女媧

 気持ちの良い風が吹いている。

 公時はとあるビルの屋上にいた。心地良い風とは裏腹に、眼下には不愉快な光景が広がっている。

 見渡す限りの建物が整然と並んでいた。整った街並みとは裏腹に、建物の種類は様々であまり統一感はないようだ。建物同士の間隔は狭く、まさに密集していた。

 広い通りは見当たらず、全てが狭く路地裏のような感覚だ。それが延々と続いている。誰が創ったか知らないが、よくもまあこんな陰鬱な世界にしたものだ。


 高い所から見渡せばどこか見知った場所があるかと思った。出口とは言わないが、帰り道が分かるかもしれない――そんな希望は打ち砕かれた。

 見知った風景はそこにはなかった。富士山や東京タワーなど、分かりやすく目印になる建物すら視界には映らない。


 このビルも不自然だった。かなり大きな建物だが店舗などは一切入っておらず、中に人の姿はなかった。かといって廃ビルなのかと言われたらそうではなく、内部は綺麗でエレベーターなどの設備がちゃんとあり、稼働もしていた。

 誰も使っている気配はないが、管理はしっかりされているのだろうか。今の所、空亡以外に人の姿は見ていない。

 他に誰もいないと思うとぞっとした。いるのが妙な案内人を名乗る男だけというのは笑えない。


「急に屋上へ行きたいというから何だと思ったけど、僕はまだ死ぬのは早いと思うよ」

「……誰が死ぬかよ」


 気落ちして元気をなくした公時を見て、空亡は言った。今にも飛び降り自殺でもするように見えたのだろうか。

 屋上は金網で囲まれていた。高さはそれほどでもないので、乗り越えられなくはない。もちろん公時は飛び降りるつもりなどなかった。


「どうかな。この世界ってやつが、少しは分かったかな?」

「……悪趣味な世界ってことは分かったな」


 とりあえず今いる場所が、自分が住んでいた所と違う場所であることは分かった。どこにいるのか全く検討もつかない。


「そう言えばお前、さっき戻る方法がどうとか言ってたよな?」

「お前だなんて、空亡って呼んで欲しいな。公時は元の世界に帰りたいのかい?」


 公時は力強く頷いた。自分はボクシングの世界王者を目指しているのだ。こんな所で時間を取られているわけにはいかない。一刻も早く戻りたかった。

 空亡は金網付近に立つ公時の脇に立つと、指である方向を示した。空亡が指し示す先には、一際高い建物が立っている。


「焼却塔……?」


 そのような感じの建物に見えた。建物は真っ白で細長く、高い塔のようだった。


「あそこに行くんだ。そうすれば君がこの世界から出る方法が分かる」

「……どうしてそう言い切れる?」

「公時はゲームとかやるかい? 大体の物語は、王様の話を聞く所から始まるものだよ」

「王様?」

「あ、それともお腹空いているかい? それならお勧めのお店があるよ」


 公時は大きく首を振った。食べ物屋とかあるのかと思ったがそれは後でいい。


「そうじゃない。あそこに……ここの王がいるのか?」

「厳密には違うよ。例えて言うなら、って所かな」


 空亡は右上に視線を向けつつ言った。


「そいつがこの世界を創ったやつなのか?」

「創ったかどうかは分からない。この世界のラスボスというわけではないから、倒した所でハッピーエンドにはならないよ」


 拳を強く握る公時を見ながら空亡は言った。


「ここに来た者は皆、最初にあそこに行ってこの世界での仕事を与えられる。その仕事を達成することで、この世界から出ることが出来るのさ」

「……仕事って、何をすればいいんだ?」

「僕の場合はさっき言った通り、こちらに来た人を案内することさ。君の仕事が何かは、あそこに行かないと分からない。ここにいても時間が勿体無いし、君の案内人としての初仕事をさせて貰いたいね」


 仕事とは何だろうか。この男は案内が仕事だと言うし、一体何があるのだろう。

 そもそも本当にそんなことで元の世界に戻れるのだろうか。未だにこの世界が別の場所ということも信じられない。空亡という男もさっき会ったばかりだし、見た目も言動も存在全てが胡散臭い。こいつが騙しているのでは、とも思える。


 どうするべきなのか、公時が考えている時だった。


「なんじゃ、誰かと思ったら空亡か」


 背後から若い女性の声がした。声はやや上の方から聞こえて来たようだ。

 公時が振り返ると、そこには四角い形をした貯水槽があった。その上に人影が立っている。声の主のようだが、逆光のせいで姿はよく見えない。


「やあ、女媧じょか。百二十年ぶりになるかな?」


 空亡が貯水槽の方に近づきながら声をかけた。どうやら知り合いのようである。

 この世界には他にも人がいたようで少しほっとする。公時もとりあえず空亡の後に続いた。 


「相変わらず適当なやつよ。一昨日も会うたと思うが」


 貯水槽の梯子を降りながら、女媧と呼ばれた女性は背中越しに言った。


「そうだったかな。相変わらず君はトゲアリトゲナシトゲトゲみたいだね」

「美しい薔薇には棘があるってことかの、っと」


 女媧は梯子から降りきる前に地面に飛び降りた。そして二人の方に振り返る。


「こんな所で何をしていたんだい?」

「うむ。伏義ふっきを探しておったのだが……ん、なんじゃ、見知らぬ顔がおるな」


 女媧は訝しげな顔をすると、見上げるように公時を見た。

 女性は思わず息を飲むほどの美しさだった。年齢は十七、八ぐらいだろうか。身長は一四〇センチ程で、かなり小柄だった。髪型はツインテールで腰ぐらいまでの長さがある。髪の色が特徴的で、真ん中から綺麗に白と黒で別れていた。目尻は少し上がっており、気の強さを感じさせる。

