覚醒
あっという間にインターバルは終了し、何の対策も持たないまま、戦いは再開された。
もはや公時に戦う意思はない。デイダラが近寄ると距離を取って逃げるの繰り返しだった。公時から攻撃をすることなく、逃げ惑うだけの展開となる。
第二、第三ラウンドと同じ展開が続く。煮え切らない展開に病鬼も苛々し始めていた。空亡は責めるようなことは言わないが、どう思っているだろう。
「無様だねえ、空亡。このままだったらあんたの負けは確定だよ?」
病鬼が挑発してくるが、空亡は答えなかった。成り行きをただ黙って見守っている。
空亡に無視され、病鬼は舌打ちをした。デイダラに向かって何かを言っているが、距離があるため公時には聞こえなかった。
三度目のインターバルも終わり、第四ラウンド目に突入する。
公時はもう逃げ出したい気分だった。このまま続けていても何も変わらない。いっそのこと見逃してくれないだろうかと思う。
第四ラウンドもまた同じような展開が続くかと思われたが、開始と同時にデイダラは意外な構えを取ってきた。
腰を落とし両腕を広げて、じりじりと公時に迫ってくる。長い両腕が道を塞ぎ、ほとんど逃げ場がなかった。後ろに下がるか、何とか掻い潜り左右どちらから抜けるしかない。
公時は焦った。まさかこんな知恵があるとは思わなかったのだ。さっきのインターバルで病鬼がデイダラに何か言っていたが、これを指示していたのだろうか。
何にせよまずい状況だ。このまま後ろに下がり続ければ空亡たちを巻き込んでしまう。病鬼側に回り込めれば、この手は使えなくなるかもしれない。
公時は意を決してデイダラに向かうと、右腕を抜けようとフェイントをかけてから、デイダラの左腕を潜り抜けた。
公時の素早さに付いてこれないのか、意外なほどあっさりと包囲を突破することが出来た。
しかし、それは誘いの罠だったのだ。
デイダラは身体を素早く回転させると、右腕でバックブローを放つ。
公時は走り抜ける勢いで躱そうとするが、完全には避けきれない。まるで交通事故に遭ったかのような衝撃が身体を襲った。
公時の身体は吹き飛び、壁に叩きつけられた。壁がまるでトランポリンのように、公時の身体を跳ね返す。
勢いよく地面に叩きつけられ、公時の身体は転がった。
「上手くいったね! 次でもう終わりだよ。いや、もう立てないかもしれないねぇ!」
病鬼の喜びようは、もはや狂喜に近い。
「がっ……はぁっ!」
公時は四つん這いになって身体を起こす。生きていることが不思議なぐらい、甚大なダメージを負ってしまった。身体を強く打ち付けたせいで息が出来ず、思わず咳き込んだ。身体の中から熱く込み上げてくるものがあり、たまらずに吐き出した。
夥しい血が地面に広がる。公時は死を感じて、頭が真っ白になってしまう。
全身が痛かった。頭部からも出血している。内臓も痛めており、いくつか骨も折れていそうだった。
「おや、人間にしては意外としぶといね。でも後一回で終わりだよ。せめて立つまで待ってやるから、早く立ちな」
病鬼は勝利を確信したかのようだった。それもそうだろう。公時は立ったところで満足に動けそうもない。もう攻撃を躱すことも出来ないし、こちらの攻撃は文字通り通じない。
もはや八方塞がりだった。出来ることは自ら転んで楽になることぐらいだろうか。
「ああ、腰が痛い。一体、ここはどこですか?」
急に場にそぐわない呑気な声が聞こえた。ようやく目を覚ましたのか、果心が腰を抑えながらゆっくり立ち上がる。
「やあ、起きたのかい。老人は朝が早いと聞いていたけど、まだ丑三つ時だよ」
「何やら騒々しくて目が覚めましたが……何も見えませんね。何が起こっているのか、説明してくれますか?」
空亡は果心にここまでの経緯を、掻い摘んで説明した。
「なるほど。それでデイダラと戦っているというわけですか。どうやら状況はかなり悪いみたいですね」
果心は眼鏡を外し、辺りを見回した。地面に倒れている公時を見つけ、訝しげな表情を浮かべた。
