第11話 沈黙のエモーション

 青井さんの件から、一週間と経たないある日の朝、私はやはり朝早くから登校して、いつも通り職員室で鍵を借りて教室に向かいました。しかし、階段を登り目的の場所へ近づくと、何かがいつもと違うことに気が付きます。やけに静かな教室の前の廊下に差し掛かった辺りで、それは確信に変わりました。

 ――いつもなら、朝練をしているはずのかずちゃんの姿がどこにも見当たらないのです。

 私は唖然あぜんとして、空っぽな二つの教室を見比べて、ひとまずは自分のクラスの鍵を開けました。自分の席に着いて、日課の読書を始めようにも、落ち着かないほど周りが静かなので、手元もおぼつきません。あれほど毎朝ほがらかな声を響かせていたかずちゃんが、朝練もせずに、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

 もう少し待てば来るかもしれない。そう思ってしばらく待ってみましたが、教室は相変わらず静かなままです。泣きそうになりながらも人の気配を求めてベランダに出れば、透き通るように真っ青な晴天が眼前に広がりました。こんなにも天気が良い日なのに、かずちゃんはどうして練習もせずにいられるのでしょう。ついに一筋の涙がほほつたいました。

 早朝の学校はとても静かで、本当のところは、泣いてしまう条件が揃いかねない状態だったけれど、かずちゃんが早くから発声練習をしてくれているおかげで、そうはならなかったのでしょう。もしかしたら、私のこの体質をわかっているから、彼女はあえて隣の教室で発声練習をしていたのかもしれません。

 ああ、どうにかしなければ。私一人でどうにかしなければいけないのに、イレギュラーなこの状況は私の思考を大いに乱しました。たったこれだけのことで冷静さを欠く自分に嫌気が差して、なおさら涙は止まりません。

 ――泣かないで。どうか、泣かないで。誰かに見られでもしたら、また言われてしまう。泣くことはいけないことだから――。いつの日か、自分に言い聞かせたように、何度も、何度も心の中で唱えました。

 しかし、なんとも皮肉なことでしょう。まだ泣き止んでもいないのに、背後から教室の引き戸が開く音が聞こえたのです。そして教室に入ってきた足音は、間違いなくこちらに近づいてきて、ベランダの手前あたりで止まりました。


「神崎さん、おはよう」


 最近やけに早く来るようになった、田中君の声でした。


「……えっと、どうしたの?」


 振り向くこともできず、返事をすることもできない私の様子に、田中君は困惑しているようです。このまま振り返っても、曇った声を出しても、もしくはそのどちらもしないでいても、田中くんを困らせてしまったり、あるいは面倒なことになってしまうでしょう。とにかく泣いていることを知られたくない私は、落ち着くまでは押し黙るしかないのです。


「そういえば、やけに静かだと思えば、数野さん、まだ来てないんだね」


 背後の気配は一歩後ろに下がり、どこかの椅子に座ると、また口を開きました。


「毎朝早くから来て、となりの教室で練習してるんでしょ? 俺なんか、部活に全然行けてないからさ、部活に真摯しんしに向き合えてる数野さんってすごいなって思うんだよ」


 そしてそのまま一人で話し続けるのです。田中君が一体何を思ってそんな話をしているのかはわかりませんが、私が何も言わなくとも話を続けるので、しばらく聞いていると、どうにか声ぐらいは出せるほど落ち着いてきました。


「――だからさ、数野さんって、神崎さんにとっては、自慢の友達なんじゃない?」


「……そう、そうだね。ええと、どうしてかずちゃんのことを?」


 振り向くことはまだできませんが、やっとまともに話すことができるようになったので、返事をするついでに気になったことを聞くと、田中君は少し間を置いて、答えました。


「本人がいるところだと、上手く聞けなさそうだから?」


「何を?」


「二人が仲良くなった時のこと」


 多少釈然しゃくぜんとしないところもあるものの、彼が相当に不器用だったと考えれば、話の流れを作ろうと前置きとして話していたということでしょうか。

 なるほど、かずちゃんのことですから、自分の話をされているのを聞いたら、すぐに飛び込んでちょっかいを掛けてきそうなものです。そういった邪魔が入らない今なら聞けるかと思ったのでしょう。


