第13話 原因:ケアレスミス

 まだ朝は薄ら寒く、でも昼にはニットベストを着ておくには少し暑い。5月半ばとはそんな半端な季節です。翌月には体育祭が迫っており、放課後には4、5人の生徒が教室に集まって学級期を作っている様子が見受けられますが、その前に私たちには大事なイベントがあります。


 ――そう。中間テスト。


 高校2年生ともなれば、学期最初の試験は好成績を収めたいものですから、私の朝読書の時間はテスト勉強に代替され、帰宅した後ももちろん勉強に時間を割いていました。勉強すれば、その分だけ結果に出ることを、私は経験から知っていたのですから。

 そんなテスト期間のある日、昼休みに図書室で青井さんと居合わせました。青井さんは私の顔を見るなり、手招きをして図書室の奥にある文芸部室へ私を誘います。

 その時の私の心境としては、勉強をするために図書室にいたものだし、青井さんの誘いは何か嫌な予感がするので、正直お断りしたかったのだけど……。

 青井さんの押しの強いこと、強いこと。この手の人間にめっぽう弱い私は断り切ることができず、彼女の思惑通り文芸部室に引きずり込まれてしまいました。


「あのねぇ、この間は私、さだよしくんと別れたじゃない? それから私調子が出なくって……。ああ、緊張しなくっていいのよ。どうぞ」


 部室の中はすでに紅茶の匂いが充満していて、私が椅子に座る前にもかかわらず、青井さんは机の上にお茶を置きました。話が長くなるんだろうなと内心感じながらも私はおずおず椅子に腰かけます。


「ええと、青井さん?」


「愛美ちゃん」


「え、愛美……ちゃん……?」


 下の名前で呼びなおすと、満足げに彼女も向かいに座りました。そして頬杖をついてリラックスしたような態度で話し始めます。

 ――話の内容はほぼ覚えていません。まだ未練たらたららしいことを話すだけ話していて、そろそろ終わらないかなぁと思っていた時に、急に話題の矛先がこちらに向いたのです。


「――でさ、渚子ちゃんの最近はどうなの?」


「……え?」


「気になる人とか、いないの?」


 私は呆気に取られて、その間に青井さんの長いまつ毛が何度か瞬いたのを見送ってから、やっとのことで一言答えました。


「……いない、かなぁ」


「本当に? 同じクラスの男の子とか、誰ひとりとして?」


 私がこくりと頷くと、青井さんはなにやらポケットから取り出して机の上に置きました。「今思い出したの」との言葉を添えて。

 これは、喫茶店のクーポン……? 目の前に置かれた2枚の紙切れを見ていると、青井さんは両手を組みながら言うのです。


「ホントはね、これを渡そうと思って呼んだのだけど、つい話し込んじゃって……。これは私の行きつけのお店のティーチケット……紅茶1杯サービスしてもらえるの」


 どうしてこれを私に? といった意味合いの視線を向けると、青井さんは口角をにゅっと上げました。


「誰かとデートにでも、と思って」


 ――ろくに考える間もなく、チャイムの音が鳴り響きます。私はあわててチケットを上着の内ポケットにしまい、そのまま部屋から駆け出しました。


 幸いにも図書室から教室は近く、チャイムが鳴り終わるか終わらないかのギリギリのタイミングで教室に駆け込み、周囲から視線を感じては顔が熱くなりました。急に走ったからなのか、遅刻スレスレだった羞恥からなのか……。とはいえどんなに落ち着きを失ったところで、喧噪あふれる学校ですから、私はさも落ち着いているかのように振る舞うだけ。そう、あの件も気がかりだったのは最初だけなのです。


 それから日が経ち、いよいよ週末の休みを挟んでテストが始まる金曜日の夜のことでした。夕食を食べ、さて勉強をしようかと携帯電話の電源を切ろうとした折に、画面にちょうど通知が表示されました。田中君からメッセージが来たようです。

 「物理のこの問題がわからないんだけど、神崎さんわかる?」との文面の後に、演習テキストの問題が写真で送られていました。それは文章題だったので、私がどこまで解いてわからなくなったのか聞いてみると、かなり序盤でつまづいているらしいとのこと。

