2枚のチケット
その日のバイトが終わり家に帰ったのは、時前だった。
母はもう寝てしまったようだけど、ダイニングテーブルには夜ご飯がいつも通り置かれていた。
キッチンの流しには、けっこう大きめの空いたお酒のボトルが置かれている。
一人テレビを見ながらご飯を食べ、なるべく音をたてないようにお風呂に入った。
お風呂上がり、通り掛かった母の部屋からすすり泣く小さな声が聞こえ、胸がぎゅっと痛くなる。
目を伏せ足早に部屋に戻ると、ベッドに潜り込んだ。
ああ、今日も日本当に疲れた。
すぐに眠りに落ち掛けた私の頭の中を、夕方見た中田くんの顔が過る。
あの吸い込まれそうな、真っ黒な瞳 ─ 。
翌日のお昼休み、お弁当を持って来なかった私は、パンを買うために売店に来ていた。
いつも母はどんなに忙しくてもお弁当を作ってくれるんだけど、今日は余程しんどかったらしい。
昨日の夜、流しに置かれていた、飲み干されたお酒のボトルのことを思い出す。
ごめんね、と言った母の体は、朝なのにまだほんのりお酒の臭いがしていた。
売店にいる女の子達は皆友達と一緒に来ていて、一人で並んでいる私は明らかに浮いている。
私は別に平気なんだけど、ユイやエリナがそんな私をよく変わってると言うから、ちょっと意識してしまう。
一人で行動するのが、何で変なのかよくわからない。
順番が来てみれば、大好きなメロンパンが売り切れだったので、がっかりしてしまった。
仕方なく残っていた卵サンドを買った私は、パンの入った袋を抱え、売店の外にある自動販売機の前で立ち止まる。
レモンティーのボタンを押し、紙パックの落ちる音が聞こえた時、すぐ近くでキャーッと黄色い歓声が上がった。
紙パックを取り出してから振り返り、すぐにその騒ぎの原因を見つけた。
売店の外、ちょうど渡り廊下の端の辺りに、立ったまま談笑している男子生徒達がいた。
他の生徒達とは明らかにオーラが違っていて、一際目を引いている。
その中に、コウ先輩がいた。
残りの二人も年生で、確か同じバンドのメンバーの人達だ。
一人は、黒ぶちの眼鏡を掛けていた。
端整な顔立ち、流れるようにセットされた黒髪、知的かつオシャレな独特の雰囲気を持っている。
もう一人はオレンジ色の短髪で、童顔で小柄なせいか他の二人よりも幼く感じた。
確か黒髪の人がギターのリョウ先輩で、オレンジの髪の人がベースの人だ。名前は忘れた。
ドラムの人だけは、社会人だって聞いたことがある。
だから今この売店の前に、この高校のMar’s Companyのメンバーが全員集合していることになる。
あっという間に、辺りは騒然とし始めた。
スマホを取り出し、写真を撮っている子までいる。
「明日のライブ、頑張ってくださーい」
投げ掛けられた声援に、オレンジ髪の先輩が笑顔で応えていた。
「コウ先輩 明日行きますっ」
ちょうど私の横にいた、女の子達の集団の中の一人がそう叫ぶと、コウ先輩はそちらを見て柔らかく微笑んだ。
キャアアッと、隣から悲鳴が上がる。
そして何げなく流されたコウ先輩の目線は、その隣にいる私の方に向けられた。
ばっちり、目が合ってしまう。
目が合っても知り合いというほどでもないし、全く知らないわけでもないし、対応に困る。
目線を逸らそうかな、と考えていると、“あ”とコウ先輩は小さく口を開け、こちらに向かって歩んで来た。
「アゲハちゃん、ちょうど良かった」
コウ先輩は私の前で足を止めると、心底嬉しそうにそう言った。
急に押し黙った隣の集団の視線が、刺すように痛い。
「明日さ、空いてる」
明日は土曜日だから、バイトが休みだ。
勉強のためにバイトを入れていないんだけど、空いてるかと聞かれれば空いている。
なぜそんなことを聞かれるのか、さっぱりわからないけど。
「空いてますけど……」
「ほんと 良かった」
コウ先輩は屈託なく笑った。辺りの空気が一瞬にして浄化されるような、清々しい笑顔だった。
そしてポケットから長財布を取り出すと、小さな長方形の紙を引き抜いた。
