第3話 約束

 さて、田中君は一体どこにいるのでしょうか。

 今ある情報に基づくと、今のところは田中君は理科教室にはいないらしいということになります。

 そして、しばらくして住友君が田中君を見付けたとすれば、おそらく生物教室に来るはずです。

 それを待つのならば他力本願にもほどがありますし、もしかしたら見付からないかもしれません。

 もしくは、自分で探すとしても、私は図書室の当番を抜け出している身なので、田中君を見付けるのにむやみに時間を割くことも出来ません。

 ――そもそも、もし田中君がすでに帰ってしまっていたら、今日は諦めるしかないのですが。


 ああ、次はどうするのが正しいんだろう。


「はぁ……」


 つい、やけに大きなため息をひとつ。

 ため息と同時にあんまり席を外したままにしておくのもダメだと思い直して、図書室へときびすを返しました。

 この時、中途半端に真面目なせいで、決して効率的ではない方法を取ってしまっているなと少し自分に嫌気が差しました。

 ついでに必要以上に暗い気分になるのも嫌でした。そうして余計に気を病むのはいつものことです。


『あーあ、やだやだ』


 かずちゃんならこう言って笑うことでしょう。

 なぜか唐突に、私は心にかずちゃんを住まわせてどうにか気分を上げようと決心しました。

 数歩歩くごとに心の中のかずちゃんが呟くのです。


『気負ったってなーんにもないよ』


『気にする暇がある分には人生は短すぎるの』


「なーにうつむいてんのさ。なぎちゃん」


「……ん?」


 違和感に気が付くのに少し時間が掛かりました。

 もしくは、心の住民かと思っていたかずちゃんが聴神経に出張してきたのかと思いましたが、私の聴神経はいたって正常でした。


「おっと、何か考え込んでいるように見える」


「ん!」


 ようやく私は顔を上げて目と鼻の先にかずちゃんの顔を確認しました。

 ちょっとだけ私より背の高いかずちゃんの肩にぶつかってやっとのことでした。


「近くまで来てもなかなか気付かないなんて、頭使うようなことしてたんでしょ。危ないよ?」


「ごめん……ちょっとかずちゃんシミュレータ作動させてて……同時進行はキャパオーバーだったみたいで」


「えっ、大丈夫? というかなにそれ。その話詳しく聞かせなさいよ」


 大げさに眉を動かしてひんしゅくを表現するかずちゃんの顔を見ると、いろいろと吹っ切れてしまいます。

 思わず私は吹き出しました。


「ふふっ、あははっ! なによその顔」


「そっちこそなーに人の顔見て笑って!」


 怒ったようなことを言いながら、かずちゃんも笑い出します。

 この人はいつもそうなのです。私が落ち込んでいると見たらすぐに笑わせてくる人なのです。


「ああ、私もかずちゃんみたいになれたらいいのに」


「私も、なぎちゃんみたいに……いや」


 よく聞こえなかったので、その言葉の意味を知ることは出来ませんでした。

 聞き返しても、「なんでもない」と言うだけです。


「そんなことよりも、ね。なぎちゃん、今なにしてたの?」


「ああ、そうだった。図書委員の当番抜け出したままだった」


「珍しいね、どうしたのさ」


 そしてかずちゃんはわざとらしく口角を吊り上げました。


「いや、別に……」


「ああ、そう」


 意外にも、訳ありげな私の答えを掘り下げることなく、かずちゃんは私に背を向けて、歩きながら片手を上げました。


「ま、がんばって」


「かずちゃん……」


 確かにかずちゃんのおかげで気持ちは軽くなりましたが、そういえばかずちゃんのせいで忘れかけていたこともありました。

 その始末までかずちゃんはやってのけたのです。

 ありがと、と心の中で呟くと、心の中で『どういたしまして』とかずちゃんシミュレータが返事をしました。


 とはいえ、ただの思い過ごしかもしれませんが、時折ときおり見え隠れするかずちゃんの少し怖い部分を見た気がしました。

 どうしてか、かずちゃんは事の要点を掴んでいるかのように振る舞っているのですから。


 果てには、頭のおよそ半分がかずちゃんで埋まりそうになりながらも、どうにか無事に図書室にたどり着きました。

 ――多分、今夜はかずちゃんが夢に出ることでしょう。

 頭の中のかずちゃんを振りほどくように、私は足早に図書室の中へ入りました。

 ついでに何か気をらせるものはないかと少しまわりを見回しました。


「あッ……」


 ありました。確かにありました。


「たっ、田中君……?」


 それは、さっきまで私がいた貸出・返却口のカウンターの手前に立っている男子生徒でした。

 その時の衝撃といったら、たまに台所などに現れる黒くてテカテカしたすばしっこい虫を見付けたぐらいのものでした。

 例えが悪い自覚はありますが、一瞬思考停止するところなんかは本当にそっくりな感覚だと思うのです。