 私は少なからず物理を得意だと感じている節があり、手伝うのもやぶさかではないなと思って、手順ごとに確認しながら説明していくやり取りをいくつかしているところに、外から自室に近づく足音が耳に入りました。


「ねえ、制服のポケットに入ってたんだけど」


 ドアを開けると、少し不機嫌そうな顔をしたお母さんが立っていました。その手は、2枚の紙切れをこちらに差し出します。私はそれを受け取ってもなお、しばらくそれが何なのか思い出せませんでした。


「これ、喫茶店の金券じゃないの。危うく洗濯するところだったのよ。昔からこういうところうっかりしてるんだから、気をつけなさい」


「はぁい」


 お母さんを見送ってドアを閉じ、また携帯電話の画面を見ると、やり取りが止まっている間に問題が解けた旨のメッセージが続いていました。「神崎さんの教え方がわかりやすかった」とも。嬉しくなった私は、ちょうどいいやとこういった提案をしました。


「この週末に喫茶店でテスト勉強しない?」




 ――そして翌日の土曜日、昼前に約束の場所へ向かうと、田中君が店の前でひらひらと手を振っているのが見えました。合流して店に入り、わずかばかりの言葉を交わしながら、適当な席を選んで向かい合って座ります。ほどなくして店員さんが水とメニューを持ってきた後、間を置いて田中君は緊張した様子で言いました。


「えっと、神崎さんはここによく来るの?」


「そうでもないよ。前に青井さんと……」


 青井さん……? そこまで言って、何か忘れているような気がしたので、財布から例のチケットを取り出しました。その瞬間私はそのチケットに関わることを思い出したのです。


 ――誰かとデートにでも、と思って――。


 それから直後にチャイムが続いて……。あの時の情景が、実に鮮明に思い起こされました。お母さん、私ったら、本当にうっかりしてるよ。これじゃあ、まるで……。


「神崎さん? 大丈夫?」


「わッ! いや、はい。大丈夫……!」


 いいえ……! 人の気配のあふれたこの場所ならば、いたって平然と振る舞える。人前での感情の発露を抑える術を心得た私ならできるのです。顔が熱くなったり冷たくなったりするようなこの感覚はきっと幻なのでしょう。


「顔色が悪いんじゃない? この間の雨で体調崩したりしてない……?」


 不安そうな面持ちの田中君に、私はどうにかこさえた笑顔を向けました。


「……ここのシフォンケーキ、美味しいんだよ」


 それを聞いた田中君はキョトンとした顔をして、私は冷や汗が流れるような思いをしました。正直、記憶の中の青井さんに引っ張られすぎて話の流れを汲めていない自覚はあります。まあ、それはさておき。


 あれから軽い食事と紅茶を注文し、ほどほどに手を付けながら私たちはテスト勉強を始めました。個人的な所感としては、家でやるより捗るということは特にないなあと。ただちょっと疲れたら即座に間食に手を伸ばせることが利点かなと感じる程度でした。……ああ、それと、


「何回もごめん。この問いのさ……」


 田中君が割と高い頻度で質問を挟んでくるので捗りません。とはいえ困っている人が困ったままになっているのはこちらとしても気分がよくないので放っておくわけにもいかず、毎回対応をするのですが、


「だからね、……問いをよく確認して……単位の意味を考えて……計算式を記号じゃなくて言葉で理解してね……この式は……」


 そろそろ自分で当たり前だと思っていることをくどくど言うのもそろそろ疲れてきました。そういえば前にもこういうことが……確かかずちゃんに数学を教えた時のことでしょうか。「数学教える時のなぎちゃんって鬼気迫るものがあるよね」……だとか言われていたような記憶があります。今の私もそんな感じなのでしょうか。

 勉強を教えることは一番の勉強法だとしばしば言われることがありますが、自分と理解度が違う人間にわかるように教えるのは伝え方を考える必要があり、自分が感覚的にできていることをなるべく高純度に言語化することによってめちゃくちゃに頭を使うのです。