「公時君、どうしたんですか。君はなぜそんなに苦戦しているんです?」
「なぜって……こいつを見れば分かるだろうが」
果心は何を言っているのだろう。まるで苦戦していることがおかしいと言いたげだが、目の前の化け物を見れば納得出来るはずだ。
公時は片膝を立て、腿に腕を当てて何とか身体を起こした。立ちはしたが、膝が笑っている。
「女媧は君を木偶の坊と言ったが、そんなことはありませんよ。君は素晴らしい力を持っているのだから、ちゃんと使いなさい」
果心は老人が若者を諭すかのように言った。
力とは何だろう。果心が持つ炯眼や、伏犠の天眼といったもののことだろうか。果心の様子からすると、公時も何らかの力があるようだが、それが何だか分からない。
「そんなに問い詰めないでやってくれ。公時は真名の自分自身が分からないんだよ」
「ほう。それはまた難儀なことですね。このままでは死んでしまいますよ。私から教えて上げても良いですか?」
「命の危機に自然と力に目覚める展開を望んでいたけど、そう上手くはいかないね。まあ、状況的にはかなり盛り上がったし、好きにしてくれて構わないよ」
「全く、君は本当に生粋のマゾヒストですね」
果心はため息混じりに呟くと、公時に向かって言った。
「公時君、君の真名に宿る力の名を教えましょう。名が分かれば使えるはずです」
「真名の力……それって一体――」
「デイダラ! さっさとやっちまいな!」
それまで成り行きを静観していた病鬼が叫ぶ。
病鬼の指示にデイダラがのそりと動き出す。相手が動かないと分かっているのだろう。デイダラはゆっくりと公時の前に立った。
そして大きく右腕を振りかぶる。それが振り下ろされた時、公時は間違いなく死を迎えるはずだ。
「力の名は『矛盾』です。その
力が矛盾と言われ、公時は戸惑った。確か中国の故事で、論理の辻褄が合わないことを言う言葉ではなかったか。それが一体どんな力なのか、まるで検討がつかない。
そんな公時にはお構いなしに、デイダラは死の鉄槌を振り下ろす。
ああ、死ぬんだなと公時は思った。デイダラの動きがスローモーションのように見える。頭の中には様々な記憶が駆け巡っていた。これが走馬灯なのだろう。死を間際に公時は他人事のように冷静だった。
矛盾――辻褄が合わないといえば、ここに来てからの記憶がそうだ。なるほど公時には皮肉が効いた力である。
自分が死んだら空亡も死ぬつもりなのだろうか。何も死ぬことはない。あいつは嘘つきだし、きっと口八丁で乗り切るだろう。
しかし、もし本当に死んだとしたら、自分のせいのようで気持ちが悪い。だがこの攻撃を防がない限り、どうしようもない。
この攻撃を防ぐ方法があったら――
次の瞬間、辺りに鈍い音が響いた。病鬼は歓喜の表情を見せたが、次第に怒りの表情となった。唇を強く噛み締め、身体を震わせる。
「ねえ、
「全く、あなたは何を気持ち悪いことを言ってるんですか」
空亡は嬉しそうに笑いながら果心に目を向ける。果心は目を閉じ、口元を緩めた。
「……ギリッギリ、思い出したぜ!」
公時は血だらけの顔に会心の笑みを浮かべた。身体を守るように、左腕を前に構えている。その左腕には薄っすらと青白い光が宿っていた。
死の際、人は生き延びる為に過去の記憶から助かるための手段を探るという。公時はまさに生死の狭間で、自分が持つ力を探り出したのだ。
左腕に宿る力――それこそが矛盾の『盾』だった。どんな攻撃をも防ぐと言われている、論理に合わない力である。
目の前には膝を付き、右腕を抱えるデイダラの姿があった。最強の盾に攻撃を防がれた際、自身の力を押し戻され腕があらぬ方に曲がってしまったのだ。
「形勢逆転だな。立つまで待ってやるよ。どうせ次もまた大きくなるんだろ?」
公時は太々しい態度を見せた。正直な所、立っているのも辛い。
デイダラは屈辱によるものなのか、全身に怒気をはらんでいた。自分より小さな存在に倒されたことが、腹に据えかねたようだ。
咆哮と共にデイダラが立ち上がる。空気の振動が公時の身体に伝わってきた。もはや折れた腕の痛みは感じていないようだった。