「……そうだなぁ、かずちゃんとは中学生の頃からの仲でね」


 私は相変わらず外を眺めたまま、田中君に話し始めました。



 ――中学二年生に上がるか、上がらないかぐらいの頃、当時から本の虫だった私は足しげく図書室に通い、あまりにもいつもいたものですから、図書室によくいる人は大抵把握していました。その中に彼女はいたのです。

 クラスも違っていて、会話もすることもなく、特に接点もなかったのですが、それでも、たまにこちらをちらちらと気にしている様子だったものですから、最初はどちらかというと苦手な印象がありました。静かで落ち着いていられる空間だった図書室が、その子のせいで気が散ってしまうようになったのです。

 だから、図書室でその子を見つけると、私は本を借りるなり返すなりして、すぐに出ていくようになりました。しかし、やっぱり本が読みたいので、図書室の利用自体はずっと続けていました。そうして過ごしていたある日、ついにその子に声を掛けられたのです。


「あの、これ……」


 緊張したような顔をして、その子は何か差し出しました。白い封筒です。それを私は恐る恐る受け取ると、その子はすぐにどこかへ去ってしまいました。何が起きたのか私にはまったくわからず、とりあえず封筒を本に挟んでおいて、その日はずっとぼーっとして過ごしました。ぼーっとしすぎてその封筒を開けるのに一週間も掛かりました。本を返却するときになってやっと思い出したのです。

 その封筒の中には、小さな紙袋と、手紙が入っていました。


 「図書室ではじろじろ見てしまってごめんね。すぐ帰ってしまうようになったのはそのせいだった? 私が図書室に行くのは、きみに話しかけたかったからなんだよ。

 でも私のせいでいづらくなってしまったなら、私がきみをじゃましたことになってしまう。そんなつもりじゃなかったのに。

 だから、これはおわびです。それと、私とは仲良くしてほしいです。

 数野和子より」


 手紙と同封されていたのは、本のしおりでした。


 その次の日、私は図書室でその子を見つけると、近付いて伝えました。手紙を読んだことと、手紙の返事を――。



「――って感じで、友達になった」


 私がそこまで話すと、田中君は心底意外そうな声を上げました。確かに、今のかずちゃんの様子から見れば、わざわざ手紙を書いてまでしないと仲良くなりたい旨を伝えられなかったのは意外に感じるものでしょう。どうして彼女が変わったのかはわかりませんが、今では心強い親友となっているあの子と、もし仲良くなれなかったとしたら、今ごろ私はどうしていたものでしょうか。


「本当によかった。あの時、話しかけてくれて」


 思い出話をしているうちにすっかり涙は引っ込んで、安堵とともに自然に言葉がこぼれました。十分落ち着いたと感じて、やっと振り返ると、窓際に後ろ向きで田中君が座っているのが見えました。どうやらこちらの振る舞いをまるで見ていないようだったので、念のためハンカチで目元を拭いてから、私はベランダから教室へ入りました。


「まあでも、つい見てしまったりするのは、俺もなんかわかる気がする」


「見るだけじゃ、変だなぁってなるだけだよ。伝えてもらってなかったら、かずちゃんだって私と仲良くなってなかったんだから」


「そうだよな…………神崎さん、俺……」


 田中君がこちらを見て何か言いかけたその時、大きな声が教室に転がり込んできました。声の方を向くと、背の高い男子が一人。佐野君です。


「――っなあ! 数野、まだ来てないのか?!」


「私も知らないよ。クラスメイトの佐野君が知らないならきっと誰にもわからないんじゃないかな」


 佐野君の背後にいつの間にか住友君が立っているのが私から見えました。それに佐野君は気付いてまた大きな声を上げます。それから二人が何か話し始めたのを確認して、再び田中君の方に顔を向けると、何やら気まずそうな顔をしています。「さっきは何を言おうとしたの?」と問いかけてみても、「いや、なんでもない」と言うだけでした。結局何を言おうとしたのかまったく聞き出せず、そしてかずちゃんが来ることもないまま、朝の時間は終わりを告げました。


