第2話 忘れ物
朝五時。私は目を覚ましました。
白のカーテンから洩れ出す日の光は、まだ少なく感じられます。
私は、身体を半分起こして、ううんと伸びをして、数回
目を覚ましたばかりの私の視界はとてもぼやけています。
慣れ親しんだ眼鏡を手探りで探し当て、掛けました。
ずいぶん早く起きてしまったことを知った私は、もう一度寝てしまおうかなと一瞬考えましたが、癖だとはいえせっかく眼鏡を掛けたので立ち上がることにしました。
台所に向かうと、ラップの掛かった昨日の残りが机に置いてありました。
私はそれを電子レンジで温めてから、朝食として食べることにしました。
ゆっくりと腰掛けて朝食を食べていると、今起きたらしいお母さんが台所へとやって来ました。
「おはよう。早いじゃない。熱は下がったの? 具合は悪くないの?」
「おはよう。まだ測ってないからわからないけど、具合はよくなったと思う」
「そう」
お母さんは一言返事すると、私のお弁当の用意を始めました。
――ガチャン、トントントン――
朝の台所はそれらしい音で満ちていました。
なんとも心落ち着く音です。
「食べたらちゃんと熱測りなさいよ」
「はぁい」
平和ボケしたみたいな気分で私は返事をしました。
食べ終えた私は、母の言った通りに熱を測りました。
私は変にずる賢いわけではないので、カイロを使ったりお湯を使ったりして熱が出たように仕込むことはしません。
それならなぜしょうゆを飲んだんだと言われれば、あれは魔が差したんだと私は言い訳するでしょう。そう、魔が差しただけなのです。
ピピピピッと体温計が鳴り出せば、それは審判の時が来たと知らせる合図だと私は悟ります。
脇に挟んでいたものを取り出して見ると、その小窓のような液晶は「35.5」と映し出していました。
その値で、なんとなく残念な気分になりました。
正直な私は、今日は学校に行くのです。
今日は特別早起きをしましたが、私はいつも早くに学校に来る人でした。
教室の鍵だって私が開けます。いつもなら。
昨日は私が休みだったので私が教室の鍵を開けることはありませんでした。
でも今日は、私が来る前から教室の鍵が開いていました。
妙な胸騒ぎがして、おずおず教室を覗くと、そこにはあの男子が、一昨日私の泣き顔を見て、そして昨日私の家までプリントを届けに来たあの男子がいたのでした。
はっきり言って、嫌な予感がしました。
「あっ、神崎さん。おはよう」
「お、おはよう……」
私は苦虫を噛み潰したような顔になるのを必死に抑えました。
きっと今の私の顔には、不自然な笑みが貼り付いていることでしょう。
「元気になったんだ。よかった」
「うん。昨日は、ありがとう」
「授業ノートとか、写すなら俺の貸すよ」
「あはは、後で貸してもらおうかな……」
なんでこの人はわざわざ早く来てまで私に絡んで来るんだろう。
私はつい、彼を歪んだ見方で見てしまっていました。
ただ偶然にも早く起きて、偶然にも私より早く来ただけかもしれないのに、一昨日と昨日の出来事のせいで彼を怪しむ私が生まれてしまっていたのです。
しかし、少しだけ、信用してみたいという気持ちも、確かにありました。
だって、私に……少なくとも手を差し伸べようとはしてくれているのだから。
「えっと、田中、君?」
「はい」
彼は口元をほころばせながらこちらを向きました。
「一昨日のことなんだけど……」
私がそう言うと、彼はあーあー! とハッとしたように声を上げました。
「あの時どうして泣いてたか話す気になってくれたの?!」
あっ、これは絶対話したくない。
そのリアクションから私は正直に話す気が無くなってしまいました。
「ああ、えっと、あれは、目にごみが入っただけで……」
「目に、ごみ?」
「その、そんなことであまり騒がれると私困っちゃうから……」
「困……る……?」
一気に彼の目から光が無くなっていく様子を見てしまいました。
なんだか悪いことをした気分に苛まれます。
「えっと、俺、迷惑掛けた……?」
「いや、迷惑ってほどじゃ……ただ、お願いってだけだから」
私が一歩引いた態度を見せると、ちょっとだけ彼の目が明るくなった気がしました。
「なんというか、ごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそ」
そして話は謝り合って終わったのでした。
