第12話 ミニブーケに感謝を籠めて

 辺りの電灯がともり始めた帰り道を、さっき言われた言葉の意味を考えながら歩いていました。

 ――私のこと、これからも頼ってくれる――?

 その言葉に答えると、かずちゃんは無理をしていたのかストンと眠り込んでしまい、それからは何をしていいのかわからず、しばらく彼女の額の汗の面倒を見て過ごしていました。

 それから思っていたよりずいぶん早く、だいたい小一時間と経たないうちでしょうか、かずちゃんのお母さんが帰ってきたので、気を使われるかなと思って逃げるように家を出て、今に至るわけですが……。最後に言われたあの言葉が、ずっと私の頭から離れないのです。

 熱に浮かされて言っただけ? それとも、弱って寂しくなったから? 本人に聞いてみなければ答えが出るはずもないけれど、あの言葉への疑問に支配されてしまった私には、無意味なことだとわかっているのに、考えることをやめられなかったのです。

 悩んだまま、時間は経過し――ドアに足の小指をぶつけたり、夕食のミックスビーンズを落としたり、お風呂で溺れかかったり……、散々だった昨夜は過ぎ去って――ついには朝になり、こうして、教室におもむく時間になってしまいました。


「あーーーーーーーーーーー」


 教室に近づく前からすでに聞こえる朗々とした声。ここ最近はロングトーンの練習が彼女の流行りなのでしょうか。私はホッと息をいて教室の鍵を開けました。なんというか、悩んでいたことがどうでもよくなってしまって、すっかり元気になったかずちゃんに、昨日の一言について話をすることもありませんでした。……ロングトーン新記録の邪魔をしてもいけませんし。

 窓を開け、昨日より雲の多くなった空を見上げては、少し暗いかなと教室の明かりをつけ、そして自分の席に着き、日課の朝読書の一冊を手に取って、ごく変わりない日がこれから始まろうとしていました。


「おはよう」


「おはよう、田中君」


 数十分ほど経つと、私の後とはいえ早く来るのも普通になってきた田中君が登校してきて、声を掛けてきました。


「えっと、神崎さん……」


 でも少し、彼の様子がおかしいのです。


「…………いや、なんでもない」


 一度は何かを話そうとしたものの、その先の言葉がすっぽり抜けたように静かになって、私から離れたところにある彼自身の席に座ってからは、朝の空き時間はずっと、そこから動くことはなく、言葉を交わすことは一切ありませんでした。

 おおむねその一日は、それぐらいしか特筆することもないような、普通の日でした。


 そして、明くる日も、そしてそのまた明くる日も、田中君とは挨拶を交わす以外に話すことがないだけの、ごく普通の日々で――一週間は経ったでしょうか。そんなある日の放課後、図書室の当番をやってしまってからは、いつものように、歩いて家へ帰る時のことでした。

 帰り道の中腹にも差し掛かったところで、学校から出てきた時からなんとなく感じていたことでしたが、空気がやけに湿った感じがするな、と。季節柄、雨がいつ降り始めてもおかしくない時期に差し掛かっていましたし、しばらく前はちょっと雲が多いぐらいで済んだ空模様も、今見上げれば鉛色をしていて、さすがに嫌な予感がしたので、少し早足に歩き始めたその時、ついに、雨が降り始めました。

 ぽつり、ぽつり。最初の数秒だけはそんな可愛らしいものでしたが、油断した一瞬のうちにそれは激しい雨に変わりました。――今朝、母に言われたような気がしないでもないことが思い当たります。今日は雨が降るから傘を持って行きなさい、と。それを聞いた私は、学校に置き傘してるから大丈夫~、と軽く流していたのですが、その置き傘は一体どうしたのかといえば、……今もなお、置き傘の使命を果たさんとして、学校のロッカーの中、その身を潜めているのです。――置き傘は置くだけじゃ意味ないのに……!!

