第10話 日の傾く放課後
何も解決しないまま翌日になり、平日の今日はもちろん学校に向かいます。
何も解決はしていないとはいえ、青井さん自身はあの嘘には気が付いているらしく、おそらくはかずちゃんにキツく当たるようなことはないでしょう。それがわかっただけで十分なような気はしました。
「神崎さん、おはよう」
朝早くにも関わらず、教室には先客がいたようです。教室を覗き込んだところ、窓際にいた田中君が振り返り、私に挨拶をしました。私はそれに応えます。
「お、おはよう。……早いね」
「いや、神崎さんこそ……」
確か前にもこんなことがありました。前と違うのは彼への警戒心が多少和らいでいること。とはいえまだまだお互い調子が分かりきっていない感じで、一言、二言話せば詰まってしまいます。
うう……かずちゃんがいれば……。とは思いましたが、例により隣の教室にいるらしく、今は「あーーーー!」と長く伸びた声が聞こえます。肺活量でも鍛えているのでしょうか。途中で止めると、「新記録まであとちょっとだったのに!」だとか言われそうです。
「……昨日、青井さんとお茶したんだってね」
かずちゃんの声に気を取られていたところ田中君がぽつりと言いました。私は驚いて一瞬固まります。
「な、なんで知ってるの……?」
「あっ! いや、あの……っ」
田中君は焦った様子で早口に言いました。
「か、数野さんから聞いたんだ。別に後を付けてたとか、そんな非常識なことは決して……っ!」
なるほど、確かに昨晩、かずちゃんとメッセージのやり取りをした時に青井さんとのことを話題にしましたから、彼女から聞いたというなら知っていても変ではありません。
「かずちゃんったら、おしゃべりなんだから……」
まぁ、それにしても、本人がいないところで何をしたかが伝わってしまうのはちょっと怖いなとは思いますけど。
「青井さん、どんな様子だった?」
「あ、あぁ……あんまり、元気ではないみたいだよ。本人も、嫌がられてるのはわかってるみたいだから」
「そうか……人それぞれ、心労があるんだね」
「そうなの。この間、田中君が言ってたように、青井さんもつらいところがあるみたい」
「そうなんだ。なんだろう……青井さんにずいぶん気に入られてる? 顔だけ知ってるぐらいの知り合いの話をそこまで引き出せるって……すごいな」
「いやいや、青井さん曰く、自分のことをよく知らない人は余計な感情なく話を聞ける……らしいよ。そういう人なんだと思う」
「知らない価値観だ……! そうか、そんな考え方の人もいるのか……」
感心したような顔をする田中君を見て、話がやや逸れてきたように感じ、軌道を修正しようと頭を回らせると、住友君のことを思い出して、その話を口にします。
「……ああ、そうそう、帰り際に住友君とばったり会っちゃってね、青井さんと住友君は犬猿の仲……らしくて、ちょっと、喧嘩してた」
「……! そ、そうなんだ。あー、青井さんについてはよく知らないけど、想像出来るよ。住友って正論しか言わないから」
そう言って苦笑いを浮かべる田中君。思うところがあるのか、「我が強くって融通が効かないし、俺なんかは引っ込むしかない……」と付け足します。
そういえば……と、青井さんが自身を我が強いと認めていたことが胸によぎります。あのいとこ同士は、本人たちが言うほど、「内面は似ていない」こともない……のかな。そんなことをチラッと思いました。
さて、田中君とお話ししてしばらくすると、誰か来たのか、隣の教室からかずちゃん以外の声が聞こえてきました。――佐野君の声です。
「……数野って意外と努力家だよな」
「あーーーアアッ!? バカ! 私の新記録を邪魔しおって!!」
「なんで俺にそんな当たりキツいんだ?」
「昨日の迷惑の報いじゃ!! とっとと散れ!」
「だからなんでここのクラスなのに散らなきゃいけないんだっての」
昨日の今日であっても、かずちゃんと佐野君は他愛のない話をしているようでした。
まあ、青井さんは多分、そこまで、かずちゃんを敵視することもないでしょうし、なんだったら、かずちゃんもそれぐらいは察していそうで、気楽にしていても不思議ではないのです。――ほら、「流石にアオエミちゃんも嘘だってわかってるでしょ(笑)」な具合に。
「なんかあの二人、普通に仲良さそうだね……
」
隣の教室の会話が聞こえたのか、田中君はやや不安そうに呟きました。どうかした? と聞いてみれば、襟元を押さえながらこう答えるのです。
「いや、あんまりあの二人が仲良さそうにしてたら、青井さんが数野さんに強く当たりそうな気がして、ちょっとヒヤヒヤしてるんだ……まだ青井さんは来てないみたいだけど……」
田中君はあまり詳しく事情を知らないのでしょうか。多分それは大丈夫。そう伝えようとした時、また田中君は口を開いて、半ば独り言のように言いました。
