第9話 放課後に喫茶店で

「ここよ」


 そのたった一言が到着の合図でした。

 青井さんがこちらに気づかうような目配せを向けると、みずみずしい黒のツインテールがぐらりと揺れます。

 その場所は、「喫茶・エミリ」。背の高い扉の傍らに立て掛けられたプレートには、確かにそう書かれていました。


「ここはね、よく来る場所なの」


 慣れた足取りで店内へ入り、奥まったところにある二人席の一方に腰を下ろしながら青井さんは言いました。

 付いてきた私も向かいのイスに座ると、青井さんはメニューを手にとって差し出します。それをおずおずと受け取り、私は口を開きました。


「ええと、それで、青井さんはここで何を?」


「……ここのシフォンケーキ、美味しいのよ」


「は、はあ……」


「そんなにくことはないの。ね、ゆっくり、しましょ?」


 今朝の教室での様子とは相反し、ずいぶん落ち着いた様子の青井さんに戸惑いながらも、私はシフォンケーキを注文しました。ちなみに青井さんはミルクティーを頼んだようです。


「あのぉ……」


 待っている間、無言でいると妙な不安が襲ってくるので、ついつい私は声を掛けてしまいました。対する青井さんは「なに?」とでも言いたげな視線をこちらに向けるだけ。


「あ……その……どうして、私なの?」


「どうして?」


「何の話か以前に、気になったから」


「うーん、それはね……」


 青井さんは指先で自らのあごをさらりと撫でて続けます。


「知らないから」


「知らないから?」


「そう。私はあなたのことをほとんど知らない。そしてあなたも私のことをほとんど知らないと思うの」


 その言葉の言わんとすることがよくわからずに小首をかしげていると、丁度よく注文したものが運ばれてきました。

 真っ白なシフォンケーキ。想像より少し大きく見えます。


「……」


 ゆっくり青井さんの方を見るも、すでにミルクティーを飲んでいるところで、特に反応はありませんでした。

 仕方なくフォークを手に取ってシフォンケーキに手を付けました。フォーク越しの感触からもわかるように、ふわふわなだけじゃなく意外と弾力もありそうです。


「……美味しい」


 シフォンケーキを口にした私の、最初の言葉はそれだけでした。でも、感想はじんわり、ゆっくり、湧いてきました。

 しっとりとした舌触りのそれは、柔らかく、心地よく喉を通りすぎていきます。味は言うまでもなく美味しいのですが、なんといってもとにかく食感がいいのです。簡単に言えば、「しっとり、もっちり」かな。


「飲み物いらないでしょ?」


「さすがにそこまでは……でも、スポンジだけなのにモサモサしないんだね」


「うふふ」


「あ、はは」


 ここで私はお冷やを一口飲みました。ああ、青井さんがミルクティーを飲んでいるのを見ていると、私も何か飲み物を注文したくなってきます。


「あ、ここの飲み物って、何がおすすめとか、あるかな?」


「飲み物のおすすめ? そうね……ダージリン・ティーなんてどう? ミルクとレモンのどちらかのフレーバーを選べるのよ」


「ダージリン……」


 メニューの飲み物のページを見ると、横書きの「ダージリン・ティー」の文字の下に、

  ・ミルク

  ・レモン

と書かれています。ダージリン自体がミルクティーやレモンティーと同列なものだと思っていた私は、よくわからないでしばらく黙ってしまいました。

 見かねたのか青井さんはまた口を開きます。


「ダージリンは、ダージリンっていうところで採れたお茶のこと。あとから、レモンティーとかミルクティーとかになるのよ」


「あ、ああ~」


 やっと意味がわかって私はレモンティーを注文しました。


「私はゆっくり話すから、あなたは適当に相づちでも打っておいて。聞くだけでいいから」


 レモンティーを注文してしばらく、少し無言の時間が続いて、油断した頃に青井さんの唇が動きました。


「私、あなたに話したいの。あなたは私のことをよく知らないから、余計な気持ちもなく私の話を聞いてくれると思って」


 私の方に顔を向けながらも、どこか迷いのある彼女の瞳は、これから話すことはそんなに明るい話じゃないんだと物語っていました。


「……私はたまらなく定義さだよしくんが好き――だけど、避けられてることを知ってる。迷惑掛けてるのもわかってるつもり。それでも、未だに定義くんが私のことを割り切れていないような気がするの」


 青井さんは、――親指には親指を、人差し指には人差し指を、といった感じに――対応した両手の指をそれぞれ、胸の前で突き合わせる仕草ながらに、話し始めました。


「まるで妄言みたいなことだとは言われなくてもわかる。でもね、私は定義くんのことを、人よりよくわかっている自信がある。一緒にいた時間は、それなりに密度は高かったの。彼の私と対峙たいじする時の顔つき……まだ私への好意が残っているような顔だった。だから――」


