だけどリキが中の時、母さんが死んだんだ」
コウ先輩の声のトーンが、少し下がった。
夜空を見上げたままコウ先輩は長い睫毛を伏せ、一度ゆっくりと瞬きをした。
「それからのあいつは、前以上に自分の殻に閉じ籠もるようになった。学校に行かなくなって日中部屋にいて、いわゆる登校拒否ってやつさ。だけどある日父さんに無理矢理学校に連れて行かれて。そして、暴力事件を起こしたんだ。何があったかは、はっきりしない。相手は全治6ヶ月の傷を負い、リキは実質退学処分になった。学校側としては危険人物であるリキを退学にしたかったんだろうけど、法律上無理だから、要は自主的に学校に来るなってことだよ。そしてすっかり引き籠もりになったリキは、そのまま高校にも行かなかった。それでね、今の学校には年遅れで入学したんだ。リキは今16歳で、もうすぐ17歳になる。アゲハちゃん達より、本当は一つ年上なんだよ」
いつの間にか私は、太ももの上に置いた掌をきつく握り締めていた。
お父さんに愛されなかったり、お母さんを失ったりした中田くんの気持ちを考えたら、自分のことのように胸が苦しくて。
辺りにはもう、ぽつりぽつりとしか人が歩いていなかった。
コウ先輩は道行く人に視線を向けながら、言葉を続けた。
「俺と同じ高校にリキが受かった時、本当に嬉しかった。だけど同時に心配でもあったんだ。危険人物であるあいつがちゃんとやってけるかって。だから気になって、アゲハちゃんのクラスにあいつを見に行っちゃうんだよ。何か問題を起こして、あいつがまた父さんに殴られるのを見るのも辛いしね」
コウ先輩は、困ったように笑った。
弟想いな優しいコウ先輩に、胸が熱くなる。
「でも中田くんは、大人しくて勉強ばかりしてて。そんな、何の問題もないです」
他の生徒達がどんなにはしゃごうと、いつも机にかじりついて静かに教科書を見ている中田くん。
中田くんが“危険人物”だなんて、想像も出来ない。
「成績が良くなかったら父さんに学校をやめさせられると思ってて、今は勉強に必死なんだよ。あいつは頭が良くなくて、自分でもそれをわかってるから。それくらい、今は学校にいられることに執着しているんだ。ただ、何かのきっかけであいつの心の中の積み木が、今にも崩れ落ちそうな不安定な積み木が崩れてしまったら ─ あいつは何をするかわからない。そういうやつなんだ。でね、アゲハちゃんに頼みがある」
コウ先輩は、真剣な眼差しを私に向けた。
「リキの様子を、毎日俺に教えて欲しいんだ。同じクラスのアゲハちゃんの方が、俺よりよっぽどあいつのこと見られるだろ 毎日年のクラスをコソコソ覗きに行ってたらさ、俺、不審人物だと思われそうで」
自嘲気味に笑う、コウ先輩。
「でも、様子ってそんな。中田くんはいつも、すごく真面目で何も伝えることなんか……」
「それならそれでいい。何もなかったってだけでもいいから、教えてくれない」
「電話で、ですか」
「うん。メールでもいいし、何なら直接会ってもいい」
真剣に頼みごとをするコウ先輩を、振り切ることなんて出来なかった。
それに、弟に対してそんなにも必死になれる優しい彼に心奪われた私は、「わかりました」と強く答えた。
「本当に ありがとう」
コウ先輩の顔は、みるみるほころぶ。
「優しいんですね、コウ先輩。中田くんは、こんな素敵なお兄さんがいて幸せですね」
するとコウ先輩は私から目を逸らし、
「そんなこと、あいつはきっと思ってないよ」
目を伏せながら答えた。
「あいつは、誰にも何にも興味を示さないから。俺にだって、他の人にだって。そういうやつなんだ」
辺りにはもう全く人がいなくて、駅前のネオンもいつしか消えていた。
駅から、ガタンガタンと電車の過ぎ去る音が聞こえる。
「ああっ」
嫌な予感がして、私は急いで鞄からスマホを取り出し時間を確認した。いつの間にか、時を過ぎている。
「今の、終電……」
顔が、真っ青になった。
こうなったら、タクシーしかないだろう。家まではけっこう距離があるから、一体いくら掛かるんだろうか。
「終電出たの ごめん」
コウ先輩は、慌てたように立ち上がった。
「俺が、待ち伏せなんてしてたから。良かったらバイクで送ってくから、家に来なよ」
「え ─ 」
それは、さすがに申し訳ない。でもタクシー代なんてお財布にはないし、今はコウ先輩に頼るしかなくて。
