真名

 この世界にも時間の流れはちゃんとあるようだ。さっきまで明るかった天岩屋の周囲も、日が落ち始めていた。

 天岩屋の扉は今は閉じられている。扉は両開きの引き戸で、石で出来ていた。まさに岩屋といった感じだ。

 天照は日中のごく短い時間しか姿を現さないらしい。一日の大半は岩屋の中で寝ているそうだ。子供のような姿だからだろうか。猫でもそこまで寝ないのではないかと思う。


「しかし、おぬしがこの使命を授かるとはの」


 女媧が石で出来た長椅子に腰をかけながら言った。椅子は天岩屋の入口前に左右向かい合わせで置かれている。待合席のようなものだろうか。

 公時と空亡は座らずに、女媧の前に立っていた。


 悪鬼――元の世界でも道から外れた者がいるように、路地裏の世界にも当然そういった存在はいるようだ。このただでさえ冗談のような世界で、その冗談のような理からすらはみ出した者たちが、総じて悪鬼と呼ばれているそうだ。


「幽霊とか、妖怪みたいなものってことか」

「分かりやすく言えばそうじゃ。が、見た目ではっきりとそう分かる者もおるし、そうでないものもおる。おぬしが街中で雪女と雪男に会うたとして、どちらを化物と認識する?」


 イメージは人それぞれだが、雪女は着物の美人としか認識しないかもしれない。雪男は毛むくじゃらの化物を想像する。


「つまりは……見ただけでは悪鬼だと気づかない奴もいるってことか?」

「そういうことよ。それがまた厄介ではあるの」

「その悪鬼って奴らは、問答無用で襲ってくるのか?」


 名前からして悪と鬼というコンボになっており、物凄く悪い奴なのかと思える。


「出会って五秒でとか、そういうことにはあまりならないよ。彼らにも知性や考えもあるしね。もちろん悪意を持って襲ってくる悪鬼もいる」

「……なんで退治しないといけないんだ?」

「悪鬼はの、この世界にとっての病なのだ」

「……病?」


 世界にとっての病とはなんだろう。公時の常識からすると、地球温暖化とか放射能汚染のようなものしか思いつかない。


「病気と言っても人に伝染るわけではない。悪鬼は特に何をするわけでもなく、存在するだけでも害なのさ。いるだけで世界を蝕んでいく。最終的には世界が滅んでしまうかもしれない」


 空亡がとんでもないことをさらっと言う。


「滅ぶって……まじなのか?」

「さあ、まだ滅んだ所を見たことはないから何とも言えない。この世界に百万年以上いるけど、未だその瞬間に立ち会ってはいないね」

「お前何年生きてるんだよ。それより、そんなやばい奴らを放っておいていいのかよ」

「もちろん良くないよ。当然、悪鬼を退治する専門家もいるんだ。まあそれも対処療法にしかならないけどね」


 こいつは一体何年生きているんだという疑問もあるが、それ以上に悪鬼という存在が気になった。


「どうしたら悪鬼になるんだ?」


 この世界の理から外れた者が悪鬼になるということだが、具体的に何をしたら悪鬼になってしまうのだろう。


「お前……本当は悪鬼なんじゃねえか?」

「何てことを言うんだ。僕ほどこの世界の理に沿って生きている者はいないよ」


 この世界で出会った中で、こいつほど人の道から外れた奴はいないと思う。とりあえず倒してみて、一〇八体のうち一体にカウントされないか試してみたい。仮にされなくても、気持ちが少しすっきりする。


「いい加減な世界ゆえ、悪鬼になる条件がはっきりとしないこともある。ただ間違いないことは、使命を果たさぬ者はいずれ悪鬼となる」

「えっ! じゃあ、女媧、お前も……」

「儂は違う! 使命を果たす気はあるからの!」

「そんな曖昧でいいのかよ……」


 そんな気持ち的なことが世界に通じるのだろうか。空亡もどれぐらいこの世界にいるか分からないが、大して使命は果たしてないから、案外そういうものなのかもしれない。


「それで俺の仕事ってやつは、悪鬼を倒すってことなのか」


 二人に比べると大分系統が異なるように思えた。この使命とやらは、一体どういった基準で決まっているのだろう。


「倒す、とはちょっと違うかの。調伏よ」

「それって一緒じゃないのか?」

「全く別物よ。病気によって、効く薬や治療法は異なるであろう。調伏もまた然りで、悪鬼によって対処法が違うのだ」

「なんだそりゃ? 何かめんどくさいな……」


 確かに厄介なことだ。しかもその調伏とやらを一〇八回も行わなければならないというのか。空亡や女媧の仕事もそうだが、これもまた気の遠くなる話だ。この世界の人たちは何らかの罪を犯して、その償いでもさせられているのだろうか。

 単純に倒すだけの方がまだ楽な気がする。もちろん倒せればの話ではあるが。鬼というぐらいだから、相当な強さなのかもしれない。そもそも自分のボクシングが通じる相手なのだろうか。