 豊かなまつ毛が青井さんの瞳を半分覆い、深く息をくようにその肩を上下させ、やっと次の言葉が紡がれます。


「――定義くんに、厄介がられて、私から解放してあげたいの」


「えっ」


「おかしなことでしょう? でも私も定義くんのことが好きなままだから、それを言い訳に彼に近づいているだけかもしれないけど、私、定義くんにあえて嫌われに行ってるの」


 仮に、「聞くだけでいい」と言われていなかったとしても、私は何も言えなかったことでしょう。青井さんの態度や振る舞いから考えても、きっと彼女は複雑な心境で。だから、下手に何も言えないのです。掛ける言葉もないのです。


「あら、深刻そうな顔をするのね。あなたってば、案外優しい人――あ、来たみたいよ」


 青井さんが急に顔を向けた先を見ると、店員さんがトレーにティーカップを乗せてこちらに向かっているのが見えました。


「知り合って間もない人のことを心配するよりも、ここの紅茶を楽しみなさい。こんなこと、すぐにどうでもよくなるから」


 私の手前に紅茶が運ばれ、店員さんが去ると、青井さんは脚を組み替えてからずいっ、とこちらに顔を寄せます。なんだろう。と思い、ややのけぞるような姿勢になった私に構わず、青井さんはにっこり笑い、「冷めない内に飲んじゃってよ」と言うのでした。


「熱っ」


 ……舌の先がびりびり痛みます。舌を火傷したのです。熱がっていると「ゆ、ゆっくり飲んでね」と諭すような声が聞こえました。

 紅茶のことはあまりよく知らなくて大した感想も持てませんが、とてもいい香りがするというのは確かです。最初の一口は熱くて味がよくわからなかったけれど、ゆっくり慎重に飲むとやっとその風味が感じられました。

 紅茶を何口かすすったところで、また青井さんは話し始めます。


「ええと、何の話をしていたんだっけ――あ、そうそう、今日の朝の話なんだけど」


 今度はなんだろう。そう思いながら青井さんの顔を見た時、さっきまでの複雑そうな表情とは打って変わって、ぱっと明るい顔色になっていたのです。そして直後発された言葉といえば――


「定義くんってば、咄嗟とっさくにしてももう少しまともな嘘を吐けなかったの? ってこと言ってたけどさ、あの時は私カッとなっちゃったけど、今考えるとうわ~可愛い~って思って~!」


 ――あっ、これ、ノロケってやつだ。


「そんな抜けてるところもあるからなおさら私も離れられないっていうか~、一見背が高くて強そうなのに意外とシャイだったりとか~」


 なんとなく嫌な予感がしました。そしてその予感はまもなく的中します。

 喫茶店に来る時の落ち着いた青井さんはどこへやら。一度ノロケを始めれば、私が言葉を発するすきもないペースで延々と喋るのです。

 本人が嬉しそうなだけに、遮ってしまうのも気後れしてしまい、私だけでは青井さんのお喋りが終わるのをただ待つことしか出来ません。


 こういう時、かずちゃんなら、「あー、もうごちそうさまですぅ」だとか言って、話を切り上げることも出来るんじゃないかな。

 私はかずちゃんじゃないから、すっかり相手のペースに飲まれて、相づちを打つだけのロボットのようになって、その場をやり過ごすのです。



「――って、あら、こんな時間まで……」


 窓から見える空は鉛色。曇り空は昼も夕方もあまり大差ないのですが、街灯はぽつぽつと点き始めて、夜の気配が感じられる頃合いでした。


「ごめんなさい。私ばっかり話しちゃって」


「いや、いいよ。気にしないで」


「……あなた、自分を出せない人でしょ。人を大事にするつもりで自分をないがしろにするのはよ。――私ほど我が強いのも、考えものだけど」


 青井さんは、ふふん。と可愛らしく笑って、肩をすぼめました。そして、「さて、帰りましょうか」と席を立ち、さも当たり前のように伝票を手に、足早にレジへ向かいました。


「あっ、待って。今財布を――」


「いいの、相談料よ。これくらい大したことないから」


 自分の飲食代ぐらいは払おうと思い財布を出そうと思ったものの、青井さんはそれを手で制し、私の分もまとめて支払ってしまいました。



「ありがとうございましたー」


 店員さんの声、それに続いて閉まる扉の音。

 ――初対面の人に奢ってもらっちゃった……!

