アゲハとギター

翌日の昼休み。

今日も、彼はご飯すら食べずに机にかじりついていた。

丸まった背中、短い黒髪、伏せられた睫毛。

顔を上げ、誰かと話をするなんてことは絶対にない。

「中田のこと見てるの」

突然、そんな声がすぐ間近から聞こえた。

前に向き直ると、目の前でエリナがじっと私を見ていた。

一気に耳に戻る、辺りのざわめき。

そこで初めて気づいた。

お弁当に箸を付けるのも忘れ、振り返ってまで、また窓際の中田くんを見ていた自分に。

「アゲハ、よく中田のこと見てるよね」

「そうかなあ」

小さく声を返したけど、私はなぜか内心動揺していた。

「ああ~、中田か。気になるのわかるかも。彼、なんか独特だよね」

カレーパンを頬張りながら、ユイが呑気な声で会話に加わって来る。

「そうそう。いつもああやって座って教科書見てて、ずっと一人でいるよね。声聞いたことないし。喋れんのかな」

エリナが、すかさずユイの言葉に同調した。

「そうだよねえ。あっ、でも私、組の木村くんがこの教室に来て中田と話してるの見たことあるよ」

「木村くんって、あの目立つ人」

「金髪の木村くん」

ユイが思い出したように言った後で、驚いた私とエリナの声がほぼ同時に重なる。

ユイは頷くとカレーパンを口から離し、声を潜めた。

「私もびっくりしたよ。だって中田と木村くんて全然合いそうにないじゃん。中田って顔はいいんだけど、何か地味でダサいよね。暗そうだし。あとさ、中田ってすっごい頭悪いらしいよ、噂によると」