「えっ」


 その男子生徒は、潤滑油の渇れた機械を連想させるぎこちない動きでこちらに振り返りました。

 さらに、その手には先ほどの園芸の本を持っていました。

 間違いありません。彼こそが探していた田中君です。

 つまり、最初から探しに行かずに図書室で過ごしていれば田中君は見付かっていたということになります。


「か、神崎さん……?」


 どうしてか、彼は震えた声を発しながら顔を赤くしていました。その額にはうっすらと汗がにじんでいました。

 ひっそりと膨れ上がるやり場のない虚しさを抑えつつ、私は彼に声を掛けます。


「だ、大丈夫……?」


 私の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、彼は何か怖いものでも見たような調子で続けて話しました。


「やっ、いや、ま、まさかとは思うけど、その、俺のしおり……持ってたり……」


「ああ、持ってるよ。これだよね」


「ああっ!」


 私が差し出したとたん、彼はしおりを奪い取ってすぐふところにしまい込んでしまいました。

 その様子を怪訝けげんな気持ちで見ていると、彼はハッとした様子で再び口を開くのでした。


「わ、わざわざ届けてくれて、あ、ありがとう。そ、その、俺男なのに、こんなしおり持ってるなんて、女々しいよねっていうか……えっと……」


 なるほど。どうやら彼はしおりのことを気にしていたらしいと私は察しました。

 そうしてやっと彼の変な態度に納得出来たのです。

 私は一呼吸置いて、あの本とあのしおりを見て思ったことを言葉にしました。


「そのしおりって、田中君が作ったの?」


「えっ、うん。そうだけど」


「やっぱり、自分で育てた花なの?」


「そ、そう……!」


 最初、私の言葉に戸惑っていた田中君の表情が穏やかになっていきました。


「ええと、私、本のしおりとか集めるのが好きで、家にコレクションとかが束になってあるんだけど、自分で作ったりとかしないから……、そういうの、楽しそうだなって、思う」


「えっと、俺のこと、別に変って、思ってない……?」


「そんな、しおりぐらいで変だなあなんて思ったりしないよ。むしろいい趣味してるな、ぐらいで」


 せめて、そう悪くは思っていないよと伝わるように言葉を選びました。

 本当は、彼を遠ざける必要もないのですから。


「ああ、こんな恥ずかしがってるのが恥ずかしいな……」


 まだ落ち着き切らないらしい様子で、田中君は頭を掻きました。


「……親がガーデニングやっててさ、それで俺も小さい頃から花によく触れてて、育て始めたらけっこう楽しかったんだ。毎日見てても案外飽きないものなんだよ」


 やや伏せ目がちながらもその顔はとても嬉しそうで、本当に彼の花への思いがひしひしと伝わってくるようでした。


「なるほど。だから田中君は生物部に入ったんだね」


 花も生き物だからねと付け足して言いました。

 その時に、あっ、という声と共にあることを思い出して、その上からさらにもうひとつ付け加えました。


「そういえば、住友君が探してたよ。理科教室の掃除で人手が必要だって」


 何気ないことだと私は思っていたのですが、生物部の話を始めてから、特に住友君の名前を出したあたりから、彼の嬉しそうな表情が、どこか浮かないものに取って代わっていました。


「あー、そうなんだ……」


 気の進まないことでもあるのでしょうか。

 彼らの間にあるものを何一つとして把握していないので、私からは何も言うことはできませんが。


「じゃあ、またね。神崎さん」


 ただ田中君の背中を見送るだけに、留めておきました。




 あれから1時間ほどが過ぎ、図書室を閉める頃合いになりました。


 がらんどうになった図書室を閉めてしまって、職員室に鍵を持っていくまでが当番の役目です。

 ちなみにこの時、まわりに誰一人としていなくて、話し声や気配がまったくない状態になってしまうと、私の変な体質が出てしまいます。

 だから、かえって誰かが通り掛かってくれた方が気が引き締まって安心できるのです。

 とはいえ、そんなものは杞憂に過ぎません。

 学校という施設にいるかぎりは、どこかしらから他人の声や気配がするもので、校内ではめったに私が泣くことはないのですから。


 ほら、早速誰か来たみたい。


「あの、今日はもう図書室は……あれ?」


 完全にこちらに意識を向けて歩いてきた人物に念のため断りを入れようと思ったら、その顔は少し見覚えのある顔でした。


「どうかした? 住友君」


「ん」


 私の前まで来て、住友君は手に持ったものを差し出しました。


「……えっ。なに」


「人手は多い方がいい。やることが無いなら手伝ってもらおうか」


 その手に握られたものは新品の雑巾でした。


 いや、なんで? なんで私にまで??