「ごめんなさい、お願いします……」
「いや、俺のせいだし遠慮なんてしないで」
頭を下げた私に、コウ先輩はまた朗らかな笑みを見せてくれた。
駅からコウ先輩と並んで歩いている間中、私はずっと中田くんのことを考えていた。
『普通って何 俺、そういうのわかんないから』
昼間の中田くんの言葉が、心に蘇る。
あの時はどうして中田くんが怒ったのかさっぱりわからなかったけど、今ならわかる気がした。
きっと中田くんは、子供の時から厳しいお父さんに、普通、普通、ってしつこいくらい言われて来たんじゃないだろうか。
普通はこうだろ、とか、普通はそんな風にしない、とか。
だから“普通”という言葉を出した私に、うんざりしたんだと思う。
『普通って何』
中田くんの声が、再び胸に響く。
─ 普通って、何なんだろう。
一度だけ見た、まるで天使みたいに綺麗な中田くんの笑顔。
彼はその笑顔の裏に、どんな思いを抱えて生きて来たのだろう。考えたら、ぎゅっと喉がつかえたように苦しくなる。
ふと隣を歩くコウ先輩を見ると、いつから私を見ていたのか目がばっちり合ってしまった。
コウ先輩はまた、いつものように笑ってくれた。
「着いたよ」
コウ先輩が足を止めた先には、驚くほど大きな家があった。
間違いなく、この辺りでは一番大きいと思う。
コウ先輩は慣れた手つきで門を開けると敷地内に入り、「おいで」と私の手を引いた。
なすがままに、その黒い鉄製の門の中に足を踏み入れる。
大きなレンガ造りの家はところどころに明かりが点いていて、何処が中田くんの部屋なのかと無意識に考えてしまった。
「キーとヘルメット取って来るから、ちょっと玄関で待っててくれる」
コウ先輩はそう言うと、玄関のドアを開けた。
見たこともないくらい、広い玄関。入ってすぐに、壁に飾られた高そうな絵が目に飛び込んで来る。
玄関の右横に広いホールが広がっており、二階へと続く螺旋階段が見えた。
見える限り、一階だけで三つくらい部屋がある。白を基調とした洋風の造りで、外国の家にでもお邪魔した気分だ。
緊張で固まっていると「すぐ戻るから」と言い残し、コウ先輩は階段の上へと消えて行った。
途端にシーンと静まり返り、何処からかカチコチと振り子時計の音が聞こえた。
我が家にはない高級感漂う空気が、落ち着かない。
中田くんは今、この家の何処かにいるんだろう。会いたいような会いたくないような、変な気分だ。
その時突然、こちらから見えるドアの一つが、勢い良く開いた。
中から出て来たのは、上半身裸の中田くんだった。予想外の出来事に、心臓が大きく飛び跳ねる。
お風呂に入っていたんだろう、中田くんはグレーのスウェットパンツを穿いていて、片手でバスタオルを持ち無造作に頭を拭いていた。
まさか、こんなにもタイミング良く中田くんに出くわすだなんて、考えてもいなかった。
しばらく頭を拭いてから体の向きを変えて階段を上ろうとした中田くんは、必然的に私の存在に気づいたんだろう、ふと足を止めた。
「 ─ え」
余程、驚いたんだと思う。めずらしく、中田くんの方から声を出した。
中田くんは髪を拭く手を止め、ずんずんと私の目の前まで歩いて来た。
そしてじっと、驚いたように私を見つめる。
何でこんなとこにいるんだ、って言いたいんだろう。
「あの、コウ先輩に駅前でたまたま会って……終電逃しちゃって、バイクで送ってもらうことになって……」
しどろもどろなのは動揺してるせいだけど、彼に真実を話せないからでもある。
コウ先輩に待ち伏せされてて、中田くんの様子を毎日伝えるように頼まれたなんて、言えるわけがない。
「兄貴に」
中田くんは不思議そうな顔で、ますますじっと私を見つめた。
汗なのか水滴なのか、目の前にある中田くんの胸元はしっとりと濡れている。
無駄な贅肉なんて微塵もない、男らしい引き締まった体。
途端に顔が熱くなり、目のやり場に困って視線を逸らした。
その時。
「お待たせ」
羽のように軽やかな声が、上から聞こえた。
螺旋階段を下りて来たのは、両手に一つずつ白と黒のヘルメットを持ったコウ先輩だった。
コウ先輩は目の前まで歩いて来ると、白い方のヘルメットを私にポンと手渡した。
「アゲハちゃんには大きいと思うけど、これしかないから我慢して」