「ほとんど部外者みたいな俺だけど、知っちゃったらなんか、気が気でなくって……俺にも何か出来たらな」
ちょっと世話焼きなところがあるのでしょうか。人が困っているところを見ると気になってしまうあたり、田中君らしいなと、ふと思うのです。最初はこれで彼を不審に感じたりしていましたが――
「私なら、何か出来るのかな」
――今は、ただ優しいだけなんだなって、思うこともあるのです。
「出来るよ。神崎さんなら」
田中君は少し恥ずかしそうに笑いました。
私なら何か出来るかもしれない。だったら何が出来るんだろう。しばらく考えてみましたが答えは出ません。
――何が出来るかはわからない。でも、何かやってみよう。そう思ったのは、田中君の言葉を信じてみようと思ったからでした。彼が言ったのはただの肯定ですが、自分以外の誰かに気持ちを肯定してもらえること。これがどれほど心強いことか。そんな簡単なことでも、じゃあやってみようかな、と一歩踏み出すぐらいの力にだってなるのです。
――キーンコーンカーンコーン――
今日最後の授業の終わりを示す鐘が鳴り、私は荷物をまとめて教室を出ました。
「あのー、二年の青井さんはいますかー?」
図書室の奥にあるドアをノックして青井さんを呼ぶと、不思議そうな顔をした青井さんが私を迎え入れました。
ここは、図書文芸部・部室。いつだったか、文芸部の部誌を読んでいる時、「EMI」のペンネームで恋愛小説を書いていた人がいたことを思い出して、もしかしてと思ってクラスメイトの文芸部員に聞いてみれば、それは青井さんだったのです。
「……ごめん、僕は席を外した方がいいみたいで……あ、あはは……ご、ごゆっくり……」
ちなみにそのクラスメイトはちょうどこの場に居合わせていたらしく、雰囲気を察して居心地の悪そうに退場していきました。すると丁度いいことに、この部屋の中で私は青井さんと二人きりになることができました。
「今度はあなたから呼ぶなんて、どうしたの?」
青井さんは椅子に座りながら、少し首を傾げて言いました。私はその正面の椅子にそっと腰を下ろします。
「……なんとなく、青井さんのことが気にかかって。お節介かもしれないけど、何かの役に立てるかなって、来ちゃった」
そう話すと、青井さんは両手で頬杖を付き、口元を緩めました。
「具体的に何か案があるとかではなく、何かしたくて来ちゃったの……ふふ、不思議ね。何があなたをそうさせたのかしら」
そして長いまつ毛をパタリパタリと数回ひらめかせ、次に何かを決意したかのような吐息をきっかけに、また言葉を紡ぎます。
「あなたが役に立ちたいと言うなら応えましょう。……あなたには話すけど、昨日の住友の言葉を、正しいと思う自分がいる」
彼女の雰囲気にどこか圧倒されていて、私はただ静かに頷くだけ。彼女はそれを見て満足そうに続けました。
「でも、嫌なの。住友の言葉でハッとして、改心なんて。私は住友が嫌いだから。……いや、住友は敵よ……!」
一瞬何かが込み上げたのを抑えたのか、一呼吸置いて、つまるところ何なのかをついに言いました。
「……私はあなたの言葉で改心したいの。ほぼ初対面のあなたの見解を、聞かせてほしい」
私が考えるから少し待ってほしい。と伝えると、「なら紅茶を淹れるわね」と、彼女は私たちの間にある長机に茶菓子を置いて、傍らの電気ポットでお湯を沸かし始めました。
よく見れば、水道どころか電子レンジすらあるという充実具合で、快適そうな部室だなぁと感じるも、――いや、考えをまとめなきゃと頭を回し始めました。
――そして5分ほど過ぎた頃でしょうか。
「……はい。言います」
紅茶のいい香りが部室内を満たし、緊張感が抜けてきた頃合いにまた気を引き締めて、私は小さく手を上げました。……やっぱりそういうこともバレてしまうのか、「固くならなくていいのよ。ほら、お茶とお菓子でも食べながらでいいんだから」と声を掛けられたりしましたけど。
「じゃあほどほどに。率直に聞くけど、佐野君に嫌われるって口述で近付くのは、ホントのところはただ離れたくないだけ……な気がするんだけど、そう?」
「ええ、そう。いきなり刃物で切りかかるみたいなやり方をするのね、意外と。もう少し間合いを詰めてから戦うかと思ったのだけど」
「そ、そう? ええと、言い方が悪いのかな……?」
この話を戦いに例えられてしまい、これは青井さんに危害を与えるようなことなのかな……? と一抹の不安に小さくなっていると、彼女は口角を上げて見せます。
「大丈夫。そのまま、続けて」
「う、うん。――その、これはあくまでも私の一意見で、事実がどうだ、青井さんが結局どうしたいかは別なのだけど……、青井さんから見た佐野君に迷いがあるように見えるのは、何度も接近してくる青井さんがその度に意識の上に登ってきて、悪い意味で忘れられなくなっているから、じゃないかな? ……その、悩みの種、的な」
