裏ロジック
どくむ
第一章
路地裏の世界
無闇に路地裏に入ってはいけない。
――なぜならそこは、別の世界に繋がっているから。
ボクシングジムに向かっている途中だった。ジムは家から徒歩十五分程で、商店街にある路地裏を出たらすぐの場所にある。ここはジムへの近道で、いつも使っていたのだ。
その裏路地を抜けて通りを挟んだ向かいに、見慣れたジムの建物が――なかった。
年季の入った古びた建物には、ジムの名前が入った錆びた看板が掲げられてある。一階が練習場で、ガラス窓からはリングや練習風景が見える。何年も通ったジムがそこにはあるはずなのだ。
そのはずなのに――路地裏を抜けたと思った先には、また路地裏に続いていた。
道を間違えたのだろうか。いや、何百回と通って来た道だ。間違えることがあるだろうか。
公時はショルダーバッグを担ぎ直す。中にはボクシング道具が入っていた。ジムに行く途中だったので、ジャージ姿である。
とりあえずしばらく道を進んでみる。
何の変哲もない路地裏だ。昼間なのに薄暗く、薄汚れた壁に挟まれた陰気な路地。
ただ、いつも通っている道ではない。
一旦引き返してみよう。そう思った時だ。
向こうから人影がこちらに近づいてきた。人がいることに公時は少しほっとする。その場に立ち止まり、その人物が通り過ぎるのを待とうとする。
しかし、向かってくる人物は公時の少し前で立ち止まった。公時をじろじろと観察するように見た後、声をかけてきた。
「やあ、今日も来た甲斐があったね。この世界にようこそ。僕は歓迎するよ」
立ち止まった人物はハスキーな声で朗々と語った。
つばが広い帽子を目深に被り、ワイシャツとスラックスといった出で立ちだった。身体は一六〇センチぐらいと男性にしては低かった。髪は黒く顎ぐらいの長さで、毛先が外側にはねていた。
帽子のせいで顔はあまり良く見えないが、中性的な顔立ちをしている。服装から察するに男性のようだった。
公時は眉間に皺を寄せた。意味不明なことを言っている。裏通りにはこういった危ない人物も、たまにはいるのだろう。
関わってもろくな事がない。無視して元来た道を引き返そうと公時は思った。きっと道を間違えてしまったのだ。
「もう戻れないよ」
公時が立ち去ろうとすると、男は言った。
「あ?」
男の笑みを含んだ声にむっとした。男に詰め寄り、睨みつける。公時は身長が一九〇センチ近くあるため、見下ろすようになった。
そんな公時にも男はまったく怯んだ様子はない。
「戻れないってどういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。元来た道を戻っても元どおりにはならない」
「お前何を言って――」
「言いたいことは分かるよ。試しに振り返って道を進んでみるといい。説明するよりも、体験した方が早いからね」
男は公時の後ろをすっと指差した。
公時は振り返り、男の指差す方を見た。公時が通ってきた路地裏が続いている。元来た道を戻れば、元の場所に戻れるのは当たり前の話である。
言われるまでもなく、元々引き返すつもりだった。公時は男に何も答えず振り返ると、薄暗い路地裏を進んだ。
戻った先には小さな商店街がある。ほんの少しの距離で着くはずだった。
少し歩いた所で、公時は呆然と立ち尽くした。大して暑くないのに、じんわりと背中に汗をかいているのが分かる。
戻った先は行き止まりだった。そこにあるはずのない、高い壁が目の前を塞いでいる。
公時は壁に駆け寄った。大きなビルのような建物だ。押しても全く揺るがない重量を感じる。両側も建物で塞がれているため、抜ける道も見当たらない。
文字通り出口がどこにもなかった。
「どうだい。
ゆっくりと男が歩いて近づいて来た。
「これは……どういうことだ?」
公時は頭だけ振り返り尋ねる。
「ここはね、そういう場所なんだ」
「そういう場所……?」
男は帽子のつばを人差し指で上げた。
「ここはね、路地裏から繋がる世界なんだ。入ったらもうほとんど出られない」
「路地裏……?」
確かに近道のため路地裏を通ってきた。が、それがどうだというのだ。
「この世界ってどういうことだ?」
「路地裏の世界さ。君が暮らしていた世界と繋がってはいるけど、隔絶された世界なんだ。異世界かと言うと、そういう訳でもないね」
「……意味が分かんねえぞ」
公時は凄んだ。路地裏を歩いていただけで、違う世界に行くなど馬鹿げているというか、普通はあり得ないことだ。
男は首を傾げた。少し思案を巡らせているようだ。
「戸惑うのは仕方ないね。それにしてもこうして人が迷い込むのは八千年振りかな」
「八千年!?」
「いや、八十年だったかな。細かいことはあまり覚えてないんだ」
一体何を言っているのか。
男はどう見ても二十代ぐらいにしか見えない。やはりからかっているのだろうか。
「そうだ。スマホ……!」
スマホの地図で位置を見ればすぐに分かる。普段出会い系にしか使ってないが、こういう時こそ使うべきだろう。
ジャージのポケットに入れたスマホを取り出す。指紋認証ですぐに画面が開いた。