 私の思いは虚しくも誰にも届かず、住友君の眼光は妙に鋭くこちらを見据えていました。その瞳には得体の知れない怖さを感じます。


「あーっ!! やっぱりそうだ!!」


 ダダダッと走る音と共に現れたのは田中君。

 滑り込むようにして私と住友君の間に割り込むと、私に向かって両手を合わせました。


「神崎さんホントごめん!! 住友のやつ決めたら一歩も引かないから……止められなかった俺を許して!!」


「許すも何も……。ええと、私も協力しなきゃダメなの?」


「手を貸すか、ここで時間を浪費するかの二択だ」


「ええー……?」


 どうやら恐ろしい人に目を付けられてしまったようです。


 実は私以外にも住友君の魔の手に掛かった人がいるらしくて、理科教室には意外と部員ではないとおぼしい人もいました。


「おい待てここの汚れが取れてないだろ!?」


「さだよっちゃんは几帳面きちょうめんすぎるんだっての!」


「はは……別にゆっくりでいいからね……べつに……」


「そこのお前! 住友君に手間掛けさせるな!」


「まあまあ、落ち着いて」


 清掃現場は想像以上ににぎやかでした。

 そんな様子を眺めて苦々しく笑いながら、田中君は私にこう言いました。


「なんか妙に騒がしくなってるけど、予定より早く進んでるみたいなんだ。だから、ちょっとの辛抱だよ」


「本当のところはどれぐらい掛かる予定だったの?」


「うーん。明日の部活の時間ぐらいまでの予定だったらしいよ」


「……住友君の執念って恐ろしいね」


「まったくもってその通りだよ……」


 蛇口を丁寧に拭きながら田中君は湿っぽい息をきました。


 そして手伝った甲斐かいあって、理科教室合同清掃はついに終わりの時を迎えました。


「まさかこんなに早く終わるとは思っていなかったけど、住友君に振り回された人たちは特にご苦労様でした。化学部・生物部員一同感謝しています」


 最後に化学部、生物部共通の顧問の先生の言葉で締められ、やっとみんなは退却し始めたのでした。

 私も教室から出ると、ふいに声が掛けられました。

 田中君の声です。


「神崎さん。ちょっといい?」


「いいけど、何?」


 田中君は改まった態度で私の方に向き直ります。


「今日はいろいろとありがとう。うちの部活のことまで手伝ってくれたし……」


「いやそんな。部活のことはだいたい住友君のせいだから……」


 私の言葉を受けてちょっと申し訳なさそうに笑い、さらに田中君は続けました。


「だからさ、俺からお礼としてちょっとしたものを贈りたいから、今度の日曜に商店街にでも行かない?」


「えっ、そんな」


 それは思ってもみない展開でした。

 そんなに気を使わなくてもいいのにとも思いました。

 ここでふと私の田中君への警戒心が昨日よりも和らいでいることに気が付きました。

 田中君の負担を抜きにしたら、行ってもいいかな、と思う自分がいるのです。


「……やっぱり、迷惑だったりする?」


「あ、いや、そういうわけじゃ……」


 私はどう言えばいいのか、もしくはどうすればいいのか、微妙な気持ちゆえに悩んでいました。


「ちょーっと失礼しますよー?」


 悩んで答えを出し渋っていた時、ものすごく聞き覚えのある、明朗とした声が聞こえました。


「たーなか君ったらウチのなぎちゃんになーに言ってらっしゃるのかしらねー?」


「おっ、えっ、数野さん……?」


 まさかのかずちゃんの乱入に予想の斜め上を突かれました。

 それにしても、やたらとハキハキと喋っているのが少し気になります。いい声だけど。


「もちろん、私も付いて行ってもいいんですよね。ね!?」


「う、うん……」


「ということで決定。日曜日に3人で商店街に行こーね!」


 破竹の勢いで話に決着がついてしまいました。


 いや、さすがかずちゃん……?

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