 よって、今取れる最善の選択肢は、家まで一直線に走ること。ただそれだけだと、かばんを頭の上に持って、私は走り出しました。


「――神崎さん!!」


 聞き覚えのある、男の子の声を聞くまでは。


 ――立ち止まり振り返れば、そこには息を切らした田中君が、傘を差して立っていました。


 思えばここは、田中君に泣き顔を見られたあの道からそう遠くない場所だったのです。私が自宅に向かっている最中、向かいから来た彼と偶然すれ違った、あの道の。


「根腐れ起こしちゃまずいからね。軒先にあるプランターを中に入れてる時だったんだけど、降ったばっかりで本当によかった」


「ええと、前にガーデニングやってるとは聞いてたけど……」


「ここにはたまに手伝いで呼びつけられるだけだよ」


 この時、私は道沿いにあったフラワーショップの裏部屋にいました。一般にスタッフの休憩室のようなところらしいのだけれど、たまたまお店の手伝いに来ていた田中君に、ここで雨宿りをするよう勧められて通されたのです。

 部屋には数組かの机と椅子があり、私が今座っているの手前の机には、さっき田中君が用意してくれたココアが湯気を立てていました。そう、これだけではなく、あまりに勧められるままにしていたものですから、十分すぎる量のタオルが貸し出され、足元には冬でもないのに電子ストーブが輝き、後ろでは田中君の手に握られたドライヤーが、うなり声を上げて必死に私のかばんを乾かしているのです。


「他に……スタッ……は……っちゃ……るんだけど、今は……とが……ないから……」


「ごめんドライヤーの音で全然聞こえない」


 ほどなくして轟音は鳴り止みました。


「……要はシフトの穴を補うために運営してる親に呼び立てられるわけで」


「家業手伝いみたいな感じ?」


「まあ……そんな感じ……?」


 そこまで話してまた田中君はドライヤーの電源を入れ直しました。しばらくその大きな音を聞いていると、電子ストーブも借りているのでブレーカーが落ちたりしないかと不安になってきて、何度か声を掛けてみたものの音に掻き消されてしまうのか、なかなか反応が返ってきません。


「――田中君!」


 つい、らしくもなく声を張って名前を呼びました。すると呼ばれた当人はそうとう驚いたのか、動揺したらしい様子でドライヤーを取り落として、落ちた先の床の上で暴れるようにわめき散らし始めたドライヤーを見るなり、あたふたとしながらコンセントからそのプラグを引き抜きました。


「あ、いや……」


 それから、彼はまだ取り乱した状態でプラグを持ったまま、言い訳するかのような口ぶりで何かモゴモゴ言っています。


「何をその……焦っているかって……えっと……」


 まともに喋れそうな様子ではなかったので、ひとまず落ち着くことを促せば、彼はゆっくりと一呼吸置き、相変わらずプラグを握りしめて言いました。


「先週からずっと、何を話していいのか、わからなくって……いいや、これまでも大概だったんだけど……」


 ――情けない話なんだけど。と前置きをすると、田中君は言いづらいながらも、決心をつけたらしい面持ちをして、ぽつり、ぽつりと話し始めます。


「……その、神崎さんと……仲良くなりたくて……、どう振る舞えばいいのか、いろいろと、数野さんに相談……に乗ってもらってて」


「かずちゃんに……?」


「で、その数野さんに、しばらく連絡がつかなくなってさ。そしたら、一体何を話したらいいか……俺ってば、ここまで甲斐性がないんだって思ったら……」


 だから、ドライヤーを手放さなければ、会話が弾むことがなくとも平気だと、声が聞こえないのをいいことに、不誠実なやり方で自分はやり過ごそうとしたと。自責の念でつらくなってきたところに、私に大きな声で呼ばれたので、焦ってひどく取り乱したんだと、彼は言いました。

 ――情けない。そんなことはわざわざ前置きした通り、彼自身もわかっていることなのでしょう。それでも田中君は、一歩前に進んで私に関わろうとしてくれていた。

 それに、多少、善意の空回りこそあれ、雨の中駆けつけてきた田中君の姿を、私は確かに見ていたのです。


「どうすればいいかわからなかったのに、私を助けてくれたの?」


「――雨に降られる神崎さんを見つけた時、どうすればいいかなんて悩みもしなかった」


 口ごもり気味だった直前までとは打って変わって、その言葉だけは、はっきりとした声で発されました。


 とはいえ、元はといえば、ブレーカーは大丈夫なのかと聞きたかっただけなので、その件を改めて聞き直してみれば、設備が一般家庭にあるようなものとは違い、これぐらいは余裕なんだそうです。田中君は、なんだそんなことか、と言って握っていたコンセントプラグを手から滑り落としました。