「俺さ、バンドやってるんだけど」
今更なことを、コウ先輩は言い出した。
「明日ライブがあってさ、アゲハちゃんに来て欲しいんだ。俺らの歌を聴いて、感想を聞かせて欲しい」
「感想なんて、そんな」
おこがましい、と思った。
だってコウ先輩のバンドは、充分に売れてる。
そろそろメジャーに行くんじゃないか、という噂も聞いたことがある。
世間はもう彼らを評価しているのに、今更私なんかの感想を求める必要なんてないと思う。
「君の歌声、すごく好きだったんだ」
困惑の表情を浮かべていると、ふいにそう言われた。
途端に、赤面して俯いてしまう。
やっぱりコウ先輩は聴いたことがあるんだ…… あの駅前で、私の下手くそなギターと歌声を。
「そんな……、コウ先輩のとは比べものにもなりません」
すると、しばらくの沈黙の後、
「ずっと捜してた。君のこと」
深刻なトーンのコウ先輩の声がポツリと降って来て、私はその声に惹き付けられるように、伏せていた顔を上げた。
コウ先輩は物憂げな眼差しで、じっとこちらを見ていて。
その目に捉えられた瞬間、私の心臓はドクリと大きく震えた。
するとコウ先輩は無防備な私の手を取り、流れるような手つきでチケットを握らせた。
手から伝わる、紙の感触。
「……枚」
戸惑いつつも視線を落とし、手の中を見て呟いていた。
うん、とコウ先輩は笑顔で頷くと、
「友達誘いなよ。女の子は一人でライブハウスなんか行きにくいでしょ」
そう言い残し、じゃね、と軽く挨拶をしてから私に背を向けた。
そしてリョウ先輩とオレンジ髪の先輩と並び、渡り廊下を向こうへと去って行く。
徐々に遠ざかるコウ先輩のスラリとした後ろ姿から、私はしばらく目が離せないでいた。
教室に戻ると、ユイとエリナがお弁当を食べながら、何がおかしいのか声を押し殺して笑い合っていた。
時々ちらちらと後ろを見て、それから顔を見合わせると、同時に含んだ笑みを浮かべている。
二人の目線の先にいたのは、いつものように一人机にかじりついている中田くんだった。
彼以外のクラスの全員が、友達同士で集まって楽しそうにお昼ご飯を食べている中、そこだけ異質な雰囲気が漂っている。
二人が中田くんを見て笑っている理由が、私にはわかった。
きっと昼休みに入る前の数学の授業で、中田くんが当てられた時のことを思い出して笑っているんだろう。
中田くんは、まるで先生達からわざと避けられているかのように、どの教科でも当てられることがなかった。
だけどめずらしく今日は指名されて、クラス中が中田くんの返答に興味を抱き、意識を集中していた。
当てられた内容というのは、単純な掛け算だった。
だけど中田くんは先生をチラリと見ただけで、何も答えなかった。
数学の先生が「お前、小学校レベルの問題だぞ 頭大丈夫か」と呆れ声で言うと、クラス中のあちこちからクスクスと笑い声が漏れていた。
「ほんと、いつも何勉強してんだろ」
「相当、要領悪いんだろうね」
中田くんを小馬鹿にした口調で話す、エリナとユイ。
二人の会話を聞いて嫌な気分になりながら、私は自分の席に座った。
「でもさ、小学校の時いたわ、中田みたいな男子」
思い出したように、エリナがそう言った。
「頭悪いってこと」
「いや、そういうわけでもなくて。何ていうか、人の輪に入らないんだよね。いつも一人で、それでも平気そうっていうか、自分が浮いてることに気づいてないみたいで」
「あ~、でも中田もそんな雰囲気あるよね」
うんうんと、ユイが相槌を打つ。
「誰かが言ってた。ああいう人は生まれつき“人の気持ちがわからない”んだって」
ああ~絶対そうだ、とユイが大きく頷いた。
そしてまた二人で中田くんを見て、笑い合っている。
胸がモヤモヤして、どうにもやるせない気分だった。
“人の気持ちがわからない”って言った、エリナの言葉が心に引っ掛かって。
人の気持ちをわかっているかいないかなんて、その人自身だけが知ることで、第三者が判断出来ることじゃない。