「……それは体験談?」
「ちょっとね……」
私は運良く慣れてきましたが田中君がやたら絡んでくるようになった頃は……いいえ、それは今は関係ないのです。ええ、別に。
「だ、だから……、本当に佐野君を解放したいなら、青井さんが離れた方が、いいんじゃないかなって。――これが私の意見」
ここまで言うと、青井さんはゆっくり目を閉じて、肩の力を抜きました。
そして再び目を開いた時、囁くような声でこう言うのです。
「……私も強情ね。薄々わかっていることなのに、それを住友から指摘されたからって認めたがらないなんて……」
次の瞬間、何か思い立ったように勢い良く立ち上がり、彼女ははっきり言いました。
「――私、定義くんと決別します。あなたの意見を契機として、今私が決めました」
――これは誓いなんだ。そう思うほどに真剣な声でした。その後に「別に住友の言葉は関係ないんだからね?」と、余分な一言が付いてきましたけど。
「ま、それはそれとして……神崎さん。いや……渚子ちゃん!」
「――なッ」
その直後、青井さんの様子がガラリと変わり、少し不穏な予感を感じた私は身震いしました。
「渚子ちゃんって呼んでもいい?」
「…………い、いいよ」
「やーん渚子ちゃん! 気に入った! 連絡先交換しましょ!!」
さっきまでの落ち着いた雰囲気の女の子はどこに消えたのでしょうか。そこには、昨日の朝に出会った、話が通じなさそうな女の子がいるだけなのです。
その話が通じなさそうな女の子の圧に怯み、私はつい連絡先を交換してしまうと、彼女はにっこにこな顔で身を乗り出して喋り始めるのです。
「ね、ね、今度は渚子ちゃんの恋バナとか聞かせてほしいな~。ね~?」
「え……そ、そんな話は別に無いよ……」
「え~~? 渚子ちゃんって結構美人さんだからさ、浮いた話の1つもないなんてことないでしょ~?」
さすがに理解しました。この人はいわゆる恋愛脳と呼ばれるタイプの人間です。文芸部で恋愛小説を書いているような人ですし、昨日の喫茶店の時にしたってこんな感じだった瞬間はありましたし、もっと早くに気が付いてもよかったんじゃないかとは思いますが、あまりにも彼女の二面性が激しくて、把握に時間が掛かりました。
あまりの落差に、昨日落ち込んで寂しそうな雰囲気だったのは、実はただ単に落ち着いていただけのような気さえしてきます。
――青井さんがわからない。
頭の中に沢山の疑問符が浮かぶも、青井さんは結局、最初に出ていった文芸部員が痺れを切らしたのか戻ってきて「も、もうさすがに……いいかな……?」と声を掛けるまでは止まりませんでした。
後日のこと、日も傾き夕日の差す放課後、隣のクラスの教室で、「後悔したって知らないんだからね!」と別れを告げた青井さんと、「これで終わりだな?」と返す佐野君と――
それを覗く十数人のオーディエンスを見掛けました。……かずちゃんを含みます。
「ねぇ、何よこれ……」
「あ、なぎちゃん。なぎちゃんも野次馬? でも残念、もう終わりなんだなぁ」
「違うよ。こんなに人が固まってたら嫌でも目に付くでしょ?」
「そりゃあだって、あの有名カップルの別れだよ? あのアオエミちゃんがちゃんと別れようとしてるんだよ? そりゃ集まっちゃいますよ我々2年2組は」
そんな風にかずちゃんと話しているうちに、ある人は佐野君に駆け寄り激励したり、ある人は部活に戻ったり、ある人は帰り支度をしたりして、だんだんと人がバラけ始めると、一段落付いたらしい青井さんがこちらに歩み寄ってきて、言いました。
「……この間、あなたが来てくれたから、私はこの決意ができたの。住友とかと概ね同意見でも、あなたが考えたあなたの言葉で伝えてくれた。……あなたにだって、"自我"ってあるのよね」
私の目をじっとり見て、それだけを告げて、青井さんはすっきりした顔で立ち去りました。
その様子を見たかずちゃんは、半笑いになり、私の頬をつつくのです。
「もー! 何が! あったのぉ?」
「つつかないでよー」
「知らないうちに人と仲良くなっちゃってさー、私が知らないとこで人の悩みを解決しちゃってさー! この、この~」
「なに~? かずちゃんってばどうしたのよ」
私も私で半笑いになりながら聞くと、かずちゃんはつつくのをやめて、答えました。
「……なぎちゃんもさ、変わるんだなって。前なら、そんなことなかったから」
背中に西日を受けるかずちゃんの顔は、暗くて、はっきりとは見えなかったけど、少しだけ寂しそうな顔をした気がしました。
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