「それはそうと……公時、ちょっと良いかの?」


 女媧が立ち上がると、公時を見上げた。

 身長差があるので見下ろす形となり、女媧の胸の谷間が視界に入った。この容姿でこの身体は反則だろうと思う。


「童貞よ。男が女性の胸を見ている時、女性もまたそれに気づいているのだ、ということを覚えておくとよいぞ」

「……悪かった。で、なんだ?」


 不可抗力だと思うが、ここは素直に謝った。


「使命を果たす前に知っておくことがある。お前の真名の話よ」


 真名。さっきも天照が言っていたが、何のことだろうか。


「天照がさっきもそんなこと言ってたな。一体何のことだ? 本名ってことだったら、坂田公時だ」

「うむ、それがの名前なのか確かめたい」

「は? どういうことだ?」


 名前がどうだと言うのだ。空亡や女媧よりは普通の名前だと自負している。


「おぬし何か身分証明書のようなものを持っておらぬか? 何でもよいぞ」

「この世界では、会員証でも作らないといけないのか?」


 女媧に睨まれたので、公時は肩をすくめた。


「免許証ならあったはず……」


 ショルダーバッグを地面に降ろして、バッグの中にある財布を取り出した。

 財布から免許証を取り出す。別に何のことはないはずだった。


「ん? 誰だこれ?」


 公時は免許証を見て顔をしかめた。自分の財布から出てきたはずの免許証は、全く違う人の物だった。記載されている名前も写真の顔も全く違う。

 財布は自分の物に間違いない。そもそも家を出てから真っ直ぐジムに向かっていたのだ。誰かのものと入れ替わるはずがない。


「見せよ」


 女媧が奪うように免許証を取った。空亡も女媧の側に寄り、持っている免許証を覗き込んだ。


「やはり、な。おぬしはもう成っておったのだな」

「成っている? どういうことだよ?」

「覚えておらぬのか? この免許証にある名前や写真が、ここに来る前のおぬしよ」


 女媧の言葉は予想外のことで、その意味を理解するまで少し時間がかかった。


「そいつが俺だって? 全く別人じゃねえか」

「いいから、もう一度見てみよ」


 女媧が免許証を突きつけてくるので、公時はしぶしぶ免許証を見てみる。


 「こんな弱そうな奴が俺だって? そんな馬鹿なこと――」


 免許証を見る公時の目線が、ある場所で止まった。

 名前と顔はやはり見覚えがなかった。しかし、住所は公時が住んでいた場所と同じだったのだ。一人暮らしでルームメイトもいない。だとすると、これは誰のものなのだろう。

 写真の男は見るからに弱そうだ。とてもじゃないがプロボクサーには見えない。ヘヴィ級で世界を狙える逸材と期待され、既に実績もある自分がこんな男のはずがない。

 実績――十戦十勝十KO。実に輝かしい戦績だ。初戦から鮮烈なデビューを果たした。初戦の相手は――そういえば誰だったか。それ以外の試合の記憶もはっきりしない。

 公時の表情が次第に曇っていった。


「どうじゃ? 見覚えはあったか?」


 女媧の問に公時は答えない。


「ふむ。質問を変えるとしよう。こちらに来る前のおぬしはどうであった?」

「どうって……ボクシングで世界王者を目指して……いた?」

「世界王者とな。おぬしはいつからボクシングは始めたのか?」

「十七歳の頃からジムに入って……最初のスパーリングでいきなりKO……された? いじめられてた自分を変えるために、強くなるために?」


 公時の頭に嫌な光景が浮かんで来る。栄光に満ちたプロボクサーのそれではなく、弱くて地味な男の姿だった。


「そう言えば彼女がいたそうじゃな。どこで知り合った?」


 遠くから女媧の声が聞こえてはっとなる。


「……試合を観に来てくれたファン――いや、出会い系? 連絡先を交換して、ボクシングの話で盛り上がって……今日会うことになったけど……憂鬱で?」


 記憶が混乱していた。公時としての記憶とは違う記憶が混在している。


「とにかくこいつは俺じゃない。俺は……公時だ」

「ボクシングを始める前のおぬしは何をしておった? 幼き時の記憶はどうだ?」


過去の記憶が色々と浮かんで来る。だがその記憶は公時としてのものではない。


「こんな記憶は……そう言えば、さっき空亡が言ってたよな。この世界はあらゆるものが変わるって――そうだよ! 免許証が誰かの物に変わったんじゃないのか?」

「本当にそう思うか? おぬし、そやつの記憶があるのであろう」


 女媧の詰問に公時は押し黙った。女媧の言う通りだったが、それを認めることは出来なかった。


「落ち着いて考えよ。現実と向き合うのは辛いかも知れぬが、元の自分を否定してはいかん。そうしないと――」

「うるせえ! お前らの言うことなんか、そもそも信用できるか!」


 公時は叫び声と共に走り出し、天岩屋の左側にある路地に消えていった。この場から――何もかもから逃げ出すかのように。


「僕は別にこっちも、嫌いじゃないんだけどなあ」


 公時が走り去るのを黙って見ていた空亡だったが、女媧の手から免許証を取ると、ひらひらさせながら言った。


「そうじゃな……哀れなやつよ」

「向こう側で耐えきれず、こっちに来てしまったのかな」

「それよりどうするのか? このままでは悪鬼に墜ちるやもしれんぞ」


 女媧が問いかけると、空亡は首を傾げた。


「ええとね。状況的にも論理的にも、公時を追い込んだのは君だと僕は踏んでいるんだけど」

「聞いたことのない論理だの。遅かれ早かれ知ることになるのなら、早いほうが良いであろう。それにあやつが悪鬼になって困るのはおぬしではないのか? おぬしも使命を投げ出し、悪鬼となりたいのか」

「君に退治されるのは、まんざらでもないけど」

「――追いかけるぞ」


 言うや否や、女媧は公時が走り去った方へ駆け出した。


「おせっかいだなあ。まったく、僕よりも案内人に相応しいじゃないか。叶うのであれば。そんな君の初めてになりたかったよ」


 ぞくぞくと身を震わせながら、空亡は呟く。

 空亡は公時のショルダーバックを拾い上げると、ゆっくりと女媧の後を追った。

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