もしかしたら、本当は他人に対して物凄い想いを心に秘めているのに、伝え方を知らないだけなのかもしれない。
それなのに“人の気持ちがわからない”と言い切ってしまうのは、とても悲しい考え方のように思えた。
そんなことを真剣に考えている自分に気づき、ふと我に返る。
どうして私、中田くんのことでここまでムキになっているんだろう。
「あ、アゲハ、おかえり」
「遅かったね。何かあった」
私の存在にやっと気づいた二人が、声を掛けて来た。
咄嗟に、先ほどのコウ先輩との出来事を思い出す。
「何もないよ」
笑顔で答えつつも、スカートのポケットにしまい込んだ枚のチケットの感触が、胸を痛め付ける。
ライブに誘われチケットまで貰っといて、行かないわけにはいかない。
でも、誰を誘う
ユイはもちろん、コウ先輩のファンだから行きたがるだろうけど、昨日小耳に挟んだ様子だと、エリナも行きたがってるように感じた。
どちらか一方なんて選べないし、私が行かないっていう選択肢は失礼だからないと思う。
どうしよう、と困惑したまま卵サンドの封を破っていると、教室の入り口付近の女の子達がキャアキャア騒ぎ始めた。
そちらに目をやれば、ついさっき会ったばかりのコウ先輩が、今日も私達の教室を見に来ていた。
それにしても、何でコウ先輩はこの教室に毎日来るのだろうか。
昨日呼び出されて以降、コウ先輩が来るのは私が目的だなんて噂が流れているけど、それはあり得ない。
だって現にさっき会ったばかりなのに、また私を見にわざわざ教室まで来るなんてこと、不自然過ぎる。
コウ先輩が気になる子を見ているのだとしたら、それは私じゃなく別の子で、たまたま同じクラスに私がいて。
そして私が駅前でギターを弾いていた女の子だっていうことに気づいて、声を掛けて来たんだと思う。
コウ先輩は廊下の窓越しに教室を見渡し、私と目が合うと柔らかく微笑んで軽く手を上げた。
キャーッと、女の子達の歓声が上がる。
途端にユイとエリナから向けられたきつい視線が、ぎすぎすと私の胸を締め付ける。
「アゲハ、コウ先輩と本当に何もないの 何もないなら、何でアゲハにあんなに親しげなわけ」
コウ先輩が去ってからすぐに、ユイが掴み掛かるように聞いて来た。
だけど私は、言葉を濁して答えるのが精一杯で。
「中学の時の私を見たことがあるらしいの。……それだけ」
「何それ 意味わかんない。何かムカつくんだけど」
私を突き放すように、今度はエリナが冷たくそう言った。
それから二人は、私なんていないかのように昨日のドラマの話を始めた。
取り残された私は、一人黙々と卵サンドをかじる。
二人が楽しげな声を上げる度に、ぎゅっと喉が詰まったような気分になった。
ユイとエリナから、のけ者にされている理由はわかる。私が隠し事をしているからだ。
路上ライブをしていたことを言いたくないのなら、コウ先輩が私に話し掛けて来た理由なんて適当に考えて、二人に話せば良かったのに。
それが出来なかった不器用な自分が、たまらなく嫌だった。
不安な気持ちを抱えたまま、午後の授業が全て終わった。
ホームルーム終了後、思い切ってユイとエリナに「バイバイ」って声を掛けてみる。
多少作ったような笑顔ではあったけど、ユイもエリナも挨拶を返してくれたからホッとした。
いち早く教室を抜け廊下を早足で歩きながら、ポケットの中にある枚のチケットのことを思い出す。
ユイとエリナ、どちらか一方なんてやっぱり選べない。
それなら違う子を誘う
それとも後腐れなさそうな、全然知らない人を誘う
思い切って、一人で行く
結局、考えはまとまらなかった。
このままだと、一人で行く線が濃厚だ。
玄関口には、いつものようにまだ殆ど人がいなかった。
そして同じクラスの靴箱の前で、今日も既にしゃがみ込みスニーカーを履こうとしている、中田くんの後ろ姿を見つけた。
昨日この場所で初めて見た、彼の真っ黒な瞳を思い出す。
きっと今日彼は、昨日みたいに私を見たりしないだろう。