「何それ、ウケるんだけど 休み返上でずっと教科書見てるのに」

途端に、大声で笑い出すエリナ。

「そうそう、それにね、中田の下の名前知ってる」

「下の名前」

そう聞くと、ユイは軽く頷いてからこう言ったんだ。


リキ、っていうんだよ。


ぎゃはは、と甲高いエリナの笑い声が辺りに響いた。

「リキ リキってまさか、力って書くの」

「そうそう、その“力”なんだよ。ウケるよね プロレスラーみたいじゃない あの地味でひょろひょろの中田には、似合わなくね」

ユイも、ケラケラと笑い始める。そして「ね、ね。アゲハもそう思わない」と、声を揃えて聞いて来た。

私には、二人が笑う意味がさっぱりわからなかった。

わかるどころか、中田くんを馬鹿にしているような二人に、苛立ちすら感じる。

確かに中田くんは目立たなくて、いつも一人でいて。

整った顔をしてるし背だって高いけど、髪型は坊主が伸びたような感じだしオシャレではない。

そして休憩の度に教科書をかじりつくように見ている姿は、異様ですらある。

女の子達にキャアキャア言われる、なんてことは絶対ない。

でも、だからといって、彼のことをそうやって笑いものにしてはいけないって思った。

それに、まだ真っ直ぐに見たことはないけど。

周りの空気に染まらずいつも一人教室の隅で凛としている彼の目はきっと、その名の通り“力”強さで満ち溢れている気がした。

だから、私はユイとエリナの顔を見てこう答えた。

「私は、いい名前だと思うな」


すると、一瞬にして二人の緩んだ口元が元に戻り。

すうっと引き込まれるように、ユイの幼さの残る顔も、エリナの大人びた綺麗な顔も、冷たい表情になった。

空気読めよ。

合わせろよ。

冷ややかな目が、それを物語っている。

さっきまで笑っていた二人が急に押し黙ったことに、妙な恐怖を感じた。

だけどそれは一瞬のことで、またすぐにユイはにっこりと笑ってこう言った。

「やっぱアゲハ、変わってるわあ」

エリナも、続けて笑顔を見せる。

私もつられて少し笑ったけど、胸の奥底では、得体の知れないモヤモヤが渦巻いたままだった。

「あ、コウ先輩来た」

その時ユイが、突然声の抑揚をガラリと変えて叫んだ。

なるほど、いつの間にか周りの女の子達が騒がしくなっている。

「うわ、今日もキャアキャアうるさいな~」

鬱陶しそうな顔で耳を塞ぎつつも、気にはなるのか、エリナも廊下に目を向けていた。

私は、教室中の皆が関心を寄せているコウ先輩の方は見ずに、またそっと後ろを振り返った。

中田くんは、相変わらず食い入るように教科書を見ていた。

窓から差し込む真昼の光が、彼の横顔のシルエットを白く照らしている。

ああ、やっぱり。

今の教室中の喧騒なんて全く気にせず自分を保つ彼は、その名の通り、見えない力で満ち溢れているように思う。


「藤井さん」

再び中田くんに目を奪われていると、ユイでもないエリナでもない女の子の声が私を呼んだ。

前に向き直ると、そこにはあまり話したことのないクラスの子が立っていた。確か、入り口近くの席の子だったと思う。

「コウ先輩、呼んでる」

「え」

聞き間違いかと思って、聞き返す。

すると、その子は焦ったような大きな声でもう一度言った。

「だから、コウ先輩呼んでる」

辺りのざわめきが止み、教室中の視線が一斉に私に注がれるのがわかった。

「アゲハ、まじ」

ユイの驚いた声が響く。

廊下に顔を向けると、入り口近くに立ってじっとこちらを見ているコウ先輩と、ばっちり目が合った。

その瞬間に、コウ先輩は私に向けてにっこりと微笑み掛けて来た。

きゃあっ、と辺りの女の子達が一斉に叫び声を上げる。

何で私

話したこともないのに、何の用だろう。

戸惑いつつも、立ち上がりコウ先輩の元へと歩む。

徐々に近づく私を、コウ先輩は微笑を浮かべたままじっと見ていた。

近くで見たら、女の子みたいにツルツルできめ細かな肌だ。

薄い茶色の髪は今日もフワフワと気持ちよさげに揺れていて、前髪の下から覗く目元には、高校生らしからぬ色気が漂っている。

「あの、」

目の前まで来たのにコウ先輩が一向に何も話そうとしないので、呼ばれた立場である私は面食らう。

クラス中に注目されているこの雰囲気が嫌だから、早く用件を終わらせて欲しいのに。