 明かりの点いた街灯を眺めては、はぁ。と深く息をきました。


「お返しはいらないから」


 私と並んで歩きながら、青井さんはそう言って笑います。


「ええと、今日はありがとう。美味しかったし」


「こちらこそ。いきなり連れてった上に話を聞いてもらって。私も感謝してるのよ」


「そうなんだ。というか、青井さんも帰り道こっちなの?」


「そうね。しばらくは一緒なんじゃないかしら」


 コツコツと歩く度に青井さんのツインテールがゆらゆら揺れて、髪の光沢の帯がしきりに動きます。なんとなくそれが目に付いて、ぼんやり眺めながら私も歩きました。


 そこで突然、視界の上から黒い影が降ってきたように見えました。それは、ちょうど青井さんの肩の上に……。


「ぎゃっ、か、肩に!」


「えっ、なに??」


「あっ、青井さん……えっと、その、肩に……!」


「なに!? なんなの?? はっきり言ってよ!!」


 驚いた私はつい声を上げてしまい、それを聞いた青井さんは動揺ぎみに声を荒らげました。

 青井さんの肩に何が降ってきたのかも理解が出来ず、お互いに変な声を掛け合いながら固まっていました。


「――ふむ、ニホンヤモリか」


 その瞬間、青井さんの肩にどこからか手が伸びてきて、黒い影をひょいとつまみ上げました。

 その手から腕へとたどるように視線を上げた先には、見知った顔がありました。


「す、住友君……?」


 相変わらず不機嫌そうな顔付きの、住友君が、青井さんのすぐ隣に立っていたのです。


「ここで見つかるのは珍しい。こういった街中ではあまり見かけないはずだが」


 そう呟きながら住友君は、私たちを気にも留めず、掴んだヤモリを持っていた箱に入れて、そのまま通りすぎていこうとしました。


「ちょ、ちょっとあんた! 待ちなさいよ!!」


 そこで呼び止めたのは青井さん。


「なんか、もっと言うことはないの?!」


 うざったそうに顔だけ振り返る住友君に、青井さんは気に入らないことがあるような口振りで言いました。


「無い」


 返事はたった一言。気に食わないのか、さらに青井さんは声を荒らげます。


「あんたね、何にも言わずにヒュッと取ってサッと通りすぎたら気味悪いじゃないの!! もう少し気を利かせなさいよ!」


「気味悪がられても僕は構わないが……」


「そういうことじゃないの!! 相変わらず愛想がない……ッ!」


「あ、あの……!」


唐突な出来事に、私はやっとのことで二人の間に入って声を上げました。


「二人は、知り合いなの?」


「知り合いも何も……」


 間を置いて、青井さんははっきり言いました。


「いとこなの……住友と私は!」


「……僕と青井の母親同士が姉妹だ。こんな落ち着きの無い人間と血の繋がりがあるのは正直信じがたいことだが」


「あんたが動じなさすぎるだけだから! というか私たちの例外があんたよ! 叔母さんとあまり似てないじゃないの! 性格が!」


「確かに親類たちとは合わないなと常日頃思っている。だが外見的特徴はある程度一致しているため、血の繋がりは確からしく嘆かわしい……」


「嘆かわしいのはこっちよ!」


 なるほど、確かに目付きや髪質なんかが二人はよく似ているように見えます。青井さんが放課後話し掛けてきた時の、あのじっとりとした目の既視感は、住友君の不機嫌顔だったのかもしれません。


「二人は、い、いつもこんな感じなの……?」


「小さい頃から、ずっと……親戚の集まりで私の膝に虫を撒き散らした時からずぅっと!!」


「うわ……それは……嫌だね……」


 青井さんが住友君を敵視するのも納得でした。そんな経験があった人と仲良くできる瞬間があるとしたら、そこまでの経緯がさっぱり想像もつきません。


「でしょう? この人のせいで私はずっと嫌な思いをしてきたの! ……この間だって、せっかく私が定義くんとお話してた時に、定義くんの良心につけ込んで雑用要員として連れ去ったりしてたんだから!」


 ああ、佐野君の話ね……。とちょっと呆れつつも、私が口ごもるように相づちを打とうとするよりも先に、住友君が口を開きました。


「青井がしつこく付きまとうから佐野もこれ見よがしに逃げたんだろう。責任転嫁もいい加減にしてほしい」


「何よ! 定義くんの良心につけ込んでるのは本当じゃないの!」


「人を責める前に自分の行動をかえりみろと言っているんだ」


「う、うるさいわね……!」


「……図星か」


「……それぐらい」


 さっきまでの勢いを失くして、青井さんはうつむき、自分に言い聞かせるように呟きました。


「言われなくてもわかってるよ……それぐらい……ッ!」


 私がさすがに不穏な雰囲気を悟って、声を掛けようと青井さんの方を向くと、「ごめんね先に帰るから」と断って、立ち去ってしまいました。


 取り残された私は、住友君の方に向き直って思ったことを口にしました。


「……住友君。言ってることは正しいんだけど、ちょっとはっきり言い過ぎじゃないかな」


「あれくらい言わないと改心しない人間だっている。もっとも、僕には加減が出来ないからどうしようもない話だ」


「わかってるんだ」


「生まれ持った性分を改めるぐらいなら、もっと他にやりたいことをやるさ」


 住友君を咎めてもどうしようもないということだけは確かなようでした。

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