他人に何を言われようといつも変わらず凛としている彼は、周りの人間に興味がなさそうで、もしかしたら私の存在すら知らないのかもしれない。
伏せられた黒い頭を見つめながらそう考えると、少しだけ寂しい気持ちになった。
その時、中田くんの背中にある黒いリュックから、白い紐のようなものが垂れ下がっているのに気づいた。
イヤホンみたい。きっと、携帯オーディオプレイヤーをリュックに入れてるんだろう。
かなり使い込まれている様子で、コード本来の白色が変色して灰色がかっている。
ふと、中田くんは音楽が好きなのかなって思った。
机にかじりついている姿しか知らなかっただけに、思いもよらない一面を知れた気がして嬉しくなる。
本当の彼は、どんな人なんだろう。
咄嗟に、ポケットの中の枚のチケットを、スカートの上から軽く握り締めていた。
スニーカーを履き終えた中田くんは立ち上がり、今にも先に行ってしまいそうな勢いだ。
─ だけど、どうしてか行って欲しくなくて。
無意識のうちに、私はその背中に向けて声を掛けていた。
「あの、中田くん」
玄関口はシーンとしてるから、その声はいやに辺りに響いた。
直後に、後悔する。
名前を呼んでも、中田くんは振り向かないような気がしたから。
スタスタと、そのまま入り口を抜けて校庭に出てしまいそうな雰囲気の人だから。
だけど中田くんはピタリと体の動きを止めると、ゆっくり、私を振り返った。
黒い瞳が、目の前で真っ直ぐに私を見つめている。
中田くんの背後にある玄関口から射し込んだ光が眩しくて、私は少し目を細めた。
彼は立ち止まったまましばらくじっと私に目を向けた後で、
「何」
そっけなく、聞いて来た。
低めで、深みのある声だった。
初めて声を聞いた途端、今更のように心臓が強く音を鳴らす。
「あ……あのね、」
どう切り出そうか、急に怖くなり躊躇してしまう。
中田くんの表情は、どちらかというと冷たく見えたから。とてもじゃないけど、私が話し掛けて来たことを歓迎しているようには思えなかった。
「音楽は好き」
目にしたばかりの使い古されたイヤホンを思い出し、そう聞いてみる。
言ってしまった後で、中田くんにとっては唐突で脈絡のない問い掛けだということに気づき、絶対に変な顔をされるって思って焦った。
だけど中田くんは、真っ直ぐ私に目を向けたまま。
「好きだよ」
変わらない表情で、そう答えてくれた。
中田くんが普通に答えてくれたのが嬉しくて、テンパっていた心がふんわりと軽くなる。
「あの……これ、一緒に行かない」
スカートのポケットに手を入れ、折り畳まれたチケットの枚を取り差し出す。
中田くんは一歩私に近づいてから手を伸ばし、チケットを受け取ると、じっと無言でそれを眺めていた。
「いいよ」
「え」
あまりにあっさりとした返答に、キョトンとしてしまう。
中田くんは目線をまた私に移して、相変わらず淡々と聞いて来た。
「何時に何処に行けばいい」
「……じゃあ、開演10分前にそのライブハウスの前で」
「わかった」
中田くんはチケットを自分のズボンのポケットにねじ込むと、再び私に背を向けようとした。
「あの、明日だよ」
「うん」
「そのバンド、この学校の先輩のバンドなんだけど、知ってる」
「うん、まあ」
もういいとでも言うように、中田くんは首を傾けた。
それからくるりと背を向け、玄関から外へと歩き始める。
誰もいない校庭を進む中田くんの白いワイシャツの背中は、次第に小さくなって行った。
今更のように、顔がどんどん火照るのを感じた。
私、信じられないことをしちゃった
まさか、中田くんをライブに誘うなんて。
でも、中田くん、『いいよ』って言ったよね
聞き間違いじゃないよね
明日、来てくれるんだよね
ついさっきまで中田くんがいた場所に、茫然と視線を落とす。
頭に焼き付いて離れない、あの力強い眼差し。
どうしてだろう。
感じたことのない胸の鼓動は、いつまでも止む気配がなかった。
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