しばらくして、コウ先輩はやっと口を開いた。

「藤井アゲハちゃん、だよね」

「……はい」

何で、私の名前を知ってるんだろう

するとコウ先輩は私から目線を逸らし、一瞬だけ教室の方を見た。

そしてすぐにまた、目の前にいる私に視線を戻す。

「前から聞きたかったんだけどさ」

「 あ、はい」

「歌うの、どうしてやめたの」


 ─ 頭が、真っ白になった。

あからさまに、目が泳ぐ。

動揺で頭の中がぐるぐるしていて、何も答えられない。

そんな私を見て、コウ先輩は目を細めて色っぽく微笑んだ。

それから、

「すごく、良かったのに。また歌ってよ、あの駅前で」

そう言い残し背を向けると、立ち尽くしたままの私を置いて、悠々と廊下の先へと消えて行った。

『歌うの、どうしてやめたの』って。

しかも“駅前で”って。

それは間違いなく、“あのこと”で……。

どうしてコウ先輩が、“あのこと”を知ってるんだろう

茫然としたまま、自分の席に戻る。

するとすかさず、興奮気味のユイが顔を真っ赤にしながら、聞いて来た。

「アゲハ、まさか付き合ってとか言われたの やっぱりコウ先輩が見てたの、アゲハだったんだ」

「いやいや、違うって そんなんじゃない」

「じゃあ、何話してたのよ」

いつになく真剣な表情で、エリナが会話に割り込んで来る。

「それは、」

言い掛けて、すぐに口を閉じた。

言えない。

“あのこと”は、誰にも言いたくない。

自分だけの、大事な秘密の思い出だから。

押し黙る私に、エリナが不満そうに声を漏らした。

「何 私達には言えないわけ」

「ごめんね……」

「え~ 何なに、教えてくれないのぉ」

ユイも口を尖らせる。

「ほんと、大したことじゃないんだ」

ユイを見て、ごめんね、とまた小さく謝った。

ユイは唇を突き出したまま、拗ねたようにエリナを見た。

エリナはしらけた目で首を傾げると、もう興味がないといった様子で、スマホを手に取りいじり始めた。

何ともいえない重たい空気が、私達の間に流れる。

この空気をどうすればいいのかわからなくて、逃げるように顔を伏せながらも、私はまた心の中でさっきのコウ先輩の言葉を思い起こしていた。

『歌うの、どうしてやめたの』


そうなんだ、歌ってたんだ。

去年の今頃、ほんのヶ月の間。

あのカフェがあって、小さな噴水のある駅の前で。

ギターを弾きながら、夜空を仰ぎながら。

私は、歌ってた。

夢も、希望も、未来も信じていたあの頃。



私の父は、若い頃はミュージシャンを目指していたらしい。

だけど夢半ばで挫折し、普通のサラリーマンになったって聞いた。

ミュージシャンを目指す人は、この世に星の数ほどいる。

だけどその中で成功し有名になれる人は、ほんの一握りだ。

類い稀な才能を持ち、強運も持ち合わせている人だけ。多くの人が現実を知り、夢を追うことをやめる。

私の父も、その中の一人だった。

だけど父は、夢を追うことは諦めても、音楽を愛することはやめていなかった。

ごく平凡なサラリーマン家庭の我が家に、当たり前のように置かれていた何本もの古いギター。

会社から帰るとすぐにスーツを脱ぎ捨て、ギターを手に取り愛しそうにつま弾いていた父。

ギターを奏でる父は、スーツを着ている時よりもずっと生き生きとしていて幸せそうで、私の目にはこの世の誰よりもかっこよく見えた。

エルヴィス・プレスリーにチャック・ベリー、ビートルズにローリング・ストーンズ。

自分の好きなCDもたくさん私に聴かせてくれて、幼い私を相手にロックのうんちくを語り、母を呆れさせていた。

父は私の憧れの存在で、私は父が大好きだった。

そんな環境で育った私は、物心がつく頃にはいつの間にかギターの弾き方を覚えていた。

そして私が中学生になると、父はギターを一本くれた。

少し小ぶりの、アコースティックギター。

大好きな父に一歩近づける気がして、嬉しくて夢中になって色々な曲を練習した。

父を真似て、何曲か自分で曲も作ってみた。

単純なコードにありきたりの歌詞だけど、中になる頃には曲くらい出来てたと思う。

だけど、家で父に聴かれるのは照れ臭くて。でも、どうしても歌ってみたくて。

だから家から離れてて、知り合いもいそうにないあの駅の前で弾くことにした。

キャップを深く被ってギターケースを担ぎ、「友達の家で弾く」と親に嘘をついて。

