第7話 お互い様
眼鏡を外したその女性の顔は、確かにあのウェイトレスさんでした。ああ、どうりで気配が感じられなかったわけです。
あの時、ぼんやりしていた私はともかくとして、かずちゃんも気配を感じられなかったあのウェイトレスさんなのですから。
いや、それにしても、どうして現れたのでしょうか?
そう疑問に感じていると、ウェイトレスさんは手で制するような仕草と共に「思うに今、私のことを怪訝に思っているね? わかるさ。私もそこまで鈍くない」と言います。そして続けて話しました。
「別に、ただの趣味の悪い変人として君らの前に現れたつもりはないんだ。ちゃんと大義名分あって私はここにいるからね」
どこか
「……それで、その大義名分は?」
隣から田中君の声が聞こえます。普段の柔和そうな感じに対して、やや強い言い方。まるっきり信用していなさそうな調子なのです。
情けないながらも、突然現れたウェイトレスさんに声を上げて驚いた時、私の声に気付いて彼は駆けつけたらしいのですが、そんなに声が大きかったかと今になって恥ずかしくなってきました。
いやまあ、そばに付いてくれるのは、精神的にある程度支えになるので、ありがたいにはありがたいのですが。
「その大義名分とは――」
「とは……?」
私が相づちを打つと、ここで一拍休みが入ります。時間が止まったかのように、ウェイトレスさんは怪しい笑みを浮かべて静止しているのです。
そんなにもったいぶるようなことなのでしょうか……?
「それは」
「それは?」
「――もうひとり女の子がいただろう? その子の忘れ物を届けにきたのさ」
「えっ」
別段大したことではなかったようです。そしてただの親切でした。
そのために私は驚かされたと思うと多少もやもやする節もありますが、もしかしたら、ただ気配を消して歩く癖があるだけの、ちょっとだけ不思議な人なのかもしれません。ちょっとだけ不思議な人の定義にもよりますけど。
「つまり、ええと、その忘れ物を私づてに持ち主の元へ返そうと、私のところに?」
「そういうこと。……これ、あの子のハンカチでしょ?」
そう言いながら、ごそごそと持っていたカバンから紙袋を取り出し、それに入っていた物をこちらに差し出します。
それは、薄橙のガーゼハンカチでした。なるほど、確かにそれに見覚えがあります。学校で、しばしばかずちゃんが使っているものとよく似ているのです。
「そうだと……思います。わざわざありがとうございます」
「いいや、お礼には及ばないよ。むしろ謝りたいぐらいさ、あんなに驚かしてしまって……それでもって彼が駆けつけてしまってさ」
話すその顔はもう怪しい笑みを浮かべてはいません。というのも、少しは申し訳なさそうな笑い方に見える気がしたのです。
「……えっと、早とちりだったみたい、かな」
田中君は恥ずかしそうな様子で一言呟きました。そして、ウェイトレスさんに向き直って「ごめんなさい」と小さく言いました。
「いいんだ。純粋な正義感だったんだろう? 私もそんなに人相や挙動が良くない自覚がある。怪しんだって仕方がないさ」
対するウェイトレスさんは、ガーゼハンカチを再び紙袋に納めつつ答えました。
「それじゃあ、あとはよろしくね」
そうやって紙袋を私の手に持たせて、ウェイトレスさんは立ち去っていきました。
結局のところ、私はひとりきりでかずちゃんの元へ向かうのは断念しました。誰もいない道はしばらく続いていたのですから。
田中君は、「いいの?」とばかり聞いてきましたが、私はただ「大丈夫」と答えて、大丈夫じゃない状況を退けようとしたのです。
――泣き顔をなんともなかったかのような状態にまで戻すのは、けっこう時間が掛かりますし、その分田中君の待ち時間は増えてしまうでしょうし……。
そんなわけで、てくてくと歩いて10分ほど。ひとりでは体感長かったであろう時間ですが、田中君が花の話なんかをしてくれたので、案外すぐでした。