「なんつーでかさだよ……」
立ち上がったデイダラは、巨人と言えるほどの大きさだった。三階建てのビルぐらいの高さがあるだろう。その冗談のような巨大さに、恐ろしさを通り越えて思わず笑いそうになる。
デイダラは公時を踏みつぶそうと足を上げた。単純だが、その威力は容易に伺い知れる。
公時は左腕を右肩に当て、右腕をぐるぐると回転させ始めた。その動きに合わせて、紅い光が丸い軌道を描く。まるでテールランプの残像が尾が引くようだ。
デイダラの足が振り下ろされる。
それに対抗するように公時は右足を思い切り踏み込むと、回転の勢いのままに、斜め上目掛けて宙空に拳を放った。
「吹き飛びやがれ!」
公時の拳から紅い一筋の光が放たれる。遅れて衝撃波と轟音が広がった。
光はまるで矛のような形状で、デイダラの腹に突き刺さる。デイダラは身体を丸め耐えようとするが、片足が浮いた状態では堪えきれず、巨体が宙に吹き飛ばされた。
光の矛はそのままデイダラの上体を弾き、彼方へと消えていった。巨体が背を反らしながら宙を舞う。
デイダラは空亡たちの頭上を越えた先に落下した。激しい音と共に土煙が舞う。倒れる際に周囲の建物も巻き込まれ、少なからず建物が崩れた。
「いやあ、ここまでとはね。僕らの上に落ちて来てたら死んでいたよ」
空亡が服の埃を払いながら、にこやかに笑う。
これが矛の力か。自分でやったこととは言え、ここまでのものだとは思わなかった。直接拳が触れていない状態でこの威力だ。本来の破壊力は計り知れない。
最強の矛と盾。その二つを持つ公時は、まさに矛盾した存在である。
「これで……終わったのか」
ともかくこれで三度転ばせることが出来たのだ。終わったことに安心したのか、急に身体の痛みを感じ始めた。あの巨人の攻撃をまともに受けたのだ。かなりの重傷に違いなかった。
倒れそうになる公時を果心が支えた。気づくと、三人が集まって来ていた。
「お疲れ様、公時の勝ちだね。人生初のKO勝利はどうだい? セコンドが優秀だったおかげと、コメントしてもいいんだよ」
「馬鹿言うな……」
空亡はマイクを握る手を作り、公時に向けた。
公時は急に感慨深くなって、目線を逸らした。初めて、それも規格外のKO勝利だった。
「これで調伏完了だねぇ。次からはもう少し安全に頼むよぉ」
伏犠に言われてデイダラを見ると、身体が縮んで人の姿に戻っていた。見たことはないが、普通の男性だ。
誰なのか確かめる間も無く、男性は光の粒子となって公時の身体に吸い込まれてしまった。
これが二度目の体験ではあるが、やはり気持ちの良いものではない。これは簡単に慣れるものではないと思う。
「さて、と。これで試合は終わりだね。病鬼、約束通り君も調伏させて貰うよ」
空亡は病鬼に顔を向ける。病鬼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「はっ! 試合を受けることほ約束したが、私が調伏されるなんて約束してはいないよ!」
「あれ、そうだっけ。僕としたことがうっかりしていたね。公時が戦いやすい条件を勝ち取ることに夢中で、勝利後のことは抜けていたようだよ」
空亡は片手で帽子を押さえながら言った。目元は隠れて見えないが、口は笑っているようだった。
「まあ、そんなことはどっちでもいいけどね」
空亡は病鬼が約束を破ることなど気にしてない様子だ。逃がさない自信があるのだろうか。
その様子に病鬼はたじろいだのか、逃げ腰となった。普段は飄々としているが、今の空亡からは得体の知れない恐ろしさを感じる。
「なんじゃ、五月蝿いと思うたらやはりおぬしらか。こんな時間に近所迷惑を考えんか」
病鬼の背後から聞き慣れた声がした。暗闇の中から、歩く痴女かゆっくりと姿を現わす。
声に驚いたのか、病鬼は振り返った。女媧の姿を捉えると、様子を伺うように睨みつける。
もう一人、声に反応して身を縮めて隠れようとした者がいた。もちろん身体が大きいので、隠れようはないのだが。