 その後の休み時間、佐野君から聞いた話ですが、かずちゃんはどうやら熱を出して学校を休んだらしいのです。そしてお見舞いに行くよう頼まれました。2組の担任は佐野君に宿題などの伝達を頼んだようですが、それを私に任せたいと。私としても、かずちゃんのことが心配だったので、二つ返事でそれを受け入れました。

 というわけで放課後、いつもより早く学校を出て、私はかずちゃんの家へ直行しました。初めてのことではありませんでしたから、迷ったり、人がいない道に誤って入ってしまったりせず、難なくその家の前までたどり着きました。しかし、インターホンを押してしばらくしても、なかなか返事が返ってきません。


「……ごめ、今出る」


 数分後、やっと返ってきた声も、家から出てきたのも、かずちゃん本人でした。どういうわけかと聞くと、今は家に誰もいない状態らしく、少なくとも彼女の母親は今から数時間は帰ってこないのだそうです。


「ちょっと、話そうか」


 私はそう言って、家に上がりました。

 かずちゃんの部屋は前に来た時とはさして変わりありません。壁には何枚かポスターが貼ってあり、勉強机の上には教科書が乱雑に積み上がっています。その手前にあるベッドにかずちゃんを寝かせると、持ってきたレジ袋をベッドのそばに置いて、私はしゃがみました。


「……世話焼き」


 少し恨めしそうな声がベッドの方から上がるので、レジ袋からペットボトルを取り出しその頬に当ててやると、かずちゃんはびくっと体を震わせました。


「みんな心配してたんだよ。これは田中君からの」


「んへぇ。いい友達を持ったもんだね」


「でこれは佐野君から」


「いいセンスだ……」


「で、これは……」


「言わなくていい見ただけでわかった」


 青井さんから半ば強引に渡されたレディコミを置いて、私はかずちゃんに缶切りがどこにあるのかを聞きました。そして台所を借りて、佐野君から受け取ったフルーツ缶を開け、深皿に移したものを持って部屋に戻りました。


「だから別にいいんだって。とか言っても聞かなかったんだもんなぁ。看病されてあげるよ、もう」


「食べれそう?」


「うん」


 かずちゃんはゆっくり体を起こして色とりどりのフルーツを食べ始めました。そして食べ終わったのを確認すると、食器類を受け取って、また台所へ向かい、洗って片付けてからまた部屋に戻ると、かずちゃんは横になったままぶつぶつと言うのです。


「世話焼き。本当に世話焼き。なぎちゃんがそんなだからさ、私はなぎちゃんからますます離れられなくなっちゃう」


 私はいつもみたく冗談めいたことだと思って、なに言ってるんだかと軽くその一言を流して、今日あった出来事を話しました。みんなかずちゃんが朝から練習してなくって動揺してたよ、だとか、心配してたんだよ、だとか、そういった言葉を添えて。


「はは、そう。泣くほど動揺したか」


「笑い事じゃないよ。本当にどうしようかと思ったんだから」


「んで? 口ぶりからして、田中君に助けてもらえたんだな?」


「……そう、そういうことになるのかな」


「ふぅん。よかったね」


 どこか上の空な感じで、いつもの覇気というか、きらきらした雰囲気というものがまるで感じられない様子に、本当にかずちゃんが弱っているらしいことが見て取れました。めったに学校を休まないはずの彼女が、どうしてここまで弱ってしまったのか、私には見当が付かないのだけど……。「よくなりそう?」と一言聞いてみると、かずちゃんは苦笑いを浮かべました。


「わかんない。まあ一睡したら多少はよくなってるでしょ。でも、そうだな――」


「――私のこと、これからも頼ってくれる……?」


 数秒、考えるような間を置いて、そう続けて言いました。どうしてそんなことで悩んでいるのか、私にはまったくわかりませんでしたが、でも、今は――


「当たり前でしょ」


 ――と、一言返すことしかできなかったのです。

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