あのカフェの正面にまっすぐ立っていたかずちゃんは、私たちに気が付くと、あははと笑い始めます。
「結局ふたりで来たんだ。まあ想定内想定内」
「話があったんじゃないの?」
「それは別の機会でいいよ」
かずちゃんはずっと半笑いです。田中君はなんとも言えなさそうな顔をしています。そしてそれを目ざとく見つけては、「あー、そんなに重大な話でもないから気にしなくていーよ?」と一言付け足しました。
――思うに、私にひとりで来させること自体が、私に向けた試練のようなものだったのでしょう。
もし人のいない場所を歩くことがあれば、実際に泣いてしまいそうになりましたが、そういう場面に踏み込むことで、「どうしてこうなるようになったのかな? その感触ってどうだろう?」といった疑問を通して、こんな体質になった原因を知るきっかけを得ることができるかもしれません。
まあ、
「ところで今、何時?」
「え? ああ……今はね――」
「おふたりさん。これからどこかに行くとしても、構わないかな?」
「お、俺も?」
「当然! ……私ね、人数多い方が好きなのね」
「ええと、どこに行くつもりなの?」
また何か始まったかなと内心感じながらも私が聞くと、かずちゃんはにっこりといい笑顔を浮かべました。
「あの観覧車に、みんなで乗りたいの!」
実に朗らか、そして無邪気な声とともに、私から見て左側の上空を指差しました。
4階建てのそこそこ大きな建物の上で、大きな存在感を放っているそれこそが、かずちゃんが指差したもの。私たちの過ごすこの町の、いたるところから見える謎の観覧車こそが、かずちゃんの乗りたがっていた観覧車なのです!
いつか聞いた話によると、かつて栄えていたという屋上遊園地と呼ばれるもので、数少ない存在なのだそうです。……それでもすぐ近くにあると、とてもそんなような気はしませんけど。
「私さ、観覧車乗ったことないんだよね」
いつも以上に弾んだ足取りでかずちゃんはエレベーターへ乗り込みます。顔色は薄紅色。エレベーターの中でも落ち着かないのか、右足へ、左足へ……と重心を交互に移して、ゆらゆらとしていました。
行く先はもちろん屋上。階層が上がる度にかずちゃんの横揺れも大きくなり、ショートヘアがふわりふわりと揺れるのです。
「そんなに楽しみ?」
「大したことないって思ってるでしょ? これが私からすれば大事件なんだなぁ」
「俺あそこ行ったことあるけど、小さい頃だったからかな。怖かったかなぁ……」
「ええ? 付いて来ても大丈夫だったの……?」
「大丈夫…………たぶん」
他愛ない話をしているうちに、エレベーターは目的の階で止まりました。
もうかずちゃんのボルテージは最高潮です。「行こう!」と私の手を引っ張って駆け出してしまいました。田中君も置いていかれまいと走ります。
遊園地特有の雑多に交わった音の中で、ゴゴ……ゴゴ……と装置の回る音が目立ってきました。つまり、もう目の前には――
「あぁ〜!」
眼前の観覧車を
観覧車の手前にいたスタッフさんに料金を払って、そしてそのままゴンドラに乗り、「それではごゆっくりとお楽しみください」の言葉で見送らます。そうやってついに私たちは上空へと昇り始めました。
「あぁ……ドキドキしてきた……」
向かいのイスに腰かけて、田中君が緊張したように言います。高所恐怖症とかいうやつでしょうか。
私は案外高いところが大丈夫で、そういった場所で足が震えた記憶にあるのは、橋が透明なガラスでできていて、その下の海が見えるみたいな建造物の上に立った時ぐらいです。
「本当に乗っても大丈夫なのかな……」
まだまだ私たちを乗せたゴンドラは出発したばかり。まだまだ上へと昇っていくのに、この調子で大丈夫かなと不安にならずにはいられません。
隣に座っているかずちゃんといえば、相変わらず楽しそうにしています。