路上ライブだなんて、初めはもちろん緊張した。

人混みを見てやっぱりやめようかと怖気づいたりもしたけど、すぐにそんなこともなくなった。

自分の奏でるギターの音色と歌声が、暗い夜空に、行き交う人々の背中に、すっと溶けて消えて行くあの感覚にすぐに夢中になった。

“自分”っていうしがらみから解放されたみたいな自由な気分になって、空にだって飛びたてる気がした。

だけど私に歌うことの素晴らしさを教えてくれた父は、ある日突然私と母を捨て、姿を消した。

誰よりも信じていた父に裏切られ、まるで天と地がひっくり返ったようなショックを受けた私は歌うことが怖くなり、しばらくの間あの駅前に行けなくなった。

ギターを手にしただけで父の笑顔を思い出し、胸が引き裂かれたような気持ちになったから。

それにお金を稼がなきゃならなくなって、それどころじゃなくなった。


駅前で路上ライブをしていたことは、自分だけの大切な秘密にしておきたかったから、誰にも言っていない。

なのに、どうしてコウ先輩は私があの駅前で歌っていたことを知っていたんだろう。

ひょっとしたら、何処かから見ていたんだろうか。

動揺しながらもあれこれと考えているうちに、はっとして顔を上げた。

 ─ もしかして。

グレーの、パーカー。


その人の存在に気づいたのは、駅に行くようになって日目の夜のことだった。

駅前の小さな噴水にじっと座っていた、若い男の人。

そろそろ初夏を迎えようとしていたのに、長袖のグレーのパーカーなんか着ていたから、初めは何となく目に付いただけだった。

すっぽりと被ったフードに、濃い目のダメージジーンズ。

その人はただ、何をするでもなくそこに座っていた。

ある程度の距離があったから、何処を見ているのかもはっきりしなかった。

だけど、次の日もその次の日も、必ず同じ場所に同じ格好でいて。いつしか歌いながらその人を捜すことが、私の日課になっていた。

そして駅に行くようになってヶ月が過ぎたある日、思いもしなかった出来事が起こった。

夢中になり過ぎて終電ぎりぎりまで歌っていた私の前に、気づけば、人のガラの悪そうな男の人達がいた。

派手な髪色に、腰までずらしたジーパン。煙草を片手に、にやにやと嫌な笑みを浮かべていた。

嫌な空気を感じてすぐに帰ろうとした私に、

「ええ~、もう帰っちゃうのお もうちょっと弾いてよ」と、その中の一人が声を掛けて来た。

私は「終電があるので」と小声で断った。

だけど、

「それなら、車で送ってあげるよ だから俺らと遊ばない」

「ていうか高校生でしょ、すげー若いよね。かーわいい」

その人達は突然、すごく馴れ馴れしく口々に話し掛けて来た。

断っても断っても、本当にしつこくて。

どうしたらいいかわからず困惑しているうちに、腕をがっしりと掴まれて「いーから、行こうよ」と無理矢理引っ張られていた。

やめてくださいって叫びたかったけど、恐怖で声すら出なかった。

 ─ その時。

ガッと鈍い音が響き、私の手を掴んでいた人が一瞬で消えた。

驚いて顔を上げた私の、ほんの目と鼻の先に。

グレーのパーカーの、背中が見えた。

「てめぇ、何だ急に ぶっ殺すぞ」

別の男の人が、キレた顔で彼に掴み掛かった。

するとすぐにまたグレーのパーカーの背中が素早く動き、鈍い音がして、一瞬でその男の人も地面に倒れた。

「こいつ、目がやべえ」

「……行こうぜ」

男の人達は、怯えたように彼を見ながらじりじりと後退し、やがてそそくさとその場を去って行った。

「あの……」

お礼が言いたくて呼び止めようとしたのに、グレーのパーカーの背中は、一度も私を振り返ることなくあっという間に行ってしまった。

少し俯き加減の、パーカーの頭。

駅とは反対の暗闇の中へと消えて行ったその後ろ姿を、今でもはっきりと覚えている。

そしてその日を境に、彼はあの噴水にはぱったりと来なくなった。

助けてもらったお礼を言いたくて、毎日彼を待っていたのに。

それからヶ月が過ぎ父がいなくなり、心に傷を負った私は、グレーのパーカーの彼どころじゃなくなった。

路上ライブをやめてバイト探しを始めたけど、中学生の私を雇ってくれるところなんて、一向に見つからなくて。

数ヶ月後、疲れ果てた私は、ふらりとまた駅を訪れていた。

