窓際の彼

彼の、真っ黒な頭が見える。

真っ黒で、短い髪の毛が。

少しだけ、おでこも見えた。

食らいつくようにして、覗き込んでいる教科書。

ていうか、教科書近過ぎない

あんなにひっつくように顔寄せて、読めるんだろうか。

あ、顔上げた。

ぐるりと辺りを見渡して ─ 

外、見てる。

何を見てるんだろう。


「聞いてる アゲハ」

突如聞こえた声に、慌てて前に向き直った。

目の前にあったのは、二つのあどけないどんぐり目。

まさに童顔という表現がピッタリな顔をした、友達のユイのものだった。

「あれ、何だっけ」

ユイの話なんて全く聞いてなかった私は、慌てた声を出す。

「まったく、何見てたのよ」

ユイは顔をしかめながら私が凝視していた先に目をやったけど、目ぼしいものは何も見つからなかったのか、またこちらに向き直った。

「コウ先輩今日も来てるね、って話してたんだよ」

そう答えたのは、もう一人の友達のエリナ。

肩下まで垂れた、綺麗な栗色の巻き髪を気だるげに指先で弄びながら、エリナはチラリと私に視線を向ける。

「ああ、コウ先輩」

納得してそう答え、廊下に目をやった。

なるほど、今日も見えた薄茶色の髪の毛。

スタイル抜群の体を壁にもたせかけて、廊下の窓越しにこちらを見ている。

こちら、といっても何を見ているのかはわからない。

ただ、私達のいる教室内にぼんやりと視線を向けているだけ。

教室中の女の子達が、ザワザワと騒がしい。

皆が、廊下にいるコウ先輩にちらちらと視線を送っている。

コウ先輩は年なのに、わざわざ休み時間に年の教室に来てただじっと中を眺めているなんて、普通は不自然だと思う。

でもそれを不思議がるのさえ忘れ、皆が彼に注目している理由を、私は知っていた。


「はあっ、今日もかっこいいなあ」

目の前で、ユイがうっとりと呟いた。

「私はやっぱり、あんまり好きになれないなあ。歌は好きだけど」

それに反して、興味なさげなエリナ。

「あれ、エリナ、“MC”の曲聴いたの あれだけコウ先輩のこと悪く言ってたのに」

「友達にCD無理矢理貸されたのよ、別に聴きたくなかったけど。思ってたよりずっと良かったけど、あの顔は好きになれない。だって絶対遊んでるじゃん」

ちらり、私はまたコウ先輩を一瞥する。

薄い茶色のふわふわの髪に、男にしては白い肌。

やや垂れ気味の大きめの瞳に、紅い唇。

線の細い体と、どこか気の抜けたラフな佇まい。

なるほど、女の子に騒がれるのもよくわかる。だって、今すぐにでも俳優になれちゃいそうなルックスだもの。

だけど、女の子達が騒ぐ理由はそれだけじゃない。

地元では有名な、高校生ながらもインディーズでデビューしているというロックバンドMar’s Company、通称“MC”のボーカル。

それが、コウ先輩だからだ。


「うちらのクラスさ、噂になってるらしいよ」

突然、ユイが声を潜めた。

「このクラスに、コウ先輩の好きな子がいるんじゃないかって。じゃないと昼休みの度に、こうやって覗きに来るなんておかしいでしょ」

「うん、ちょっと気味悪いよね」

「こらっ、エリナ。こんな近くで見れてありがたい話でしょ だってあのコウ先輩なんだよ その想われてる子がうらやましいと思わない」

しかめ面のエリナに、くやしそうな顔のユイ。

そうなんだ。

今は、吹く風に少し夏の匂いの混ざり始めた月半ばで、私達はこの高校に入学してまだヶ月半ってとこなんだけど。コウ先輩は入学してから殆ど毎日、この教室に来ていた。日に一度だけ、誰と話すわけでもなく、ただ分程度廊下からこちらを覗き帰って行く。