話が終わると、二人きりの教室はちょっと居心地が悪くて、ついその教室を抜け出して私は隣のクラスへと向かいました。
隣のクラスには唯一の友人がいるのです。
私が向かった教室の中では、明朗ではつらつとした声が響いていました。
その声の主は、こちらに気が付くと、そのショートヘアを大きく揺らして振り向きました。
「おっと、なぎちゃん。今日も早いね」
「早いのはそっち。朝から教室で発声練習なんて、気合いがすごいよね。ホント」
彼女の名前は
「いやぁ、恐れ入りますぅ」
「かずちゃんったら……」
彼女は放送部員で、その活動にはまっすぐ取り組んでいるのです。
その姿勢には、私も見習いたいと思うほど、キラキラしたものを感じています。
「まあ、他のやつらが来たらやめるんだけどね」
「当たり前でしょ。というか、部室でやればいいのに」
「部室はちょっと狭いからね……あと朝の風に当たりたいっていうか」
「ああ、そう」
「人のこだわりを軽くあしらうんじゃありませんーっ!」
そう言って彼女はむくれて見せました。
それは、いわゆる冗談なノリで、むくれたような仕草をしているだけなのは私もわかっていました。すぐに彼女の態度は直るのです。
「で、なぎちゃん。朝の読書はいいの? 活字は恋人! じゃないのぉ?」
続いて、どこかからかったような調子で彼女は喋り出しました。
「冗談はよしてよ。……今日はそういう気分じゃなかったから」
「へー、なぎちゃんもそんなことあるんだね。私も曇りの日とか練習するとき気分上がらないし」
「そうなの?」
「ん? そうだよ?」
まさか彼女も練習の気分が上がらない時があるとは少し驚きでした。
「なぎちゃんのは、どういうわけなの?」
私が驚いている間に、すかさず彼女は切り込みました。
私は小さくうめいて、コホンと一度咳払いをしました。
「えっと、一昨日クラスの男子に、帰りに泣いてるところ見られて……で、今日はその話をチラッとその男子としたんだけど、ちょっと教室の居心地が悪くて」
ちなみに、彼女は私の変な体質のことを知っています。
「はーん。それはそれは」
彼女はわざとらしく悪そうに笑いました。
「えっ、なに?」
「なんでもなぁい」
そのあまりにわざとらしい様子に、私は恐る恐る聞いてみました。
「もしかして、話、聞こえてた?」
「……当たりぃ」
「ヒャッ!」
彼女が首をカクンと傾けて不気味な言い方をしたので変な声が出ました。
「ま、私の予想からすると、その子はそんなに悪い子じゃないだろうし、ただ心配なだけなんじゃないのぉ?」
「心配なだけって……」
「まあすぐに信用出来ないだろうけどさ、友達が増えるチャンスだと思えば? 多分悪い仲にはならないと思うよ?」
「友達、ねぇ」
かずちゃんがそう言うなら……。
ほんの少しだけ、踏み込む勇気が出た気がしました。
いくつかの授業を終え、時は放課後。
私は、図書委員の当番があったので、図書室にいました。
貸出・返却口となるカウンターの内側で、ぼんやり本を読んで過ごすのがなかなかリラックス出来る時間でした。
それこそ、本を借りたり返したりする人の相手を合間にするぐらいの気分で。
「あの、本を返したいのですが」
「はい、承りますね」
ああ返却だなと差し出された本を受け取り、完全に業務体制で流れるように返却手続きを行いました。
そして、返却に来た人が誰だかを知らないまま、なんとなく興味が移ったので私は返ってきた本を読み始めたのでした。
その本は、園芸の本でした。
きれいな花の咲かせ方が、花の種類別にまとめられた本で、園芸をやっていなくとも、添えられた写真と挿し絵で癒される一冊です。
最後には作者の後書きがあり、それは、「なによりも育てる人の愛情が大切です」と締められていました。
その本を最後まで読んだ私は、あることに気が付きました。
最後のページ、というのも、裏表紙の裏のところに、押し花のあしらわれたしおりが挟まっていたのです。
そのしおりの端には、「タナカ ヨシヒサ」と刻まれていました。
私はその文字列を読み上げるイメージをしてから、やっとびっくりしました。
タナカヨシヒサ……あの田中君じゃないの! と。
つまり、このしおりを届けるためには、私はまたあの泣き顔を見られた男子と顔を合わせなければいけないのです。
これが、友達が増えるチャンス……?