地図アプリをタップする。すぐにアプリは起動した――が、自分の位置を示すアイコンの周りは全くの白紙になっていた。
そもそも携帯も圏外になっている。
「なんで……!」
地図をスクロールするが、延々と空白で埋め尽くされていた。
スマホが壊れたのだろうか。試しに他のアプリを起動してみたが正常だった。電波がないため、ネットで検索も出来ない。
「地図を見れば位置が分かる。来た道を戻れば、普通は元の場所に戻れるよね。とても論理的だ。でもここでは通じない。ここにはここの理というかルールがある。そのルールも
「一体なんなんだよ……」
「まずは自己紹介をしようか。僕らはあまりにお互いを知らなさ過ぎる」
男はうなだれる公時にニコニコと微笑んでいる。そしていきなり自己紹介を持ちかけてきた。
「僕は
「それだけかよ!」
公時は思わず突っ込んでしまった。もっと言うことがあるだろう。
「まあまあ。一問一答と行こうじゃないか。僕は名前を答えた。君は?」
「……公時だ」
「公時か! 君はイッテルビウムみたいな顔をしているけど、性犯罪でもしてここに来たのかい?」
「どんな顔だよ!」
イッテルビウムがなんなのかは分からないが、とても馬鹿にされていることだけは分かった。
「どうやらここは、色んな迷いを抱えた人が迷い込むような世界なんだ。だから、ね」
だからなんだ。性犯罪を犯したことに、悩み迷ったような顔に見えたというのか。
プロボクサーなので一般人を殴ったりはしないが、こいつだけは凄く殴りたかった。
「……俺はボクサーだ。ジムに通う途中だったんだ。お前は何だ?」
公時は髪は黒く短髪で、見た目はヘヴィ級の体格だ。もちろん空亡が言うような性犯罪者ではないが、一般人から見たら見た目からして怖く映るのは事実だ。
年齢は今年で十九歳になる。十七歳でライセンスを取得して以来、戦績は――確か十戦十勝十KO。日本人ながら、重量級で世界を狙える逸材と目されていた。
「お、良い流れを踏んでいるじゃないか。僕はここの案内人をしている」
「……案内人?」
「そう。こちら側に来た人を案内することが僕の仕事さ。ここは初心者には少々厄介な場所だからね。まずはこの世界について説明しておこう」
空亡と名乗る男は勝手に語り始めた。
「まず一つ。この世界は君がいた世界とは違って、あり得ないことがあり得る」
「なんだよそれは?」
「言ってるままだからしょうがない。何があっても驚かない心構えをしておくことだね」
あり得ないこととは何だろう。そもそもここが別の世界ということ自体があり得ないが。
「二つ。この世界はあらゆるものことが変質する」
「変質?」
「そう。君は変質者に見えるけど、そういうことじゃない。極端に言えば――そうだね。性別が変わったりすることもある」
「……お前ちょいちょい人を馬鹿にするな」
「そんなことはない。少し
悪口に気を取られていたが、男はとんでもないことを言っていた。
「性別が……変わるって?」
「極端な例だよ。この世界ではそういうことが起こり得る、という例えさ」
「この世界、この世界って何なんだよ!」
未だにこの男がふざけてからかっているとしか思えない。だが、元の場所に戻れなかったという事実や、携帯の件など裏付ける証拠もまた事実としてあった。
「この世界はこの世界さ。路地裏の世界。延々と続く路地裏と、通常ではあり得ない理が支配する世界さ」
元々脳筋なだけに、男の言い回しや、言っていることに頭が追いついて来ない。
「……それで全部なのかよ。他に何かあるのか?」
「ああ、大事なことを忘れていたよ。この世界から出る方法について話さないとね」
公時は目を見開いた。出る方法があると言うのか。
「お前……ここから出れるのか?」
「あれ、言ってなかったっけ。ほとんど出れないって。それはつまり出れるってことにならないかな」
「出る方法があるんだな!?」
公時は詰め寄らんばかりの勢いだった。
「もちろんだよ。試しにそこの壁に何百億回とぶつかれば、壁を抜けられることもある。確率的にはほぼゼロに近いけどね。抜けた先がどこになるか分からないし、あまりお勧めは出来ないかな。それよりもちゃんとここのルールに沿った方法があるんだ」
「方法……?」
「ああ。ただしそれは人によって異なる」
空亡はこくりと頷いた。
「例えば僕の場合。僕は人を千人案内すれば、外の世界に出ることが出来る」
「……千人?」
それが現実的な数字なのか、そうでないのか公時には分からなかった。
そもそも案内ということも曖昧だし、千人を案内したら元の世界に戻れるということも、意味が分からない。
「それで……お前は今まで何人案内してきたんだ?」
「うん、いい質問だ。そうだね、今日は記念すべき日だ。君も是非祝って欲しい」
まさか千人目なのか。
空亡は少し俯いてから顔を上げると、満面の笑みを浮かべた。
「君で二人目さ!」
両手を大きく広げ、嬉しそうに言い放った。
公時はこの世界がどうのより、この空亡という男こそ意味が分からないと思った。
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