「そうか、なるほど……!」


 でもそうやって私が頭を使った分だけ、田中君が納得してくれた瞬間が嬉しくて、その達成感ために、何度聞かれようと真面目に返しました。

 一体、何度解説を繰り返したかわかりません。でも一定のところから田中君自身が考えて解ける問題も増え、加速度的に手が速くなっていく様子が見て取れました。


 そしてついに、日が傾いてきた午後5時前、テスト範囲が終わったのです――ええと、田中君の物理演習だけは。


「神崎さんのおかげだよ!! ありがとう!!」


 さも何かで優勝したかのように喜ぶ田中君に、私は疲れを取り繕うこともできず半笑いを浮かべるしかありませんでした。達成感があるとはいえ、疲れることに変わりはないのですから。


「はは……、よかった……それはよかったよ……」


 手を付けるのがだいぶ遅くなってしまったシフォンケーキに、私はやっとフォークを突き立てました。ああ、疲れに甘みが染みる……。次このシフォンケーキを食べる時、私はきっとこの日のことを思い出すのでしょう。勉強疲れに紐づけられたシフォンケーキ……詩的でいいかなと感じなくはないです。




「――それで? どうだったの?」


「日々の積み重ねは正義ってこと……!」


 テストも明け、結果が開示された日の放課後、私はかずちゃんと横に並んで、校庭に面したバルコニーで、テストの結果を話していました。熱心に教えた甲斐あって、田中君は物理が8割取れたと嬉しそうに報告してくれたこと、田中君に時間を割いたからといって日々の積み重ねを覆すほどではなかったことなんかを、だらだらと。


「教えたとこだけ、うお! わかる、わかるぞ! ってことはなかったの?」


「あったかもしれないけどなかったかもしれない」


「そう。んで結果は据え置きか……面白くないねぇ」


「いいでしょ別に」


「ゆうて、クラス3位だもんねぇ……なにはともあれ、おつかれ」


「おつかれ。かずちゃんはどうだったの?」


「――それは聞かないで」


 ゆっくり談笑をしてどれくらい経ったころでしょうか。ふと甲高い声が耳に入って、何かと思ってふたりして振り返ると、特徴的なウェーブしたツインテールの女の子……そう、青井さんが向こうからやってくるのが見えたのです。


「渚子ちゃ~ん!! テストの結果はどうだったかしら?」


「悪くない結果だったよ」


「なぎちゃん知ってる? アオエミちゃんこんなナリして意外と成績いいんだよ」


「意外じゃないの、事実なの」


 急に飛び込んできた青井さんにかずちゃんは悪態をつきつつ笑っています。好成績繋がりで言えば住友君のいとこである彼女もまた成績優秀者なのは意外性がありつつも納得ができる気もします。……私がクラス3位止まりである所以ゆえんとはそのあたりにあるわけですが……しかしもう終わったことですし、そのことはそっと胸にしまっておきましょう。このふたりは大層仲が悪いのですから。


「それで、ねえ渚子ちゃん」


 ――次の瞬間にはあえて言わなかったことを多少後悔することになりましたが。


「あなた、気になる子いないなんて嘘だったでしょう?」


 それから、味方だと思っていたかずちゃんまでもが一緒になってあの喫茶店の件をからかい始めるのです――!


「そうなの、いや私も話聞いてびっくりしたんだけどね。あのなぎちゃんが! あのなぎちゃんがよ? え、あなたはなぎちゃん……?」


「何言ってるのかずちゃん私はここにひとりだよ⁈」


「そうよ。確かにあそこで見たのはこの渚子ちゃんなのよ。一緒にいた子ってあの子よねぇ……1組の……」


「そうそう同じクラスの田中良久っていう子ね。親身になって物理の問題教えてたって」


「あらあらあらそれはそれはそれは~ッ!!」


 走り出した暴走列車青井さんに次々と燃料を投下するかずちゃん……考えうるかぎり最悪なコンボがここで完成してしまってからは、私にはもう手を付けることができない……! 私はただ、今にも燃え上がりそうに熱い顔を必死に押さえて、暴走機関と化したふたりがエネルギーを失うまで待つしかなかったのです。そう、熱力学第二法則にもあるように、与えられたエネルギーはいつかは失われていくものだから……!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泣く場所を選べる人になろうとしたのに! Kisya @kisya-83

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