まるで、その場所で幸せに歌っていたかつての自分に、想いを馳せるかのように。

その時に目に留まった噴水の傍のカフェに、諦め半分で「バイトをさせてください」と頼み込んでみた。

奇跡的に雇ってもらえることになった時には、涙が出るほど嬉しかった。

働きながらも、カフェのウインドウ越しに何度かグレーのパーカーの彼を捜した。

だけど、やっぱり彼は現れなくて。

そして月日はあっという間に流れ、今の今まで、彼のことはすっかり忘れてしまっていた。



だからコウ先輩が何処かから私を見てたのかもって考えた時、久し振りにあのグレーのパーカーの彼のことを思い出した。

そして、まさか彼がコウ先輩だったんだろうかって一瞬思ったけど、すぐにそんなわけないって考え直す。

年前は一言だって話し掛けて来ることもなかったし、助けてくれた時すら逃げるように行ってしまったのに、今更私に声を掛けるなんておかしい気がする。


そんなことばかりを考えていて、昼休み以降は授業の内容が殆ど頭に入らなかった。

ホームルームが終わると、我に返った私はいつものように素早く荷物をまとめて立ち上がった。

ユイとエリナに声を掛けようと目を向けると、二人はちょうど話し込んでいる最中で。

「そうそうユイ。MCのライブあさってでしょ。行くの」

「それね、チケット即完売で買えなかったの。すごい人気だよね、インディーズなのに」

二人の話の内容がコウ先輩のことで、ドキリとしてしまう。

「私、コウ先輩は好きじゃないけど、ライブは行きたかったな。MCの歌は好きだし、ギターのリョウさんタイプだし」

「エリナ、リョウさんタイプなの でもわかるかも あの眼鏡がエロいよね」

盛り上がる二人の会話に“バイバイ”って言うタイミングが掴めなくて、そわそわしながら二人を見ていた。

するとエリナがそんな私に気づいて、「あ、アゲハ。お疲れ」と声を掛けてくれた。

「アゲハ、バイト代で今度何か奢ってよ」

ユイも、にっこりと笑ってくれる。

昼休みのあの一件以来気まずかったから、嬉しくて私も自然と笑顔になった。

「うん、わかった。バイバイ、エリナ、ユイ」

家計のために働いていることは、彼女達には言っていない。

だって、蒸発とか借金とか、重過ぎて言える空気じゃないから。だから二人は、私がお小遣い欲しさにバイトしてると思っている。

「ねえねえ、エリナ。今日カラオケ行こ」

はしゃぐユイの声を背中越しに聞き、少し寂しさを感じつつ、私は教室を後にした。


大半のクラスのホームルームはまだ終わっていないみたいで、廊下にはパラパラとしか人がいなかった。

うちのクラスの担任は、ホームルームが短い方だからありがたい。

階段を下り、靴箱に差し掛かる。

すると今日もやっぱりそこには、私より先に彼がいた。

背が高くて、無口な彼。

 ─ 中田くん。

靴を取り床に置くと、しゃがんでスニーカーの靴紐を結んでいる中田くんの黒い頭が目に入る。

彼は、どうして毎日こんなにすぐに帰るんだろう

彼の頭を見つめながらそんなことを考えていた時、突然中田くんがしゃがんだまま、隣に立っている私に顔を向けた。

ドクン、と心臓が音を鳴らす。

真正面から見た彼の鼻筋は思った以上にシャープで、薄い唇は微かに開いていた。

そして、真っ直ぐ私に向けられた二つの瞳は、想像通り真っ黒だった。

深くて濁りのない、純真な黒。

まるで、いつか何処かで見た夜空のような。

「あ……」

驚きのあまり、思わず声が漏れた。

だって、彼が私を見ているから。

初めて、私を見てくれたから。

実際は数秒だったんだろうけど、長い時間に思えた。

中田くんは、私を見てから再び目線を足元に戻すと、何事もなかったかのように立ち上がって歩き始めた。

胸が、ドキドキとやたらうるさい。

彼の後ろ姿を見ながら、今更のように自分の顔が熱を帯びているのに気づいた。

私、絶対に変な顔してた

中田くんはただ、誰がいるのかふと気になって見上げただけ、って感じだったのに。

何てことない無意識の行動、って感じだったのに。

私一人だけが物凄く意識してしまっていて、恥ずかしい。


彼の黒い瞳は、淡い光を放っていて。

その眼差しは一寸のブレもなく、その名の通りとても力強かった。

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