「ほおお! すごい! 建物が小さくなっていくよ!! もっと上に行ったらもっと小さく見えるんだろうね!! そりゃそっか!」
窓に張り付いて子供みたいにはしゃぐかずちゃんを見ていると、そんな不安も、まあいいかと思える気がしました。
――と思ったのも、最初の方だけでした。
観覧車に乗ってどれぐらい経ったでしょうか。5分ぐらいでしょうか。
ほどなくして田中君は無言になりました。やっぱりそんなに得意ではないのでしょう。ぼんやりとした様子で上の方をずっと眺めています。そこまでは想像できたことなのです。
「待って高い。こんな高いの? えっ、やばい」
なんということか、かずちゃんまで怖がり始めたのです。
本当のことを言うと、これは私のせいなのです。きっかけは、私が何気なく言った一言。
『この高さから落ちたら落下速度はどれくらいになるんだろう?』
――ただ、興味があっただけなのです。物理の授業で自由落下の速度の求め方なんか習っていたら、計算したくなってしまうのが性というものだと思うのです……。
『ええと、一番高いところで50メートルぐらいだとすると……秒速31メートルぐらい……? 時速だと111キロメートル……?』
計算結果まで口に出したのが間違いだと悟った頃には、もう遅かったのです。
「アッ! アアッ! なんで?! 何のためにこんなに高く?? 落ちたら高速道路以上の速さで地面にィッ!!」
今度はぎゃあぎゃあと騒ぐようになってしまいました。
「ああ、ええと、実際には空気抵抗があるから言ったほど速くはないと思うんだけど……あ、でもどんなに遅くてもただでは済まないか……」
「もう! 何言っても落ちたらダメじゃん!!」
安心させようと声をかけるも余計な一言になってしまったようです。
もうこれ以上は何も言わず、そっとしておこう。そう決心して観覧車で時間を過ごしました。
そしてやっとゴンドラから降りた時、かずちゃんはよろよろと近くのベンチにへたり込みました。
その顔は下を向いているので確認はできませんが、相当騒ぎ疲れたんだと思います。
「ごめんって」
「許さん……」
「ソフトクリームあげるから」
「許す!」
勢いよく上がった顔はいつものかずちゃんでした。そして売店で買ってきたソフトクリームを差し出せば、すぐにそれを受け取って口にしたのです。
切り替えが早いというか、調子がいいというか……私はつい苦笑してしまいます。
「自分以上に怖がってたから逆に冷静になってそんなに怖くなかったよ」
しばらく静かだった田中君も苦々しく笑っています。
もはや立ち直ったらしいかずちゃんは、ベンチの背もたれに
「ま、やりたいことができたし、満足といえば満足だけど」
「それならよかった」
「また、機会があったら来たいかな。……その時は落ちる話をしないでね?」
「あはは。気を付けるね」
しばらくの談笑の後、ゆっくりと回る観覧車に別れを告げ、私たちは帰り路につきました。私を真ん中にして、左にかずちゃん、右に田中君という横一列でアーケード街を抜けました。
そして駅前。ここで私はふたりとはお別れになります。
間もなくやってくるであろう帰りの電車に下がる踏切。少し急ぎ足で歩きながらふたりに手を振って、私は駅に入りました。
――ガッタン、ゴットン――
電車の座席に座り、スマフォを取り出そうと、カバンの中を探っていた時でした。
「あっ」
私は、ある失敗に気が付いて、小さく声を上げました。
――かずちゃんの忘れ物の存在を、すっかり忘れていたのです。カバンの中のあの小さな紙袋を見つけて、しまったとひとり悔やみました。
それを思い出すと芋づる式に、もうひとつのことを思い出します。
あ、かずちゃんも私の服返してくれてない!
その後かずちゃんにメッセージを飛ばしたのは言うまでもありません。
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