 それから話が弾んだかといえば、別にそういうことはなかったけれど、そうして過ごしている最中さなか、ああそうだと思い立って、私は田中君にこう伝えたのです。


「――田中君、私に花束をひとつ作ってよ」


 私なりに感謝を形にしよう。そう思って、乾かしてもらったかばんから財布を取り出しつつ、重ねて伝えました。


「ええと、1000円ぐらいで、おまかせ」


「……ちょっと、待ってて」


 するとびっくりしたような、嬉しいような顔をして、田中君はいそいそと店の奥へと消えていきました。

 ――それから15分か、20分かほどの時間が、経ったのでしょうか。

 通り雨だったのか、すっかり雨も上がって、雲の切れ目から紅く夕日がにじみ出し、窓から差し込む光が床をだいだいに染め始めたのに、ふと気がつきました。


「お待ちどうさま」


 そろそろ頃合いだと思い帰り支度をしているところに、田中君がこじんまりとした花束を持って戻ってくるなり、それを差し出しました。


「ちょっと悩んだといえば悩んだんだけど、結局無難な感じでまとまってしまって……ガーベラと、かすみ草と、いい感じにリーフを添えた……そんな感じの……はい」


「ありがとう。ただの思い付きに付き合ってくれて」


「いやいや、俺の方こそ。……今の神崎さんは、お客さんなんだからさ」


 出来上がった花束を、片手で抱えるようにして受け取ると、それじゃあ、と一言告げて、私は店を出ました。


「またのご来店をお待ちしてます。――なんてね」


 店先で手を振る田中君に、しばらく振り返しながら歩く街道の向こうには、橙と紫の溶け合うような夕空が広がっていました。雨が上がったばかりで人の気配が少ない道ではあったものの、左腕にささやかな花束を抱えていると、不思議と私をひとりぼっちの気分にはさせなかったのです。


 それはそれとして、後になって少し気がかりに感じたことがひとつありました。ここ最近はどうしてか、何かひとつが解決すると、また何かひとつ問題が出てくることが続きますが、帰宅してから自室に買った花を飾ろうと色々考えていた時、ふと、そのことを思い出したのです。

 そういえば田中君は、定期的に連絡を取っていたらしいかずちゃんと、おとといを境に連絡が取れなくなっていた、と言っていたことを。

 ふたりの接点やきっかけはよくわからないのですが、私が田中君と連絡先を交換するよりも先に通じていたらしい雰囲気だったので、かずちゃんの交友関係は広いんだなぁぐらいに捉えていたものなのですけれど。


 翌日、かずちゃんと談笑でもしている折に、昨日の話をすると同時に何気なくそのことについて私は聞いてみたのです。

 かずちゃんが言うことには、通知がいかれてるんじゃないか。スマホがもうそろそろ寿命なのかもしれない。とのことだそうで、なぁんだ、嫌なことがあったとかじゃないのね。と安心して私が言ったところ、なんだか妙な反応をしたのです。


「うん。あの子は何も、悪くなんかないんだ」


 そうつぶやくかずちゃんは、どこか陰りのある表情をしていました。どうしたの? と聞いたところで、次の瞬間には見間違えだったと思わずにはいられないほど普段通りの笑顔がそこにあって、なんでもない。と返されてしまえば、それ以上は言及する気も起こらなくなります。


 私はその言葉を信用して、かずちゃんと連絡が取れないのは通知がおかしくなっているからとの旨を、そのまま田中君に伝えました。それから、何事もなく、また連絡が通じるようになったそうです。


 しかし、私はそのことを素直に喜べませんでした。何か、かずちゃんは何か隠し事をしているんじゃないか。小さな猜疑心が、その頭をひっそりとのです。

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