「好きな人、かあ」

私は呟くと、廊下にいるコウ先輩の顔を見つめた。

無表情でこちらを向いているコウ先輩と、一瞬目が合った気がした。

だけど多分、気のせいだと思う。

「私、コウ先輩が好きなの、アゲハじゃないかって思うんだよね」

「え」

突拍子もないユイの言い分に、キョトンとしてしまう。

ユイはにやつきながら、言葉を続けた。

「だってアゲハ、このクラスの男達に密かに人気らしいよ」

「いやいや……それは絶対ないから。話したこともないし」

ユイの言い分があり得な過ぎて、からかわれている気分になる。

髪を巻いたりなんてしたことない、ただの黒髪のセミロング。地味で目立たなくて、友達も少ない。

そんな私のことを、この学校一目立っているコウ先輩が好きだなんて発想、一体何処から生まれるんだろう

「ところでアゲハって、彼氏いないの」

「いないよ」

「なら、好きな人は」

「いない」

「この子、鈍いから」

いつものように、きっぱりとエリナが言い切る。

「うんうん、そんな感じ。好きな人いても、自分でわかってなかったりして」

ふと、女の子達のざわめきが消えているのに気づいた。

廊下に目をやると、いつの間にかコウ先輩がいなくなっていた。

そのまま二人はこのクラスでは誰が一番かっこいいとか、誰が誰と付き合い出したとかの話を始めた。

そういう話題に興味のない私は途端に入り込めなくなり、取り残された気分になる。

その時、後ろの窓から入り込んだ風が、サラリと私の髪を揺らした。

私はまるで風に呼ばれたかのように、またそっと後ろに顔を向けた。


彼は頬杖をつき、まだ窓の外を見ていた。

短い黒髪は、風に吹かれても揺れない。

騒がしい教室内で、そこだけ違う空気が漂っているみたい。

そんな彼の瞳が映しているものは、一体何なのだろう。


授業が全て終わり、ホームルームも終わった。

私は今日も、誰よりも早く帰らなくちゃいけない。

「バイバイ、ユイ、エリナ」

隣の席のユイと前の席のエリナに、手短に別れを告げる。

「今日も相変わらずの早さだねぇ」なんて呟くユイの声を背中で聞きながら、私は教室を飛び出した。

走らないと間に合わない、バイトの時間に。

そして、バタバタと廊下を駆け靴箱に辿り着いた時、今日も先にそこにいる彼の姿を見つけてしまった。

同じクラスなのに、いつも不思議に思う。

誰よりも早く教室を飛び出しているはずの私を、彼はいつだって悠々と抜かしているから。

彼の席は一番後ろで、真ん中辺りの席の私よりはドアに近いからなんだろうか

それにしても、ハアハア言っている私に対し、彼は今日も息切れ一つせずに、涼しい顔で靴箱から靴を取り出そうとしている。

隣に並んで同じように靴を取り出しながら、なぜか緊張している自分に気づいた。

背を向けた彼の頭が、私より大分高い位置にあること。

そしてその頭の裏側にある瞳が、やっぱり今日も私を映しはしないであろうことを、無意識に考えてしまう。

彼とは、入学してから一度も目が合ったことがないから。

床に叩き付けるようにしてスニーカーを投げ置くと、彼はしゃがみ込んでそれを履き始めた。

私もやや距離を取ってローファーを履きながら、ちらり、横目で見てしまう。

伏せられた睫毛、スッと通った鼻筋。

彼が見ているのは、ただ彼の足元で。

やっぱり今日も、その瞳に私は映っていなかった。


学校近くの駅から電車に乗り、15分ほどのところにある駅で降りる。

駅前の歩道を走り、噴水の前にある古びたカフェに私は駆け込んだ。

カランカラン、とドアの上方に取り付けられた鈴が音を響かせる。

アンティーク調の欧風家具で統一された店内に足を踏み入れるなり、嗅ぎ慣れたコーヒーの香りがふわりと鼻先に漂った。

「お疲れ様です」

カウンターの中にいるマスターに笑顔で声を掛けると「アゲハちゃん、お疲れ」とマスターも威勢よく挨拶を返してくれた。

いかにも、というような黒の蝶ネクタイに口ひげを蓄えたマスターは、冗談交じりの会話でお客さんを笑わせるのが上手だ。

夕方のこの時間、店内のお客さんは組だけだった。

私はカウンター横の入り口から物置に入ると、そこで制服に着替えた。

白いワイシャツに黒い蝶ネクタイ、黒いタイトスカート。髪を後ろで一つに束ねた私は、実際の年よりはやや上に見える。