「……ふむ。どうやら儂は無駄足だったようじゃの。そっちは後にするとして……この有様は何なのだ」
伏犠の姿を見て、女媧は目を細めた。空亡たちに説明を求める。
空亡がそれに答えようとする前に、病鬼が素早く動いた。女媧に向かって走り出す。人質にして逃げるつもりかもしれない。
何より病鬼に触れられたら、女媧も病にかかってしまう。公時は身体を動かそうとするが、上手く身体が動かなかった。それにこの距離ではとても間に合わない。
しかし、当の女媧は平然としていた。
病鬼が女媧に飛び掛かる。しかし、彼女の思惑のようにはならなかった。
女媧の前にまるで見えない壁でもあるかのように、飛び掛かった病鬼が弾かれたのだ。
病鬼は空間に跳ね返され、背中から倒れた。慌てて上体を起こすが、何が起こったのか分からない様子で、狐につままれたような顔をしている。
「不可侵。それが女媧の力だよ」
空亡たちはゆっくりと病鬼の背後に立った。前後に囲まれ、逃げ場が塞がれた形だ。
「彼女は誰も侵入出来ない空間を作ることが出来るのさ。公時が盾なら、女媧は城砦といったところかな」
誰にも落とされたことがない砦とはよく言ったものだ。まさに難攻不落である。
「さて、鬼ごっこは終わりにしよう。君も調伏させて貰うよ。ほら、公時」
空亡は病鬼を見下ろした。もう逃げられないと覚悟を決めたのか、病鬼は唇を噛みながら俯いている。
「人使いが荒いな。こっちは重症だぞ……」
「おや、まだ痛いですか? 怪我そのものはもう治っていると思いますよ」
果心に言われ、公時は自分の身体を確かめた。顔や服は土と血で汚れているが、痛みはいつの間にか消えていた。
「眼がいいだけでは医者になれませんからね。私は他に『
いつの間に治療をしたのだろう。あれだけの大怪我がすっかり治っている。やっと果心が医者ということに納得出来た。
公時は果心から病鬼を調伏する薬の瓶を渡された。これを飲ませれば、病に冒された街の人も救われるのだ。
「待て公時。そやつを調伏する前に聞いておきたいことがある」
女媧が公時を制した。
「おぬし、何故にこのようなことをした? 今回のことはおぬし一人で及んだことか?」
今回の事件のことを聞いているようだ。病鬼は長い間この街にいたようだし、誰も彼女を悪鬼だと思っていなかった。そのまま過ごすことも出来たはずだ。
なぜ今になって事件を起こしたのか。何か理由があるのだろうか。
しかし、女媧の問いに病鬼は何も答えなかった。
「ふむ。だんまりか……沈黙はすなわち裏があるということかの」
「あ、俺も気になることあるんだけど。さっきのデイダラって奴は――」
公時が続けて質問しようとした時、病鬼の周りに異変が起こった。
「おわっ! なんだこれ!?」
病鬼の身体を囲むように、ぼんやりと光る輪が現れた。よく見ると、輪は何十もの薄い長方形の紙で形作られている。
輪は病鬼の首あたりを囲んでいる。回転しながら、輪は少しずつ小さくなっていった。
病鬼は驚き、狼狽していた。この現象は病鬼が逃げるために何かをしたというわけではないらしい。
「これは式符か! まさか……!」
女媧が声を上げるとほぼ同時に、輪が一気に収束した。公時は目の前で起こった残酷な光景に、一瞬目を閉じた。
病鬼の首は切断され、頭が地面にごろりと転がった。
あまりの出来事に、公時は言葉を失った。悪鬼とはいえ、見た目はほぼ人と変わらない。それが目の前で殺されたのだ。
公時となり、肉体的にも精神的にも強くはなったとはいえ、この光景に吐き気を感じずにはいられなかった。
「そうか……街の者が言うておったな。悪鬼退治の専門家を呼んであると。のう、晴明」
女媧は言うと、上空へ視線を向けた。公時も吐き気を堪えながら、顔を上げる。
そこには巨大な折り鶴のような物に跨った、少年の姿があった。
裏ロジック どくむ @dokumu
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