 服装は赤いパーカー姿で、身長の割に服のサイズが大きいようだった。パーカーの前は開いており、その下には下着のようなものしか着ていない。背が小さくて可愛らしい印象だが、身体は幼さを感じさせない立派なものだ。

 ほとんど痴女のような姿だが、不思議と気高さを感じさせた。


「彼は公時だよ。何とね、さっきこの世界に来たばかりなんだ」


 空亡が嬉しそうに公時を紹介する。その言葉に、女媧に見とれていた公時は我に返った。


「ふむ。来訪者とは珍しいの。しかし……肉ばかり食べて育ちました、といった感じをしておるな」


 女媧はじろじろと公時を見ながら言う。かなり棘のある言い方だった。背の低さにコンプレックスでもあるのだろうか。もしくはこの世界の住人は皆、性格が捻くれているのかもしれない。


「おい、空亡。この娘は?」

「ああ、ようやく名前で呼んでくれて嬉しいよ。彼女は女媧と言ってね、僕の古くからの友達だよ」

「友とは良く言ったものよ。ただの腐れ縁であろう」


 女媧は腕を組みながら、胸を反らした。心外と言った表情だ。


「え? まだ君とは関係を持ったこともないし、未だ友達以上にはなっていないはずだよ」

「何を馬鹿な……! そういうことではない! そもそもおぬしは……」


 女媧は顔を赤らめ、下を向きながらもごもごと呟いた。こんな見た目だが、意外と純粋なのかもしれない。


「そうだ。今から公時と天岩屋あまのいわやに行くのだけれど、良かったら女媧も一緒にどうかな」


 空亡はそんな女媧を気にすることなく、名案を思い付いたかのように手を叩いた。

 天岩屋とはさっきの塔みたいな建物のことだろうか。王のような存在がいる所にしては、まるで和菓子屋のような名称である。

 空亡はまるで決定事項のように言っているが、公時はまだ行くとは言ってなかった。


「ん? そうか、こやつの使命を聞きに行くのか」

「使命だなんて、君は相変わらず大袈裟な言い方をするなあ。まあ僕にとっても彼を案内しないといけないからね」

「おい、ちょっと待て空亡。勝手に話を進めんな!」


 思わず声を荒げた公時の方に、二人は顔を向けた。


「どうしたんだい、そんな大声出して?」

「俺は……まだ行くとは言ってない……」


 顔を逸らす公時を見て、空亡は納得したように手を叩いた。


「ああ、なるほど。公時は僕のことが全く信用出来ないわけだ。でもね、例えば君は知らない土地で道に迷ったら、人に道を聞かないのかい?」

「それは……聞くだろ」

「知らない土地で初めて会った人の道案内は信じるのに、僕の言うことは信じられないのかな。論理的に矛盾しているよ。親切な僕は、ただこの世界で迷っている君に道を教えてあげてるだけなんだよ」


 何だかもっともらしい言葉で言いくるめられてるように感じた。

 自分から道を聞くのと、相手から話しかけられてくるのでは、そもそも警戒の度合いが違う。こいつがやっているのは、街中で絵を見に来ませんかと店に引き込んで、後から売りつけるのと同じではないだろうか。


「親切かどうかは知らんがの。恩着せがましいやつよ」


 呆れたように女媧は言う。


「まあ、こやつが信用出来ないのは良く分かるがの。ただ、こやつは善意もなければ、悪意の欠片もないやつよ。それゆえにたちも悪いが」

「これはフォローされているのかな? 何か酷い言われようだけどまあいいか」


 空亡は帽子の上から頭を掻きながら公時を見た。


「そういうわけで、騙すつもりは全くないけど騙されたと思って、ね? 天岩屋は陽が暮れる前には行かないといけないんだ」


 空亡の言い方はあれだが、確かにここにいても進展はない。こんな路地裏だけの世界で、一人帰る道を探すことも難しそうだ。それこそ道に迷ってしまう。

 天岩屋がどんな場所か分からないが、とりあえず行くだけなら害もないだろう。何かしら騙そうとしていたとしても、空亡相手なら力で捻じ伏せられそうだ。

 警戒はしつつも、空亡の提案を受け入れることにした。


「……分かった。行ってやる」

「おお、ありがとう。これで僕の仕事も捗るということだよ」


 千人中の二人では、一歩どころかほとんど進んでないように思えるが、本人が喜んでいるのであればいいのだろう。


「じゃあまずは三人の出会いを祝して、食事にでもしようか。お勧めの店があるんだ」

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