「今はお客さん少ないから、窓磨いてて」

「はい」

マスターにそう指示され物置に戻ると、乾いた雑巾と窓磨き用のスプレーを手に取り、店の外に出た。

駅前の大通りは、ちょうど帰宅途中の学生達で溢れていた。

通り過ぎる彼らに背を向け、ひたすらに窓を拭く。

夕方の風が、彼らの希望に満ち溢れた笑い声を、耳元に運んで来る。

はしゃぎ合い、からかい合うその声は、どれもとても幸せそうに聞こえた。

カフェの真向かいにある小さな噴水の周りでは、女子高生の集団が座って笑い声を上げていた。

髪を触りながら、スマホを覗き込みながら、彼女達は繰り返し楽しそうに喋り続けている。

私は小さくため息を吐いて、また前に向き直った。

キュッキュと響く、雑巾と窓の擦れ合う音。

窓ガラスに映った私は、まだ15歳なのに、すごく老けて見える気がした。


去年の夏、父が蒸発した。

突然の、出来事だった。

ダイニングテーブルに突っ伏して泣きじゃくる母の姿は、私の心に大きな傷を作った。

気が利いて家族思いだった父は、いわゆる理想の父親だと思っていた。

だけど彼が忽然と消えた後には、多額の借金だけが残った。

どうして借金なんかしたのかなんて、わからない。

初めは思っていた、何かの間違いだ、って。

「冗談だよ」って、すぐに笑って戻って来てくれるって信じていた。

だって、あんなに優しい父だったから。

だけど父からは何の音沙汰もないまま数ヶ月が過ぎ、精神的ストレスと慣れない仕事の疲れから、日に日に痩せ細る母を見て感じた。

私の父は、ただの、どうしようもないほど愚かな人間だったんだということを。

母の希望で高校には進学したけど、母の稼ぎは殆ど借金の返済に当てられていることは知っていた。

だからアルバイトをして、学費は自分で稼ぐことにしている。

バイトを始めてこの半年間、学校が終わるとすぐにこのカフェに直行し、終電ぎりぎりまで働いている。

土曜日は勉強のために空けてるけど、日曜日は朝からフルで働く。

母だって辛いだろう、娘の学費すら工面出来ないことが。

だけど実際は私のバイト代がないと生活出来ないから、母はまだ15歳の私が夜遅くまで働くことを黙認している。

私は、未来を信じることをやめた。

他の子達みたいに、オシャレに興味を抱くことをやめた。

恋の話で、盛り上がることもやめた。

楽しくて夢中になっていた、“あのこと”もやめた。

私が今しなくちゃいけないことは、働いて自分を養うこと。

傷付いた母を、いたわること。

毎日を、とにかく精一杯生きること。……それだけだ。


「アゲハちゃん、もう帰っていいよ」

今日は平日だし、お客さんは殆ど来なかった。窓際でコーヒーを飲んでいたサラリーマンらしきお客さんが帰ったところで、マスターがそう声を掛けてくれた。

着替えを済ませ挨拶を終えると、私は閑散とした駅前の道に出て行った。

この辺りは少し行けば住宅街が多く、繁華街としてはそんなに栄えている駅じゃないから、この時間帯になると歩く人もまばらでどこかもの悲しい感じがする。

人通りが少ないのに、たまに酔っ払いとかガラの悪そうな人がいることもあるから、私は身を縮め足早に歩道を歩いた。

月とはいっても、夜の空気にはひんやりとした風が僅かに入り混じっている。

噴水は、もう夕方みたいに水を吹き上げてはいなかった。

白い円形のタイルの中で、闇夜を映した水が漆黒に染まっている。水面では、外灯の明かりがゆらゆらと儚げに揺れていた。

改札を抜け、私はホームに佇んだ。

ベンチでは背広姿のおじさんが一人、俯きウトウトとしている。

ホームの下の暗がりには、うっすらと線路が見えた。

吸い込まれそうなほどに真っ黒な、深い闇。

まるで、何も見えない私の未来みたいだ。


小さくため息を漏らしたところで、ふと頭に彼の姿が浮かんだ。

いつも一番後ろの窓際の席で、誰とも話さずひたすら教科書を見ている彼。

伏せられた瞳は、決して周りの人間を見ようとはしない。

高校に入学してヶ月半。

どうしてだろう。

気づけば私は、いつも彼を目で追うようになっていた。

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