かずちゃんのあの言葉が思い起こされます。
彼女は、私に友達と思える人が彼女自身以外におらず、その上、私がもっといろんな人と仲良くしていきたいと思っていると知っているからあんなふうに言ったのです。
話し掛けて、変な感じになったらどうしよう。
そんな懸念でずっと孤立していた私が、ついに一歩を踏み出すときが来たのかもしれません。
今なら図書室にはあまり人はいません。ほんの少しなら席を外しても何ら問題が無いように見えます。
少しそわそわと落ち着かない気持ちで、しおりを持って私は図書室を抜け出したのでした。
確か、確かあの人の部活は……。
どうしよう。さっぱり思い出せません。
せめてもう少し彼が図書室に居てくれたらこれを渡すのも楽だったかもしれません。
もしくは、私があの園芸の本を読む前にしおりに気が付けばよかったのかもしれません。
そんなことを考えながら歩くのを一度やめました。
闇雲に彼を探したところで見付かるはずもないのです。
そんなところに通りかかった男子生徒がいました。
決して私が探している人ではありません。
また別のクラスメイトであり、私と同じく図書委員の住友君でした。
「あっ、住友君。あの、ちょっと聞きたいことが……」
一か八か、田中君の部活を知っているか聞いてみることにしました。
なぜ一か八かといえば、私の目からみれば、彼は他人のことには全く関心がなさそうな印象だったからです。
「……」
私の声が無事届いたのか、彼は黙ったままこちらを向いて立ち止まりました。
――なんとなく機嫌が悪そうに、ジトッとした目付きをしていますが。
「ええと、田中君の部活って何か知ってる? 探してるんだけど……」
恐る恐る私は聞きました。
次の瞬間、住友君の重そうな口が開いたかと思えば、彼は淡々とした調子で話し始めます。
「田中は生物部員だ。だが、生物教室にも化学教室にもいない。彼は所謂幽霊部員というものだからだ」
「え……」
「しかし今日はそれを放置するわけにもいかない。今は生物部に人員が必要で、僕自身も田中を探しているところだった」
詳しく話を聞いてみると、住友君自身も生物部員で、今日は化学部と合同で理科教室の清掃があるらしく、それが終わらないと普段通りの部活動が出来ない決まりなんだとか。
――ちなみに、どうしてか幽霊部員の多い生物部は、顧問教員が共通のためか、何かと化学部と一緒くたにされているらしいです。
「僕は一刻も早く清掃を終わらせて作業をしたい。せめて田中1人ぐらいは欲しいのだが……」
「田中1人……」
やや気になることはありますが、気になったからといって他人の思考がわかるはずもないのでそこはスルーしましょう。
とにかく、私は忘れ物のしおりを届けるために田中君を探していて、かつ住友君も人員確保のために田中君を探しているのです。
つまり、私と住友君には、今共通の目的があるのです。
「……田中君探し、手伝うよ。私も用件があるから」
そして協力した方がお互いのためだと思って、私は口を開いたのです。
実はそれは、きっと他人が思う以上に、勇気を奮って放った一言でした。
「見付けたら生物教室まで頼む」
それだけ答えて、ぶっきらぼうな住友君は、くるりと身を
え、それだけ?
あの提案を口にするのに気負った分だけ、私は肩透かしを食らったような気分になりました。
しかし住友君を呼び止めようにも、彼の足取りは意外に速く、あっ、と声を発した頃にはすでに声が届かないほどの距離が開いていました。
そして間もなく姿が見えなくなってしまったのです。
もし住友君がここに戻ってくるのなら、もう少し居場所のヒントが欲しかったと私は言うかもしれません。
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