それからコウ先輩は中田くんに視線を移し、優しい笑みを浮かべる。
「風呂、入ってたのか」
「ああ」
「この子、家まで送って行くんだ」
「そう」
無表情のまま、コウ先輩を見つめている中田くん。
しばらくの沈黙の後、中田くんは何も言わずに私達に背を向けた。
そしてホールに移動し、スタスタと階段を上り始める。
中田くんは階段を数段上ったところで一度足を止め、振り返って私を見た。
私達の視線は一瞬だけ絡み合ったけど、すぐに彼はまた前に向き直った。
裸の背中が階段の上に消えた時、なぜか少し切ない気持ちになる。
ふと隣に目を向けると、コウ先輩は誰もいない階段の上を、真顔でじっと見つめていた。
ガレージ内に停めてあったコウ先輩のバイクは、艶やかな黒いタンクに茶色いシートで、シンプルなデザインだった。
「SR っていうバイクだよ」
コウ先輩は嬉しそうにそう説明してくれたけど、申し訳ないほどバイクに関する知識のない私には「はあ」と答えることしか出来ない。
ただシートを眺めながら、後ろにはいつも彼女を乗せてるのかな、と漠然と考えた。
そして、あることを思い出す。
「でも私なんかと二人乗りしたら、エリさん怒りません
か」
「エリさん 誰だよ、それ」
「コウ先輩の、彼女ですよね」
「彼女 そんなのいないよ。っていうかエリって誰」
「ほら、アドレスに“eri”って入れてたから、彼女かと思って……」
「アドレス ─ ああ、」
突然、コウ先輩は顔を歪めて笑い出した。
何がそんなにおかしいのか、いつまでも一人お腹を抱えて笑い続けている。
やがてコウ先輩は息を落ち着かせると、目に涙を浮かべたままこう言った。
「あれはね、“sali-eri”って入れたの。“サリエリ”」
「サリエリ」
「うん、中世の音楽家だよ。モーツァルトの最大のライバルって言われた人だよ。“アマデウス”って映画知らない モーツァルトとサリエリの話なんだけど」
首を横に振ると、「古い映画だからね」とコウ先輩は優しい目をした。
「俺の大好きな映画なんだ。当時、優秀な音楽家として名の知れていたサリエリはね、若く自由奔放なモーツァルトの方が自分より偉大な音楽家であることに、あっという間に気づいたんだ。自分がどんなに努力をしても、モーツァルトには勝てないことを知り、天性の才能を持つモーツァルトを憎んだ。モーツァルトを憎み、彼に才能を与えた神を憎み、そして最後にサリエリはどうしたと思う」
答えが何も思い浮かばず、静かに首を振ると、
「殺したんだよ」
臆することもなく、コウ先輩はそう言った。
「でも直接ではなくて、じわりじわりと追い詰めたんだ。彼の自分に対する“信頼”と、父親に対する“愛情”を利用して」
「“信頼”と、“愛情”……」
「後は、自分で観てみて。面白いからおすすめだよ」
「でも、何でそんな人の名前をアドレスに入れたんです
か」
「何でかな。ただ、何となく。憎めない男だからかな。アドレスに名前を入れられるような彼女もいないしね。それとも、アゲハちゃんが彼女になってくれる」
急に話をはぐらかし、軽い調子で言って来たコウ先輩に、私は苦笑いを返すことしか出来なかった。
コウ先輩なら、いくらでも彼女が作れるに決まってる。
あえて作らないだけなのに、恋愛経験の乏しい私にそんな冗談を繰り出すなんて。
「アゲハちゃんは、彼氏いるの」
「いないです」
「じゃあ、好きなやつは」
「……」
いません、と言い掛けて私は口を閉じていた。
頭にちらついたのは、ついさっき見たばかりの中田くんの黒い瞳と遠ざかる背中で。
どうして今、中田くんのことを思い浮かべるんだろう。
はっとすると同時に、ドクンと全身の血液が脈打つ。
まさか、そうなんだろうか。
毎日彼のことが気になったり、いつの間にか彼のことを考えたりしているのは、そういうことだからなんだろうか。
恋なんてはっきりと自覚したことがないから、わからない。
わからないのに、どういうわけか顔が熱い。
赤い顔をコウ先輩に見られたくなくて、ひたすら下を向いていた。
コウ先輩はそれ以上そのことについて追及しようとはしなかったけど、頭上から痛いほどに視線を感じて、私は恥ずかしくてなかなか顔を上げることが出来ないでいた。
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